OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

天皇陵 その四

天皇陵 その四

16代『仁徳天皇陵』・菟道稚郎子「宇治墓」・皇后磐之媛陵「ヒシアゲ古墳」・磐之媛小奈辺陵墓参考地「小奈辺古墳」・八田皇女宇和奈辺陵墓参考地「宇和奈辺古墳」、17代『履中天皇陵』、18代『反正天皇陵』反正天皇東百舌鳥陵墓参考地「土師ニサンザイ古墳」、19代『允恭天皇陵』、20代『安康天皇陵』、21代『雄略天皇陵』雄略天皇大塚陵墓参考地「河内大塚山古墳」、22代『清寧天皇陵』・飯豊青皇女陵『埴口丘陵』、23代『顕宗天皇陵』顕宗天皇磐園陵墓参考地「築山古墳」・顕宗天皇皇后難波小野女王陵西陵墓参考地「狐井塚古墳」、24代『仁賢天皇陵』、25代『武烈天皇陵』武烈天皇大塚陵墓参考地「新山古墳」

*天皇の和風諡号や陵名は『日本書紀』(以下『紀』)をベースにしています。(古事記は『記』)

陵、諡号等の基本知識は、『天皇陵』を参照ください。

天皇陵 - OSAKA-TOM’s diary

 

16代『仁徳にんとく天皇陵』

直近は2019年11月12日参拝。大阪府堺市堺区大仙町。第16代「大鷦鷯おおさざき仁徳天皇」の『百舌鳥耳原中陵もずのみみはらのなかのみささぎに治定されている。『記』では「御陵は毛受もずの耳原」とある。宮は『記紀』ともに難波高津宮なにわのたかつのみや。宮址については大阪市中央区天王寺区等諸説あるが、いずれにしても上町台地上に比定される。

(2014.9撮影)参道   外濠北西望     南東望       制札        拝所

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

陵は全国一の規模を誇る「大仙陵古墳(大山古墳)」としてあまりにも有名なので、説明は省きます。陵を取り巻く陪塚については、下記を参照ください。

大仙陵 陪塚 - OSAKA-TOM’s diary

なお、陪塚ではないが、大仙陵古墳南東の堺市北区百舌鳥本町にある御廟山古墳宮内庁により応神天皇の百舌鳥陵墓参考地とされている。5世紀前半とされる前方後円墳で、墳丘長203m、後円部径113m、前方部幅136m、各3段築成。南側に造出しがあり、かつては二重濠があったことが確認されている。陪塚は数基あったらしいが、万代山古墳もずやまこふんのみ現存。
また同時期の前方後円墳で、墳丘長約146mのいたすけ古墳がある。後円部径約90m・高さ約12.2m、前方部幅約99m・高さ約11.4m、各3段築成。南側に造出しがある。主体部の構造や副葬品などは不明。台地南端に位置するため、周濠南側には大規模な堤が築かれていた。陪塚は数基あったらしいが、善右ヱ門古墳のみ現存。1955年(S30)頃、住宅造成で破壊されそうになったが、市民運動により保存された。その際、後円部から出土した衝角付冑形の埴輪が、堺市文化財保護のシンボルマークになっている。

(2014.9撮影)御廟山南側東望 西側北望        いたすけ後円部南東望  前方部南西望

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応神天皇崩御後、大鷦鷯皇子(仁徳)異母兄の大山守おおやまもり皇子は皇太子になれなかったことを恨み、異母弟である皇太子=菟道稚郎子うじのわきいらつこ殺害を計画。大鷦鷯皇子はこれを察知し菟道稚郎子に伝え、大山守皇子は郎子の計略で返り討ちに遭う。大鷦鷯皇子と菟道稚郎子は互いに皇位を譲り合い、3年間空位となった。『紀』では皇位を譲るため菟道稚郎子が自殺し、仁徳天皇が即位したとある。異母兄弟とは言え、兄弟間の殺戮記事の初見である。なお京都府宇治市莵道丸山の丸山古墳が宮内庁により菟道稚郎子の「宇治墓」に治定されている。奈良市法蓮町1922-1に大山守皇子の「那羅山墓」がある。

(2017.5撮影)宇治墓制札  参道            拝所 

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民の竈から煙が立ち上っていないことを見て、3年間税を免除した話は有名だが、皇后の磐之媛いわのひめ(履中・反正・允恭天皇の母)の嫉妬深さについての週刊誌的な醜聞も『記紀』に記述があり、天皇家の人間臭い記事の初見でもある。なお磐之媛は、奈良市佐紀町のヒシアゲ古墳『平城坂上ならさかのえのみささぎに治定されている。陪塚として10基程あった、3基か消滅し、今は前方部南東角付近に飛地い号(大和21号墳=42mの円墳)航空自衛隊敷地内にり号(大和17号墳=25mの方墳)・ぬ号(大和16号墳=20mの方墳)等が残る。5世紀中葉~後半の前方後円墳で全長219mは全国24位、後円部径125m・高さ16.2m、前方部幅145m・高さ13.6m、各3段築成と推定される。周濠は前方部中央付近南側で内濠幅30m・内堤幅20m、外濠幅20m・外堤幅12m。1993年の調査で、後円部東側くびれ部相当の内堤の外法肩部分で円筒埴輪列が見つかった。また外濠を横断する渡堤の存在も確認された。一部遺構復元がなされ後円部周堤東側に複製埴輪が立てられている。江戸中期の幕府による元禄の陵墓修築では、平城天皇「楊梅陵やまもものみささぎ」とされた。その後、『紀』仁徳37年条の「乃羅山ならやまに葬られた」との記述から、1875(M8)年に磐之媛命陵に治定された。、

(2015.11撮影)制札  参道西望      拝所遠景東望    拝所        陪塚位置

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なお、すぐ南東の奈良市法華寺町の小奈辺こなべ古墳宮内庁により磐之媛の小奈辺陵墓参考地とされている。5世紀前半の前方後円墳で、全長204mは全国31位。前方部はほぼ南を向く。後円部径125m・高さ20m、前方部幅129m・高さ17.5m。後円部東の航空自衛隊敷地内に飛地い号(大和20号墳=30mの方墳)と北東のろ号(大和18号墳=37mの方墳)。北西に、は号(22号墳=25mの方墳)、さらに周濠西側に、に号(23号墳=20mの方墳)・ほ号(24号墳=15mの方墳)・へ号(25号墳=11mの方墳)・と号(26号墳=35mの方墳)の4基が整然と並び、古墳中期の陪塚典型例として知られる。また、西側陪塚と現況外堤との間は周庭帯となっていて、この部分は二重濠の可能性がある。1979年(S54)前方部南側の外堤護岸工事の際の発掘で、0.5m間隔で並ぶ円筒埴輪列が発見されている。埴輪は野焼き時の黒斑を有し、突帯の断面は台形様を呈して、胴部の外面にヨコハケ(刷毛目でタテハケより古い)を施したものである。埴輪製作技法の検討により、市庭古墳(51代平城天皇陵)や宇和奈辺古墳に先行する要素が認められた。1997年(H9)の発掘では、小奈辺古墳後円部の中心から陪塚へ延伸した線と、各方墳陪塚の中軸線が重なると考えられた。20号墳は陪塚ながら周濠があり、その周濠から石をふいて苑池とした遺構が見つかっており、小奈辺古墳における奈良期の石敷遺構と同様のものと見なされる。そこから円筒・朝顔形埴輪や家形・壺形・蓋きぬがさ形等の形象埴輪も出土。また外周溝からは、三角板革綴短甲の破片や鉄鏃が出土している。2009年(H21)宮内庁書陵部が墳裾護岸工事にともなって一部発掘調査し、葺石のほか、西側の造出し部分で、直径約20cmの円筒埴輪21点、南側でも10点ほどの埴輪片が出土。埴輪片には、柵形・蓋形・家形埴輪などの形象埴輪を含んでいた。

(2015.11撮影)西側周濠南望 北東望         南側周濠東望       前方部側から北東望

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陪塚は号=22号  に号=23号   ほ号=24号   へ号=25号   と号=26号    陪塚位置

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17代『履中りちゅう天皇陵』

2014年9月23日参拝。堺市西区石津ヶ丘。第17代「去来穂別いざほわけ=履中りちゅう天皇」の『百舌鳥耳原南陵もずのみみはらのみなみのみささぎに治定されている。宮は磐余いわれ稚桜宮。『記』では伊波禮 の若櫻宮。(宮跡伝承地として桜井市谷の若櫻神社、桜井市池之内の稚桜神社がある。)

仁徳天皇と皇后磐之媛の第一皇子。同母弟に、住吉仲皇子・瑞歯別みずはわけ(反正天皇)、雄朝津間稚子宿禰をあさづまわくごのすくね(允恭天皇)がいたが、住吉仲皇子が不貞や謀反を起こし、去来穂別が瑞歯別に命じて誅殺させたとある。仁徳天皇の際は異母兄弟だったが、ここでは同母兄弟間の争いである。

陵の考古学名は上石津ミサンザイ古墳。5世紀初頭の前方後円墳で、墳丘長365m、後円部径205m・高さ27.6m、前方部幅235m・高さ25.3m、各3段築成。全国3位の規模を誇る巨大古墳。東西のくびれ部に造出しを有する。陪塚は、宮内庁指定の4基=飛地い号(経堂古墳=南陵町4-4)・ろ号(東酒呑古墳=旭ヶ丘南町3丁2)・は号(西酒呑古墳=旭ヶ丘南町2丁2)・に号(桧塚古墳=石津北町クボタ鉄工内)の他に、七観音・寺山南山・七観山・石塚・狐塚古墳等10基前後あったとされるが、現在は飛地3基と後円部北側の七観音・寺山南山古墳の2基のみが残る。かって存在した七観山古墳からは多量の副葬品が出土し、副葬品を埋納するための陪塚だった可能性があるが、現在その地には「平成の森記念塔」が建つ。

なお、考古学的には上石津ミサンザイ古墳(履中陵)の方が、大仙陵(仁徳陵)に先行すると想定されている。

後円部北西望   前方部南東望  参道      制札       拝所      七観音古墳

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18代『反正はんぜい天皇陵』

2016年10月12日参拝。堺市堺区北三国ヶ丘町。第18代「瑞歯別天皇みずはわけ=反正はんぜい天皇」の『百舌鳥耳原北陵もずのみみはらのきたのみささぎに治定されている。『記』では「御陵は毛受野もずのにあり」とある。なお堺市北区百舌鳥西之町の土師ニサンザイ古墳*が、宮内庁により反正天皇の東百舌鳥陵墓参考地とされている。宮は丹比柴籬宮たじひのしばかきのみや(『記』は多治比) 。大阪府松原市上田七丁目柴籬神社が伝承地。

記紀』には殆ど事蹟記事は無いが、『記』には、その風貌について「御身の長九尺二寸半(現尺換算2.8m)。御齒の長さ一寸(3㎝)、廣さ二分(6㎜)」とある。

陵の考古学名は田出井山古墳。5世紀中頃の前方後円墳で、墳丘長148m。後円部径76m・高さ13m、前方部幅110m・高さ14.8m。各3段築成。かっては二重濠があったと確認されている。周辺には陪塚として飛地い号(鈴山古墳=22mの方墳)飛地ろ号(天王古墳=11mの方墳)宮内庁管理となっている。百舌鳥耳原三陵のなかで、大仙陵古墳・上石津ミサンザイ古墳と比べかなり小さいことから、反正天皇陵として疑問視する意見も多く、土師ニサンザイ古墳を真陵とする説も強い。出土品は瑪瑙製勾玉、須恵器台、円筒埴輪、蓋型・家形等の形象埴輪。 

拝所遠景         拝所           制札          後円部南望

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周濠東側南望       後円部南望       鈴山古墳        天王古墳

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余談であるが、私の出身高校は陵から150m程南にある。後円部の北に隣接して方違神社があり、高校の美術の時間によく写生に来てもいた。しかし、古墳に興味を持つまで、反正陵の存在には一切気付かなかった。古墳に興味のない方にとっては、ただの森と池なのだろう。

*土師ニサンザイ古墳 「ミササギ(陵)」が転訛し「ミサンザイ」→「ニサンザイ」となった考えられている。5世紀後半の前方後円墳で、現在の墳丘長は290mだが、2012年墳裾の護岸工事の際、墳丘端から5m外側の濠底で本来の裾部分が検出され、本来の墳丘長は300m以上で全国7位の規模になるとされる。後円部径約156m、前方部幅約224m。各3段築成で、前方部をほぼ西に向ける。左右には造出しを有する。墳丘周囲には現在周濠が巡らされているが、二重目の濠が一部確認されている。百舌鳥古墳群の大型古墳の中では最も時代が新しい。陪塚は3つ以上あったとされるが現存しない。

19代『允恭いんぎょう天皇陵』

2015年9月18日参拝。大阪府藤井寺市国府1丁目。第19代「雄朝津間稚子宿禰をあさづまわくごのすくね=允恭いんぎょう天皇」の『恵我長野北陵えがのながののきたのみささぎに治定されている。『記』では「御陵は河内の恵賀の長枝」とある。なお、大阪府藤井寺市津堂の津堂城山古墳の後円部墳頂部が、宮内庁により允恭天皇藤井寺陵墓参考地とされている。宮は『紀』では遷都記事がなく、前反正天皇の丹比柴籬宮をそのまま使ったことになる。しかし『記』には遠飛鳥宮(とおつあすかのみや、現奈良県高市郡明日香村飛鳥)とあり、飛鳥の地に初めて宮を設けたことになる。

16代仁徳天皇の第四皇子。履中・反正天皇の同母弟。病弱で即位を拒んでいたが、周囲の説得でようやく即位した。当時、各氏かってがってに氏姓を名乗り、混乱していたので、それを正すため行ったのが「盟神探湯くがたち」である。一方、天皇と皇后の妹(=衣通郎姫そとおしのいらつめ)や皇太子木梨軽皇子きなしのかるのみことと同母妹の軽大娘皇女かるのおおいらつめのひめみことの男女関係の醜聞記事の分量が、事蹟記事より多い。

陵の考古学名は、市ノ山いちのやま古墳。5世紀後半の前方後円墳で、墳丘長227mは全国20位。陵墓参考地「津堂城山古墳」とともに、世界遺産古市古墳群に属する。詳細は下記を参照ください。

古市古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

20代『安康あんこう天皇陵』

2016年2月22日参拝。奈良市宝来4丁目。第20代「穴穂あなほ=安康あんこう天皇」の『菅原伏見西陵すがわらのふしみのにしのみささぎに治定されている。『記』では「御陵は菅原の伏見の岡にあり」とある。宮は『記紀』ともに、石上穴穂宮いそのかみのあなほのみや。伝承地は、奈良県天理市田町・同市田部・橿原市石原田町の3説がある。

允恭天皇の第二皇子。木梨軽皇子の同母弟、大泊瀬皇子(雄略天皇)の同母兄。大泊瀬皇子の嫁選びに絡み、讒言と誤解で大草香皇子を殺害し、その妻の中蒂姫なかしひめを皇后とするが、その翌年に連れ子の眉輪王まよわおうに殺害される。政治的な謀殺ではなく、全くの私怨により殺害されたのは、古代では珍しい。

陵は古城1号墳とも称されるが、考古学的には古墳ではなく、「宝来氏」の山城とも推定されている。近年の調査結果でも古墳時代の遺物は発見されていない。

制札・参道        拝所           陵南側東望       領西側北望

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21代『雄略ゆうりゃく天皇陵』

2016年4月2日参拝。大阪府羽曳野市島泉8丁目。第21代「大泊瀬幼武おおはつせわかたけ=雄略ゆうりゃく天皇」の『丹比高鷲原陵たじひのたかわしのはらのみささぎに治定されている。『記』では「御陵は河内の多治比の高鸇たかわし」とある。なお、大阪府松原市西大塚の河内大塚山古墳*が、宮内庁により雄略天皇の大塚陵墓参考地とされている。宮は泊瀬朝倉宮はつせのあさくらのみや(『記』では長谷はつせ)、伝承地は奈良県桜井市黒崎。

父の事件=安康の殺害を知った大泊瀬皇子(雄略天皇)は、兄二人と眉輪王と彼を匿った葛城氏の円つぶら大臣を誅殺。安康天皇は皇太子を指名することなく殺害されていたが、後継候補であった履中天皇皇子の市辺押磐いちのべのおしは(大泊瀬皇子の従兄弟)を、その弟とともに謀殺する。(市辺押磐皇子の子らは播磨へと逃げ、後に顕宗天皇仁賢天皇となる)。この経緯は『記紀』ともに大筋同じだが、『記』では大泊瀬の残虐さがかなり際立つ。結果、大泊瀬皇子は即位し、『紀』では、平群臣真鳥へぐりのおみまとりを大臣、大伴連室屋おおとものむらじむろや・物部連目もののべのむらじめを大連おおむらじとしたとある。有力豪族葛城氏の没落と、平群・大伴・物部氏の中核進出である。

また、最大の地域豪族であった吉備氏を謀略で弱体化させる等、近隣の国を制圧し、大王による専制君主制の基を築いた。さらに、神功皇后応神天皇以来活発化した、朝鮮半島との抗争や交流面でも記事があり、百済や呉国(宋)から才伎(てひと=手工業者)集団を重用し組織化した。

考古学名は高鷲丸山古墳(5世紀後半頃の島泉丸山古墳と島泉平塚古墳)。詳細は下記を参照ください。

古市古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

*河内大塚山古墳 松原市西大塚~羽曳野市南恵我之荘。古市古墳群に含める説もある。6世紀後半の前方後円墳で、墳丘長335mは大仙陵(仁徳陵)、誉田御廟山(応神陵)、上石津ミサンザイ古墳(履中陵)、備中造山古墳に次ぐ全国5位。後円部径185m・高さ20m、前方部幅230m・高さ4m。周囲に濠が巡る。前方部がかなり低く、しかも古墳時代後期の「剣菱形」と呼ばれる(前方部中央がやや外側に突き出す)特異な形状をしており。今城塚古墳(26代継体天皇の真陵説あり)、見瀬丸山古墳、鳥屋ミサンザイ古墳(28代宣化天皇陵)等と類似する。また埴輪が出土せず、後円部にある埋葬施設は横穴式石室である可能性が高く、6世紀後半に築造された大和王権の大王墓と推定できるが、被葬者は特定できていない。また30代敏達天皇が磯長陵から改葬されたという説もある。なお宮内庁により「大塚陵墓参考地」に治定されているが、雄略天皇崩年(479)と築造年代に数十年の開きがある。なお、T14年の陵墓参考地治定までは、墳丘内に村があり、居住者がいた。

(2017.9撮影)大塚陵墓参考地前方部     碑         参道        案内

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22代『清寧せいねい天皇陵』

2015年9月18日参拝。羽曳野市西浦6丁目。第22代「白髪武広国押稚日本根子しらかのたけひろくにおしわかやまとねこ=清寧せいねい天皇」の『河内坂門原陵こうちのさかどのはらのみささぎに治定されている。『記』には陵の記事は無い。宮は磐余甕栗宮いわれのみかくりのみや(『記』では伊波禮いわれ)、奈良県橿原市東池尻町の御厨子神社が伝承地。

父親は雄略天皇、母親は、眉輪王事件で滅ぼされた葛城の円大臣の娘の韓媛。『紀』には、生まれながら白髪とある。他に、雄略天皇の謀略で新羅に派遣された吉備上道臣田狭きびのかみつみちのおみたさの元妻の稚媛との間に二人の皇子がいたが反乱で焼死し、翌年、清寧天皇が即位する。皇后も子も無かったが、雄略天皇に謀殺された市辺押磐皇子の子の億計おけ・弘計をけ兄弟が見つかり(『紀』は在位中、『記』は薨去後)、彼ら天皇位を継ぐ。

なお、清寧陵の考古学名は西浦白髪山古墳で、6世紀前半、墳丘長115mの前方後円墳。詳細は下記を参照ください。

古市古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

なお、『紀』では、兄弟が皇位を譲り合っている間、兄弟の姉=飯豊青皇女いいとよのあおのひめみこが忍海角刺宮おしぬみのつのさしのみやで執政。『記』では、清寧薨去後の空位の間、忍齒おしはの妹=飯豊王が忍海高木角刺宮で執政したとある。飯豊青皇女は、宮内庁により奈良県葛城市北花内の『埴口丘陵はにぐちのおかのみささぎに治定されている。考古学名は北花内大塚古墳で、6世紀初頭、墳丘長90mの前方後円墳。現在の皇室典範では、『陵』は 天皇・皇后・皇太后および太皇太后のみで、他の皇族は『墓』という。因みに、『延喜式』諸陵式では「埴口墓」とある。

(2016.10撮影)飯豊陵参道  制札          拝所           全景北西望

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23代『顕宗けんぞう天皇陵』

2016年4月2日参拝。奈良県香芝市北今市。第23代「弘計をけ=顕宗けんぞう天皇」の『傍丘磐坏丘南陵かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎに治定されている。『記』では「御陵は片岡の石坏の岡の上」。前方後円墳とされるが詳細不詳。陪塚として飛地い号(北今市3丁目191-1)・ろ号(北今市3丁目182)・は号(北今市1丁目176-1)宮内庁管理とされている。

い号                ろ号               は号

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なお、馬見うまみ古墳群である奈良県大和高田市築山にある築山古墳*が、宮内庁により顕宗天皇の磐園いわぞの陵墓参考地とされている。宮は近飛鳥八釣宮ちかつあすかのやつりのみや。現在の奈良県高市郡明日香村八釣、または大阪府羽曳野市飛鳥か)。『記』は単に「近飛鳥宮」とある。

大泊瀬皇子(雄略天皇)に、父の市辺押磐を謀殺され、子の億計おけ・弘計をけ兄弟は播磨へと逃げ隠れた。その後、身を寄せていた縮見屯倉しじみのみやけのおびと(『記』では志自牟しじむ)の新居の祝宴で、同席していた播磨国司の小楯おだてに、弟の弘計が出自を明かした。清寧の後継として、先ず弟の弘計が即位した(兄の億計が出自を明かした弟の功を称え譲った)。在位は、『紀』では3年、『記』では8年。

拝所前北望        陵全景         制札           拝所

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*築山古墳 4世紀後半の前方後円墳で、墳丘長210m、後円部径120m、前方部幅105m。古地図には、南側の狐井塚古墳と共に片岡石杯岡かたおかのいわつきのおかの北陵・南陵として記されてもいる。墳丘の段築は、後円部3段・前方部2段、後円部・前方部とも3段、後円部4段・前方部3段等の諸説がある。くびれ部南側だけ、外観から造出しの存在が確認できる。築山古墳の周堤帯と東隣のコンピラ山古墳の間に数mの段差があり、それが南に築山古墳を囲む形で延びており、一部は栂池という名の池になっている。これは築山古墳の2重濠の痕跡と推定されている。なお陪塚として後円部すぐ南にある飛地い号(茶臼山古墳=円墳径50m・高さ6m、2段築成)宮内庁管理されている。

(2017.10撮影)北側南西望  南東望         拝所           制札

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南側西望         南側くびれ部      南側東望         陪塚茶臼山古墳

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さらに、築山古墳南側の大和高田市池田にある狐井塚きついづか古墳(馬見古墳群)が、宮内庁により顕宗天皇皇后難波小野女王の陵西おかにし陵墓参考地とされている。5世紀後半~6世紀初頭の前方後円墳で、全長109m、後円部径60m・高さ10m、前方部幅73m。葺石と円筒埴輪、盾形周濠痕跡が確認された。埋葬施設は不明、前方部北東外堤付近で長持形石棺の蓋石が出土、付近の川からも長持形石棺の蓋石や竪穴式石室の天井石を検出している。陪塚として、狐井塚古墳の西側50mほどから、JR和歌山線の北沿いに、飛地い・ろ・は・に号があり、ほ号はJR線の南側、高田温泉さくら荘駐車場の南奥隅にある。

(2017.10撮影)北側  い号        ろ号        は号        に号

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24代『仁賢にんけん天皇陵』

2018年9月18日参拝。大阪府藤井寺市青山3丁目。第24代「億計おけ=仁賢にんけん天皇」の『埴生坂本陵はにゅうのさかもとのみささぎに治定されている。『記』には陵の記載はない。宮は『記紀』ともに石上広高宮いそのかみのひろたかのみや奈良県天理市石上町ともされる。

皇后は父の仇である雄略天皇の娘=春日大娘皇女かすがのおおいらつめのひめみこ。仁賢が傍系出身のため、直系皇女を迎え入れ正当性を強めたといわれる。

高句麗から才伎(てひと=手工業者)を招いたり、五穀豊穣で平和で、国中が良く治まったと評されている。

考古学名は「野中ボケ山古墳」で、 6世紀前半、墳丘長122mの前方後円墳元禄時代に所在不明となるが、「ボケ」を「オケ」の誤りする説があり、幕末に現陵に治定された。詳細は下記を参照ください。

古市古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

25代『武烈ぶれつ天皇陵』 

2016年4月2日参拝。奈良県香芝市今泉。第25代「小泊瀬稚鷦鷯おはつせのわかさざき=武烈ぶれつ天皇」の『傍丘磐坏丘北陵かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎに治定されている。宮内庁上の形式は山形だが、詳細不詳。奈良県北葛城郡広陵町大塚の新山古墳*が、宮内庁により武烈天皇の大塚陵墓参考地とされている。宮は泊瀬列城宮はつせのなみきのみや奈良県桜井市出雲の十二柱神社に「武烈天皇泊瀬列城宮跡」の碑がある。『記』では「長谷之列木宮」とある。

『紀』には即位前に、物部麁鹿火もののべのあらかひの娘を巡り、当時権勢を誇っていた平群真鳥一族を、大伴の金村に命じ滅ぼした。ここで大伴氏が権勢を握ることになる。さらに、『紀』には即位後の異常で残虐な行動が列挙されている。雄略天皇の残虐な記述は、主に政敵殺害等に絡むものだが、武烈天皇の場合は、まさに悪虐非道である。しかし『記』には、一切こうした記述はない。

参道西望         拝所遠景望       制札           拝所

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*新山しんや古墳 4世紀前半の前方後方墳。全長約126m、後方部径67m・高さ約10m、前方部幅約66m・南向き。馬見古墳群に属する。群中でも初期で、1885年(M18)に所有者が植樹の時後方部竪穴式石室(内部に組合式の長持形石棺)を発見。銅鏡が34面出土。鼉龍鏡1面、直弧文鏡3面、画文帯神獣鏡3面、方格規矩鏡4面、三角縁神獣鏡9面、内行花文鏡14面。直弧文は3~4世紀頃に現れる。龍文透彫り帯金具も出土。朝鮮半島南端の伽耶を経由して江南からもたらされたか、その影響を受けたものである可能性が高く、300年前後の製作と考えられる。他に車輪石・石釧いしくしろ・椅子形石製品等も出土。円筒埴輪はメスリ山古墳類似でもある。武烈天皇の在位想定年と古墳築造時期に大きな乖離がある。

(2017.10撮影)遠景北望   前方部南東角     前方部西望        前方部南西角

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