OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

菖蒲池古墳

2023年2月21日(火)訪問。奈良県橿原市菖蒲町。奈良県立明日香養護学校の西側からアクセスする。なお、養護学校敷地内では小山田古墳跡が発見されている。

 

7世紀中頃の方墳。墳丘封土の流出や後世の改変を受けているが、2009年(H21年度)調査の結果、2段築成で下段は辺約30m、上段は辺約18mと判明。墳丘北・東・西には濠が巡り、濠底面(一部)・古墳前庭・上段墳裾平坦テラス面で礫敷が確認されているとのこと。

橿原市/菖蒲池古墳

 

進入口              全景西望              黄〇が石棺保存施設

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埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南方に開口。羨道や玄室下半分が埋没しており全容は不詳だが、奥壁・側壁は花崗岩の巨石を2段に積んでいると考えられ、近鉄飛鳥駅北側の岩屋山古墳と似ていることが指摘されている。玄室内部には刳抜式家形石棺2基が南北縦一列に据えられるが、2基とも屋根部分の形が極めて特徴的で、天井部分が棟飾り風に仕上げられている。また石棺内側には漆が塗られており、このような石棺は他に例がないらしい。

石棺は、ガラスの引き戸内に保存されているが、引き戸は50㎝程開けられ、前の石棺の一部が見られる。

石棺                                 保存小屋東望(と同行者)

2基は同じ形で、同じ製作者によるものと考えられる。築造当初から2基並べて安置する計画だったと推察されるとのこと。出土土器等から古墳時代終末期=7世紀中頃の築造と推定される。当時としては破格規模の墓域であるが、築造から間もない7世紀末頃の藤原京期に、墳丘を一部破壊して、隣接地を利用した形跡が認められている。被葬者は不明で皇族の墓とする説のほか、蘇我氏の墓とする説がある。

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(五條野)丸山古墳

菖蒲池古墳の西北西、直線距離で900m程の所にある。奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町にまたがる前方後円墳。全長320~330m、後円部径155m・高さ21m、前方部幅210m・高さ15m。これは景行天皇陵を上回り奈良県下で最大、全国的にも河内大塚山古墳(大阪府羽曳野市~松原市)次いで第6位の規模で、古墳時代後期後半に築造されたものの中では最大規模となる。被葬者は不明だが、後円部墳頂が宮内庁により「畝傍陵墓参考地」(被葬候補者第40代天武天皇・第41代持統天皇)として治定されている。ただ、天武・持統天皇陵は奈良県高市郡明日香村の野口王墓が、宮内庁により「檜隈大内陵ひのくまのおおうちのみささぎ」に治定されている。近年は第29代欽明天皇陵説も有力である。私としては、蘇我稲目の娘=蘇我馬子の姉妹二人が欽明天皇の妃であり、当時の蘇我氏の権勢からすると、外戚である天皇の陵墓を大々的なものとして築造した動機は充分あると思う。

案内               後円部南東望            前方部遠景東望

欽明天皇陵・丸山古墳詳細は下記を参照下さい。

天皇陵 その五 - OSAKA-TOM’s diary