OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

曼陀羅山古墳群

曼陀羅山古墳群は滋賀県大津市真野普門まのふもん町にある4~7世紀に造営された群集墳で、120基程が確認されている。現在、曼陀羅まんだら山の西側住宅地に曼陀羅山5号墳等、曼陀羅山尾根筋に和邇大塚山古墳・大塚山北古墳群・曼陀羅山北古墳群・曼陀羅山34号墳、曼陀羅山東麓にゼニワラ古墳、東側の住宅地に唐臼山古墳が遺存する。2022.11.26(土)訪問。

 

全体図                       北西側住宅地内分布

以下、巡った順に掲載します。

 

曼陀羅山の北西側住宅地内

大津市緑町。真野北小学校の北側=真野北古墳公園に曼荼羅山5号墳が保存されている。元は5基あったが開発で1号墳~4号墳は調査後削平され、結果的に5号墳のみが現地保存された。

古墳公園南望       北望           案内           西望

   *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

5号墳は公園の東側の下にあり、直径15m・高さ5mの円墳。鉄柵越しに石室が見れる。奥壁が抜かれている。土器、鉄製品(刀・鏃等)、玉類(水晶製・ガラス製)が出土した。

公園入口から南東望    北望           案内           石室北望  

 ↑ 5号墳後方の赤丸が曼陀羅山の山頂。左の頂が和邇大塚山古墳の所在地。

石室側壁は自然石ではなく、分厚い板状に加工された石材が使われ、後に掲載するゼニワラ古墳、大塚山北1号墳、曼陀羅山34号墳等に似ている。

玄室全景         西側壁          東側壁          天井  

古墳公園の北側の住宅地内に3基が遺存する。1基は住宅に挟まれた所、他の2基は住宅地北端に並んでいる。その北側一帯は比良ゴルフ倶楽部だが、ゴルフ場南側金網に接する曼陀羅山34号墳(後掲)辺りが望める。

住宅に挟まれた1基北東望 北端の1基北望       墳頂           南西望

最北端の1基北西望         西望                曼陀羅山34号墳辺り

 

曼陀羅山の東側~尾根筋

曼陀羅山の東側住宅地サイドに移動し、山麓のゼニワラ古墳(①)から、曼陀羅山の北側尾根最高所の和邇大塚山古墳(②)、大塚山北古墳群(③)、曼陀羅山北古墳群(④)、曼陀羅山34号墳、唐臼山古墳(⑥)と巡った。

            曼陀羅山尾根筋の道はイメージです(正確な実測図ではありません)。

①ゼニワラ古墳 

大津市小野朝日2丁目。径20m・高さ4.5mの6世紀後半の円墳。石室が南方向に開口する。朝日2丁目集会所奥にある階段から林道に上り、道なりに行くと、ベンチ横にゼニワラ古墳の案内がある。ベンチ・案内の奥が墳丘で、木々が無かったら開口部が見えるはずだが・・・。こっち側からのアクセスは無理そうなので、道なりに墳丘の反対側に廻り込み、ゴミ箱脇から墳頂方面に上ると石室開口部にたどり着く。

集会所奥の階段からの順路

*写真は2022年11月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意下さい。

羨道は長さ4.3m・幅1mだがかなり埋没しており、現在の高さは45~50㎝程しかない。匍匐前進で進むが、途中で断念、玄室はハッキリ確認できなかった。案内板では玄室は長さ約4.4m・幅2.2m・高さ2.5mで、左片袖(通常、奥から見た場合右片袖式だが・・・)とある。切石状の石材で構成され、やや持ち送り曼陀羅山古墳群中最大で、和邇・小野地域の最有力者の墓と推定される。

 ↓白い四角はA5ファイル

②和邇大塚山古墳

ゼニワラ古墳のすぐ西側に、中腹を南北に通る遊歩道がある。道標では(和邇)大塚山古墳は右(北)方向となっている(後になって分かったが、この道は北端まで行って、そこから尾根筋を南に上って行くルートだったのだろう)。大塚山古墳は位置的には、ゼニワラ古墳の南西方向の尾根最高所にあるので道標表示に逆らって、遊歩道を南に行くが尾根筋に上れる気配が無かったので、尾根最高所を目指して木々の少なそうな所から登って行った。約20分登り切った所に「大塚山古墳」の石標があった。迷わなくて良かったとホッとしたが、後で南側からも楽な遊歩道が有ることに気が付き、「ヤレヤレ」という感じ。

*普通に遊歩道を北から南に上って行くと、以下記事の⑤→②という逆の順になる。

ゼニワラ古墳横の道標   石標北望         古墳案内北東見上げ    案内下の遊歩道南東望 

標高190m程、曼陀羅山の北側山頂。4世紀後半から5世紀初頭の前方後円墳。全長72m、後円部径53m・高さ5.8m、南東向きの前方部は幅30m・高さ4.9mで後円部に比べ幅が狭く、バチ形に開く。2段築成。明治40年(1907)地元住民が発見し、後円部中央の埋葬施設は破壊された。後円部から鏡・管玉・刀剣・甲冑・土器等の副葬品が出土し、主体部は一辺10m・深さ1.2m程の墓壙に礫石を敷き詰めた粘土槨だったらしい。高野槇製割竹形木棺が納められていたとの情報もある。後円部墳頂には大きな窪みがあり、そのすぐ横に碑があるが、破壊された埋葬施設の「鎮魂碑」かもしれない・・・・。

案内から東望見上げ    後円部墳頂西望      北望           前方部方面南東望

③大塚山北古墳群

3基の円墳で構成される。和邇大塚山古墳から尾根筋遊歩道を北方向に3分程。崩壊した石室石材が道の両側に散乱し、その東側に1号墳がある。

大塚山古墳西脇の遊歩道                               大塚山北古墳群

1号墳は径20mで石室が南に開口する。羨道と玄室の前半分位は崩壊しているが、奥壁は綺麗に残っている。玄室幅1.6m・高さ1m以上。北西30m程のところに径10数mの2号墳・3号墳が隣接するらしいがよく分からない。

④曼陀羅山北古墳群

曼陀羅山の尾根筋の北端手前辺りにあり、5基の円墳で構成されるらしい。

大塚山北古墳群から曼陀羅山北古墳群方面

4号墳は石室が完存するとのことだったが見落とした。径20mの円墳で西に開口するらしく、羨道長2.4m、幅0.9m、玄室長4.4m・幅2m・高2m、右片袖式。奥壁・側壁は持ち送り、床面に石棺片様の石材も残るとのこと。もう1基が隣接するらしいので、多分下の写真の辺りだろう。

南側の1基             北側の1基             見返り

⑤曼陀羅山34号墳

曼陀羅山北古墳群から遊歩道を降り切った所に道標がある。そこを「ヨウ古墳群」方面=西方面に進む。ゴルフ場の境界金網脇にある。すぐ南下は、曼陀羅山北西の住宅地の最北端になる。

34号墳方面

墳丘東側に古びた案内がある。

墳頂北望         案内

径11m・高さ2.5mの円墳で、石室は西向きに開口する。すぐ西下にゴルフ場の金網がある。羨道は埋没か崩壊しているようだ、玄室長さ3.1m・幅1.4m・高さ1.4m。側壁は分厚い板状の割石等で構成され、やや持ち送る。

開口部(上はA5ファイル) 

案内板に35号墳の記載もあるが、北東約100mで、現在はゴルフ場の中のようだ。北東150~200m(ゴルフ場内)にヨウ古墳群(3基)・石釜古墳群(14基)が連なる。34号墳への分岐道標から反対の東に進むと、曼陀羅山東側の住宅地に戻る。

⑥小野妹子神社=唐臼山古墳 

小野妹子神社の社殿裏にある。案内には「社殿は古墳上にあり、裏の石垣のあとは、妹子の墓、唐臼山古墳である」とあるが『石垣?』『妹子の墓?』

墳丘は殆ど流出しており、規模等は不詳(南北18m東西20m程?)。出土した須恵器や土師器、石室構造から7世紀前半と推定されるとのこと。社殿裏=北側に巨大な方形の石室石材が露出する。斜めに傾く大きい方の石材は、長辺1.8m程、短辺1.5m程で、石室復元全長5.5m・幅1.6m・高さ1.2m程らしい。

石材北西望        南西望          北東望           東望 

*被葬者とされる小野妹子は、『日本書紀』では607年(推古天皇15年)~608年に(第2回)遣隋使、608年(推古天皇16年)~609年に(第3回)遣隋使として派遣されたとある。古代中国の歴史書=『隋書』倭国東夷傳=大業3年(607年)条にある「其の國書に曰く『日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無きや云云・・・』というのは著名。墓は大阪府南河内郡太子町にもある。近くに同時代の聖徳太子廟や推古天皇陵等がある。ただ妹子は大津市小野生れの記録がある。