OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

柳本古墳群

柳本古墳群

柳本古墳群に属する黒塚古墳、行燈山古墳、アンド山・南アンド山古墳、大和天神山古墳、櫛山古墳、ヲカタ古墳、渋谷向山古墳、上の山古墳・丸山古墳・赤坂古墳、シウロウ塚古墳、柳本大塚古墳、石名塚古墳、ノベラ古墳。

ブログにあげていなかった、過去や最近の散策地をまとめて記事化したものです。

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黒塚古墳

上図①。奈良県天理市柳本町。古墳時代前期(4世紀初頭~前半)の前方後円墳

全長約130m、後円部径72m・高さ11m・3段築成、前方部長48m・高さ6m・2段築成。前方部と後円部の落差が大きく、また前方部正面がわずかに弧状に膨らんだ撥形で、いずれも前期古墳の特徴を示す。周濠はあるが、葺石や埴輪は確認されていない。1997年(H9)第3次調査で、三角縁神獣鏡33面(7組15面が同笵)と、それより少し古い画文帯神獣鏡1面が発見された。棺内の被葬者頭部に画文帯神獣鏡1面(径13.5cm)と両側に刀1・剣1を置き、棺外の壁とのわずかな隙間に、東壁側15面、西壁側17面の舶載(中国製)三角縁神獣鏡を内側に向け、木棺北半分をコの字形に取り囲むような状態で立てられていた。三角縁神獣鏡のこうした置き方は、葬儀用に作成されたもので、価値は低位という見解を補強するとの解釈もできる。他に刀剣類や鉄鏃・小札こざね・用途不明の鉄製品なども出土したが、玉類や腕装飾品類は出ていない。
後円部の埋葬施設は竪穴式石室で、内法長8.3m、北小口幅0.9m、深さ1.7m。二上山麓の春日山と芝山の板石を持送り状に積んで合掌造状の天井を形成している。石室内では、長さ6.2mの粘土棺床が設けられ、断面が半円形・直径1m以上のクワの刳抜式木棺が納められていた。木棺は、中央部の長さ2.8mの被葬者安置範囲のみ水銀朱を施し、両端スペースはベンガラの赤色で塗られていた模様。石室は、ほぼ真北を向き、被葬者の頭も真北に向いていたと推定されている。通常は石室を天井石で塞ぐことが多く、合掌造状の天井は珍しい。しかし、この形状は地震に弱く、中世の地震で天井部分が石室内に崩落し、結果的に盗掘に遭っても、崩落石材が阻んだと思われる。戦国時代には古墳に柳本城が築かれ、江戸時代には小田家が城跡に柳本陣屋を構築したため、庶民は立ち入れず、これも盗掘を防いだ要因と思われる。現在、天理市により柳本公園として整備され、古墳東側に隣接して、石室の実物大模型や全銅鏡のレプリカなどを展示する「黒塚古墳展示館」が設けられている。

(2015.8撮影)全景北望   案内           後円部東望       案内

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

(2015.8)前方部見下し   後円部墳頂石室跡     石室解説

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(2019.12)黒塚古墳展示館  石室レプリカ      銅鏡案内          銅鏡レプリカ例

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行燈山あんどんやま古墳、アンド山・南アンド山古墳

上図②。天理市柳本町。古墳時代前期(4世紀前半)の前方後円墳。「山辺道勾岡上やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ」として、第10代崇神天皇(『日本書紀』では御間城入彦五十瓊殖ミマキイリヒコイニエ、御肇國天皇ハツクニシラススメラミコト)の陵に治定され、宮内庁により管理されている。『古事記』では「山辺道勾之岡上」の所在とあり、『日本書紀』では「山辺道上陵」とある(景行陵と同名)。『延喜式』諸陵寮では遠陵の「山辺道上陵」(景行陵と同名)とあり、「大和国城上郡で兆域は東西2町・南北2町、守戸1烟を毎年あてる」とある。なお同書では、大和国山辺郡の衾田墓(継体皇后=手白香皇女墓)の条において、「山辺道匂岡上陵の陵戸が衾田墓の守戸を兼ねる」とも記されている。その後、陵の所在・所伝が喪失する。江戸時代後期に蒲生君平が『山陵志』で本古墳を景行陵に比定したが、江戸末期谷森善臣は『山陵考』で崇神陵とし、その説が現在まで踏襲されている。考古学的にはヤマト王権の大王墓の1つとされ、初代大王墓とされる箸墓古墳からは数代後に位置づけられる。

周濠含む古墳総長360m、最大幅230m。墳丘は長さ242mで全国第16位、後円部径158m・高さ31m・3段築成、前方部幅100m・高さ13.6m・3段築成、傾斜地のため各段はつながっていない。周濠は3ヶ所の渡堤で区切られ、前方部北側・西側部分は江戸時代末の柳本藩の修営により農業用溜池として拡張を受けたとされる。墳丘表面では葺石・埴輪を検出。葺石や埴輪列が備わった最初の大型古墳とされる。また主体部の埋葬施設は、後円部の竪穴式石室と推定される。

(2015.8)崇神陵参道  拝所       (2017.8)南西側北西望 後円部南西側渡堤  後円部東端北東望

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陪塚(陪冢とも)も数基認められ、宮内庁の治定では、陵域内陪塚1ヶ所と飛地陪塚3ヶ所(い・ろ・は号)の計4ヶ所。

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域内陪冢(通称「アンド山古墳」)=陵拝所の北西側。前方後円墳、墳丘長120m。段築は認められず、葺石・埴輪不明、周濠は存在せず。埋葬施設は竪穴式石室で築造は陵と同時期と推定される。

(2019.12)アンド山古墳   陵参道から       陵拝所から

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飛地い号(通称「柘榴塚」)=陵後円部の南側。陪塚の可能性は薄いとの説も。

飛地ろ号(通称「百塚・白塚・臼塚」)=陵前方部の南側、ここも陪塚の可能性は                             薄いとの説も。

飛地は号(通称「南アンド山」)=陵拝所の西側、前方後円墳、墳丘長65m。

(2019.12)柘榴塚=飛地い号 百塚=飛地ろ号     南アンド山古墳=飛地は号   北望

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出土遺物としては、円筒埴輪・土師器・須恵器のほか、江戸時代の修陵時に出土した銅板拓本1枚。拓本によれば銅板は長方形で、長辺70cm・短辺53.8cm。片面には四葉座内行花文鏡の文様(径43.7cm)を、他面には田の字形の文様を有する。仿製鏡ぼうせいきょう・同汎鏡の原器の可能性もある。

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龍王山古墳群
行燈山古墳・櫛山古墳南側から東へ登っていくと、6世紀前半~7世紀の小さな古墳が300基以上群集する龍王山古墳群がある。いくつもの石室が開口する。

龍王山古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

大和天神山古墳

行燈山古墳西側の169号を挟む伊邪那岐いざなぎ神社域内。3世紀末~4世紀前半(~4世紀後半)の前方後円墳。ここも崇神陵の陪塚とする説がある。1960年(S35)道路拡張工事で東半分が削られ、現在は古墳のイメージはなく、全くの神社というイメージである。

本来は、墳丘長113mで、短めの前方部はわずかに撥形に開くが、後円部の直径は超えないとのこと。葺石や埴輪はなく、段築や周濠は不明瞭で、なかった可能性も指摘されている。 拡張工事で後円部の東半分が削られた機会に緊急発掘調査が行われた。当初、伊射奈岐神社境内古墳として調査が進められたが、古墳名に人物名を含めないという方針により、地元の呼称をとって天神山古墳とされた。しかし、各地に同名の古墳が多数あり、区別するため大和天神山古墳とされたらしい。

後円部のほぼ中央で、長さ6.1mの竪穴式石室が検出された。石室は自然石の小口積みで、上部は石室の両側から持送る合掌式で、天井石を設けない型式だった。石室には、長さ2.6mの板材が残っていて、その中央部は仕切り板で区切られ、内法1m×0.5mの木櫃もくひつ状になっていた。木棺のようでもあるが、人体埋葬の痕跡はない。細部を検討すると木櫃(かぶせ蓋がついた箱)と言った方が適切な、大きな木製容器であり、総重量約41kgの水銀朱が納められていた。朱を大量に入手し使用している点で、3kgの朱を使用していた岡山県倉敷市の楯築古墳や東瀬戸内海との関連も考えられる。木櫃の底板は、長さ2.6m、幅75cmだが、底面は水平でなく、両端がカーブして上がっており、断面は緩やかなU字形をしている。しかし、巨木を刳り抜いたものでなく、三枚の板を合わせたものである。また、木櫃内の水銀朱を取り囲むように、20面の後漢鏡が置かれていた。20面の鏡は木櫃の四周に連続して長方形の辺に置かれており、前期古墳にしばしば見られる「一面だけ中央に置く」という置き方とは全く異なる。また、木口板の外部にも北方で2面、南方で1面置かれており、計23面の舶載後漢鏡を検出している。鏡は「邪から被葬者を守る」との見方もあるが、人体埋葬がない場合には、妥当ではない。古墳社会では階層化が進み、青銅鏡が社会的・政治的に重要なものとして、製作数が飛躍的に増大する。 鏡種別としては、木櫃内は「尚方作竟」銘鏡4面を含む方格規矩鏡が6面、「長宜子孫」銘鏡を含む内行花文鏡4面、画文帯神獣鏡4面、獣形鏡4面、画像鏡2面の合計20面、木櫃外は、斜縁変形神獣鏡2面と人物鳥獣文鏡1面の計3面。いずれも文様が不鮮明で、踏み返し鏡の可能性も指摘されている。武器も出土しており、鉄刀が3点、鉄剣が4点、鉄鏃が5点。刀は一般的な片刃でなく、切っ先から20cmまで両刃になった特異なものである。 剣は木製の柄装具に直弧文を施している。これらの剣の一部が絹布に巻かれていた。鉄鏃は、柳葉形で、木製矢柄が一部残っていた。さらに、前方部から二重口縁壺(布留Ⅰ式)が出土しているとのこと。

拝殿右手の鳥居奥に後円部。赤い鳥居奥の方に前方部がある。

(2019.12)崇神陵側から西望 (2015.8)伊射奈岐神社                   前方部北望

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櫛山古墳

行燈山古墳後円部の東側に隣接する4世紀後半の双方中円墳。

中円部の西側に前方部、東側に後方部を備えた特異な墳形をしている。同様の特異な墳形の古墳は、他に岡山県楯築弥生墳丘墓や香川県高松市の石清尾山いわせおやま古墳群の猫塚古墳がある。櫛山古墳や猫塚は、古墳前期でもその後半に属し、楯築弥生墳丘墓よりも100年ほど後に築造されたと推定されている。墳丘長152m、中円部径約90m、前方部長さ・幅とも60m、後方部長さ25m。前方部と中円部墳頂は平坦で、3~4cmの白い小石が埋葬施設周辺に敷詰められていたと思われる。段築は中円部・後方部3段、前方部2段。30cmらいの大きさの板状の葺石が墳丘全体に葺かれていたと見られる。中円部はほぼ正円形、前方部は正方形で、前面の広がりや正面の弧状がない。 後方部は短く、わずかに開いている。排水施設を備え、長さ5m・幅3.4mの土壙も検出。中円部に竪穴式石室があり、長持型石棺を安置、後円部の白礫を敷き詰めた土坑から多数の鍬形石・車輪石・石釧・意図的に破壊された土師器が出土したとのこと。

(2017.8)案内       前方部南望         中円部墳頂北望     後方部北東望

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ヲカタ古墳

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天理市渋谷町。景行陵の北東560m。柳本古墳群に属する。墳丘は果樹園や鎌砥池により大きく削られ、現在は円形だが本来の規模や墳形は不明。北東に張出し部があるようでもあり、これを前方部とすると全長55m、後円部径45m、前方部幅30m程の帆立貝形古墳にも見える。出土した須恵器・土師器から古墳時代後期築造と推定されるが不詳。さらに外側を囲む円形の地割があり、これを墳裾とすると径90mの大型円墳、さらに南西に前方部のような地割が天理大学による地中レーダー探査で見つかり、全長130mの前方後円墳と考えることもできる。

(2021.11)北西望    北望                  柳本町方面     駐車位置

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渋谷しぶたに向山古墳

巻頭図③。天理市渋谷町。古墳時代前期(4世紀後半)の前方後円墳。「山辺道上陵やまのべのみちのえのみささぎ」として、第12代景行陵(『日本書紀』では大足彦忍代別オオタラシヒコオシロワケ)の陵に治定され、宮内庁により管理されている。『古事記』では「山辺之道上」所在とあり、『日本書紀』では「山辺道上陵」とある(崇神陵と同名)。『延喜式』諸陵寮では遠陵の「山辺道上陵」(崇神陵と同名)として記載され、「大和国城上郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町、陵戸1烟を毎年あてる」とある。また正治2年(1200年)の『諸陵雑事注文』には「大和渋谷」と見える。その後、陵所在・所伝は喪失。元禄10年(1697)江戸幕府による元禄探陵では崇神・景行いずれかと比定された。その後安政2年(1855)には江戸幕府により崇神陵に考定、元治元年(1864)に修陵が実施されたが、慶応元年(1865)修陵竣工直前に景行陵に改定され、現在まで踏襲されている。考古学的にはヤマト王権の大王墓の1つとされ、初代大王墓とされる箸墓古墳からは数代後に位置づけられる。

墳丘は長さ300mで全国第8位。後円部径168m・高さ25m・3段築成+円壇?(4段築成が有力)。前方部幅170m・高さ23m・3段築成説が有力。奈良県では見瀬丸山古墳(310m)に次ぐ2位、柳本古墳群では最大。墳丘段築は後円部と前方部が連続し、後円部円壇(4段目)からの斜道が前方部3段目に接続する。後円部南側裾では造出状の施設が認められた。前方部には幕末の修陵以前に阿弥陀堂観音堂があったため、墳丘には大きな改変が認められた。周濠があり、後円部側6ヶ所・前方部側4ヶ所で渡堤によって区切られる。そのうち前方部側では近世に農業用溜池として拡張を受けたとされるが、後円部側は築造当初の形状とされる。出土品としては、円筒埴輪・形象埴輪のほか、江戸時代に出土したと伝わる石枕(重要文化財)等がある。石枕は元治元年(1864)に出土したものというが、経緯等は不詳。碧玉製で、重さ24kg、外縁・側面には線刻が施されている(関西大学博物館に所蔵)。他に渋谷村出土という三角縁波文帯神獣鏡も知られるが、こちらも経緯等不詳。

(2015.8)遠景南東望  拝所        前方部南望     遠景北望       出土石枕

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墳丘周囲には階段状の周濠が巡り、陪塚的性格を持つ古墳数基も認められる。現在宮内庁治定の陪塚は、飛地陪冢3ヶ所(い・ろ・は号)。

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飛地い号通称「上の山古墳」天皇山古墳」) 

墳丘西側には式内社の水口神社が鎮座する。前方後円墳で墳丘長144m。周濠が認められ、葺石・多量の埴輪・板材を検出。埴輪の様相には陵との類似性が見られ、陵と墳丘主軸が直交、両古墳の強い関係性が見受けられる。築造は陵と同時期とする説や、旧地形の復元等から陵より先行するとの説がある。

(2021.11)後円部    案内        西面北東望      東面北西望     前方部南端東望 

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飛地ろ号通称「丸山古墳」「松明山古墳」山辺の道沿いの円墳、径約35m。

(2021.11)北東望    分岐        北望        北西望       墳頂西望

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飛地は号通称「赤坂古墳」「上山古墳」山辺の道沿いの方墳、一辺約35m。

(2021.11)南東角       東面南望        南面西望         南面東望 

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シウロウ塚古墳

渋谷向山古墳の「飛地は号」の東に隣接する前方後円墳。墳丘は約120mで、丘を二つ連結させたような形で、後円部66m・前方部57mとのことだがよく分からない。

(2021.11)北面南東望     前方部南望       後円部方面東望      南面北望

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柳本古墳群は大きく分けて3支群に分けられるが一、番西に位置する上ツ道沿いにある柳本大塚・石名塚・ノベラ古墳で支群を形成する。いずれも前方部が柄鏡式(桜井茶臼山古墳タイプ)で墳長は100m前後の似かよった規模である。他の2支群(山麓の柳本支群と渋谷支群)とは、ある時期に併行して築造された可能性があるが、墳形が異なるのが注目点である。測量以外の調査がされておらず実態がよくわからない。現状は果樹園が墳丘上にあったり、前方部もかなり削平されているがクビレ部等は明確に観察できる。墳丘上にも登る事はできる。

柳本大塚古墳

天理市柳本町大塚。下図A。4世紀前半の前方後円墳。渋谷向山古墳拝所から169号線を挟み、東方約450mに位置する。全長約94m、前方部は南向で、正面は弧状であるが、撥形のように広がってはおらずむしろすぼまっており、いわゆる柄鏡型らしいが、よく分からない。周囲には幅約30mの濠の痕跡があったらしい。葺石・埴輪は確認されていない。埋葬施設は後円部墳頂中央部、南北主軸に沿う長さ約3.6mの竪穴式石室舟形の刳抜式木棺(長さ約2m・幅約1.2m)から銅鏃と鉄器が出土したとのこと。近くに径1mの不正円形の小石室が設けられ、径39.7cmの大型仿製内行花文鏡が納められていた。この小石室は、板石が天井の方にせり出した合掌式石室で副葬品埋納の副室と思われる。また鏡を単独で副葬していたことから、鏡を格別に重視していたと考えられるとのこと。

周辺図(2021.11)   前方部西面東望   後円部西面北東望   後円部北端南望   後円部東面南西望

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石名塚古墳

天理市柳本町西名塚。上図B。4世紀前半の前方後円墳。前方部が南向きで全長111m、後円部径約66m・現状高さ約13m、前方部幅40m。前方部は池まで伸びる事が近年の調査で確認されている。前方部が短く前期古墳の様相を示している。周濠の痕跡及び埴輪も確認されている。

(2021.11)北望       後円部南望        西面南東望        後円部西面東望

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ノベラ古墳

柳本町ノベラ。上図C。4世紀前半の前方後円墳。南北に主軸を置く。全長71m、後円部径約42m、前方部幅30m。現在、墳丘は前方部・後円部共に削平され、一部果樹園になっている。平面的な形は残っているので観察はできる。

(2021.11)遠景北西望                 東面北西望

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