OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

天皇陵

天皇陵(2)

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2020.5.16 新型コロナウィルス騒動で外出自粛のため、古墳巡りは3か月程自粛中。

そこで今回も、過去に巡った「天皇陵」についての記事。「パート2」

前回は初代神武天皇~4代懿徳いとく天皇まで。

今回は、奈良県御所ごせ市の5代孝昭天皇と6代孝安天皇

私が訪れた天皇陵は、古代史に関連する、初代~50代桓武天皇まで。

天皇陵を巡る時に大変なことは、あちこちトビトビにあることだ。

つまり、歴代順に訪れようとすると、あちこち廻ることになり、全く非効率になる。

なので、目的とする天皇陵を含む一帯の他の古墳や、社寺や観光地をついでに巡る。

というか、他の古墳や、社寺や観光地一帯にある天皇陵を、ついでに巡るという方が適切かもしれない。

ただ、初代~4代は橿原神宮の周囲にあり、今回の孝昭・孝安天皇陵も、割と近接しており、歩きでも歴代順に巡れる。

 

今回は天皇陵を含めた「おすすめコース」に沿って紹介する。

なお掲載写真は2018年6月1日の散策分です。また陵、諡号等の基本知識は、前回記事等参照ください。

近鉄御所駅または(JR)御所駅24号線①鴨都波神社→②第5代孝昭陵③室宮山古墳・ネコ塚古墳309号線巨勢山古墳群 条池支郡日本武尊王白鳥陵⑤第6代孝安陵御所まち御所駅 =約11Km+α。*この「+α」が曲者で、古墳周辺をウロウロする分だが結構嵩張る。

 

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近鉄御所駅~鴨都波かもつば神社

近鉄御所駅     駅前24号線     鴨都波神社     神社縁起      拝殿・本殿

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5代 孝昭天皇

・和風諡号 みまつひこかえしね(記=御真津日子可恵志泥 紀=観松彦香殖稲)

・享年・在位等 記の享年93才。紀では享年113才・在位83年

 ・所在等 御所市大字三室。掖上博多山上陵わきのかみのはかたのやまのえのみささぎ 

     俗称「博多山」。

第2~9代天皇は『古事記』『日本書紀』に事績の記載が極めて少なく、治世の長さも不自然。また父子間直系相続は7世紀以後に一般的になるはずで、宮・陵の所在地も前期古墳の分布と一致しない等から、創作性が強いとされる。総称して「欠史八代」と呼ばれる。実在説もあるにはあるが・・・・・。

(参考)古事記の記述全文

御眞津日子訶惠志泥命 坐葛城掖上宮 治天下也 此天皇 娶尾張連之祖奧津余曾之妹 名余曾多本毘賣命 生御子 天押帶日子命 次大倭帶日子國押人命 二柱 故 弟帶日子國忍人命者 治天下也 兄天押帶日子命者 春日臣 大宅臣 粟田臣 小野臣 柿本臣 壹比韋臣 大坂臣 阿那臣 多紀臣 羽栗臣 知多臣 牟邪臣 都怒山臣 伊勢飯高君 壹師君 近淡海國造之祖也 天皇御年 玖拾參歲 御陵在掖上博多山上也

御眞津日子訶惠志泥命 葛城掖上(わきがみ=御所市)宮に坐(いま・おわ・ましま)して天の下(あめのした)治(し)らしめしき・・(中略)・・・御年93歳 御陵は掖上の博多山の上 

 拝所遠景         拝所東隣の孝照宮    制札          拝所

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室宮山古墳むろみややまこふん (別称「室大墓むろのおおはか」) 

・御所市大字室 5世紀初頭の前方後円墳 組合式長持形石棺の一部が露出。国の史跡

・古くから後円部に八幡神社が祀られことが「宮山」の由来。

 「室むろ」は古地名で、『和名抄』にも大和国葛上郡に「牟婁郷」とある。

蛇穴交差点        道標          室宮山古墳へ      前方部西側の寶國寺

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・南側墳裾の八幡神社の拝殿西隣に古墳への登り口がある。

被葬者は武内宿禰とする説がある。武内宿禰は『記紀』によれば12代景行~16代仁徳天皇に仕えたという伝説上の忠臣。記紀ではその墓に関する記載はないが、中世の『帝王編年記』仁徳78年条の一説では、「大和国葛下郡で薨じ死所は「室破賀墓」である」とあり、同記編纂当時(南北朝時代頃)には本古墳に関して武内宿禰被葬者説が存在したことが知られる。武内宿禰は7世紀頃の創出と見られ、史実性は薄いかも。
最近では被葬者を葛城襲津彦かずらきのそつひことする説が有力。襲津彦は『記』で武内宿禰の子に位置づけられ、記紀以前の『百済記』にも類似名称の記載があるので、4世紀末~5世紀前半頃の実在性が有力。襲津彦の活動時期は本古墳の築造時期とも一致し、朝鮮半島に派遣された点は、北石室出土の船形陶質土器とも関連づけられるとのこと。ただ襲津彦に比定する場合でも、彼のモデル人物が複数存在する可能性がある。

*かつては孝昭や孝安天皇陵説もあった。孝安天皇の宮が、室の「秋津島宮(葛城室之秋津島宮)」で、その宮を当地とする説が古くからあり、八幡神社境内に「室秋津島宮阯」碑が立つ。

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・墳丘全長238m。後円部は3段築成で直径105m(推定復元148m)、高さ25m。前方部 は3段築成で、幅110m(推定復元152m)、高さ22mで西南西を向く。  

葛城地方では古墳時代前期に大型古墳はなく、中期に入り室宮山古墳が突如出現する。室宮山古墳に次ぐ葛城地方の首長墓は掖上鑵子塚古墳(御所市柏原、墳丘長149m、5世紀中葉)だが、その規模は室宮山古墳に比べかなり小さい。なお、御所市域では室宮山古墳を契機とする遺跡として、5世紀中頃-後半に最盛期を迎えた広域集落の南郷遺跡群や、5世紀末から営まれた巨勢山古墳群が知られる。

 登り口見返り       登り道          後円部墳頂見上げ    後円部墳頂東望

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埋葬施設は、後円部に2ヶ所、前方部に2ヶ所(推定)、北張出部に1ヶ所、南張出部に1ヶ所(推定)の計6ヶ所。主体となる後円部の2ヶ所は、墳丘中軸線(東西)を挟み南北に平行に並ぶ。

・後円部南石室

1950年(S25年)に盗掘を受け、同年緊急発掘調査を実施したとのこと。天井石の西端1枚が欠損し、その欠損部分から長持形石棺の小口面が見られる。石室は、緑泥片岩・石墨片岩など結晶片岩紀の川産)製の割石を積んだ竪穴式石室で、長さ5.5m、幅1.9m(東側)・1.7m(西側)、高さ約1.1m。天井石は凝灰岩(流紋岩質溶結凝灰岩:加古川市付近の姫路酸性岩)製の切石で、西端1枚を除く5枚が残る。石棺内から玉類=管玉など(棺外からの流入かも)、石室内からは玉類=勾玉・管玉など、琴柱形石製品、刀剣 11口、革綴短甲残片、鏡破片=唐草文帯二神二獣鏡。石室の封土からは、(天井石閉塞後の祭祀によるものか)滑石製の石製模造品、土師器片、鉄剣などの鉄製品が出土したらしい。

天井石欠損部                           石室西望(木枝で石室外形を再現)

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石棺は、凝灰岩製の竜山石(加古川流域産)の組合式長持形石棺。全面に朱を塗り、長さ3.5m(縄掛突起を含め3.8m)、幅約1.4m。蓋石には格子亀甲文が有るほか、縄掛突起が4面各2個の計8個有る。被葬者は東枕で、石室は石棺を据えた後に築かれたと見られる。石棺は現在も石室に納めた状態で遺存。長持形石棺は「王者の石棺」とも称される王墓に特有の棺であるが、本古墳の棺はその中でも大規模な部類。

天井石欠損部     石棺の縄掛突起 石棺盗掘跡?(足は大きさ比較)       石棺内

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石室上部周囲には、2重の埴輪列が長方形に巡らされていた。外側列は甲冑形埴輪(冑は革製)・靫(ゆぎ=矢を入れて背負う)形埴輪・盾形埴輪など高さ約1.5mの埴輪40体前後から成る大規模な武器形埴輪列。内側列は円筒埴輪・朝顔形埴輪列。武器形埴輪は正面を外側に向け被葬者を守る意味で、そのうち冑形埴輪が当時一般的な鉄製冑形でなく革製冑形であることから、被葬者を守護する親衛隊の象徴と見られる。また2重埴輪列のさらに南側には、大型の家形埴輪5体以上が置かれていた。以上の埴輪の一部や埴輪列の復元模型は橿原考古学研究所付属博物館に展示。

靫形埴輪レプリカ           埴輪列解説           天井石欠損部南西望

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後円部北石室

後円部の北石室は、発掘調査されず詳細不明。ただ1998年(H10)台風7号に伴う倒木被害の際、倒木の根跡調査から若干様子が分かっている。南石室同様に緑石片岩を積み上げた竪穴式石室。内部に竜山石製の長持形石棺が安置され、石棺は閃緑岩で根固めされていた。石室周囲にも同様に埴輪列が巡らされていたが、元の位置から大きく動いており、乱掘により多くが破壊されたと見られる。また副葬品のうちには、加耶朝鮮半島南部)産の陶質土器4点以上があり、中でも精巧な船形陶質土器1点が注目されている。陶質土器の副葬はあまり類例がなく、土器自体も一般的な日本の須恵器と色調が異なることから、朝鮮半島からの伝世品と推測されるとのこと。

北石室辺り南東望        北西望               天井石?

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・その他、前方部墳丘上に推定2基。1基は1908年(M41)耕作に伴い発掘され、木片(木棺材か)・鏡・玉・石製品が出土。鏡は11面(うち絵模様神獣鏡2面・三角縁神獣鏡1面・獣首鏡1面)、滑石製勾玉・管玉・棗玉・玻璃玉など4種170余個、石製刀子1個。鏡には鉄錆があり鉄器類の可能性もあるとのこと。北張出部には粘土槨1基。内部の木棺が、推定長8.6mという長大な埋葬施設。1971年(S46)の発掘調査で漆塗製品(革製冑か)・鉄鏃・短甲片・鉄刀片が出土。鉄製冑でなく革製冑が出土したことから、この被葬者は後円部被葬者の親衛隊長と推測されているらしい。

ネコ塚古墳

室宮山古墳後円部東端の、309号線を挟んだ北側。室宮山古墳の本来の周濠外堤に乗るようにある。一辺約63mの方形墳。築造は古墳時代中期、竪穴式石室がある模様。

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巨勢山古墳群 条池支郡

古墳時代中期中葉~終焉期、御所市の巨勢山丘陵に約700基築かれた群集墳の支郡。

みやす塚古墳 御所市室字ミヤス 私有地のため墳丘立入禁止。径約50mの円墳。1948年調査で方形の円筒埴輪列の一部を確認。その中心地下の埋葬施設は盗掘され窪地となっていたらしい。家・蓋形埴輪等の形象埴輪も出土したとのこと。

左の青い●がみやす塚古墳 右の青い●は642号墳

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条池北古墳:641号墳 6世紀中葉~後半。破壊されているが右片袖式横穴式石室が半分残り、西の池側に開口、天井石は割れているらしい。
条池南古墳:640号墳 6世紀後半。石棺には石枕が作りつけてあった。副葬品には優秀な馬具部品があり、葛城氏を支えた有力層の墳墓と見られてる・・・・・。    とのことだが、この二つの古墳らしいものはあったが、解説板等はなく、はっきりとは確認できなかった。

條庚申塚古墳:642号墳 墳頂に祠が有る。祠から東側に降りた所に石室開口。

古墳西望          墳丘登り口        墳頂祠        赤矢印が石室位置

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石室羨道部分は損壊しているが、石室内は十分入れる。

石室          奥壁            (A4ファイルは大きさ比較)   開口部

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條ウル神古墳 御所市條 條庚申塚古墳(642号墳)から東へ160m。6世紀後葉頃の前方後円墳前方後円墳ではほぼ最終期。当古墳の石室は現在埋め戻されており、私有地で立ち入れない。

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大きく削平されている。前方部を南南東に向ける。墳丘長約70m。埋葬施設は横穴式石室で、内部に二上山凝灰岩製の刳抜式家形石棺を安置。石室・石棺は大規模で、玄室長7.1m以上、幅2.4m以上(奥壁側)・2.7m以上(玄門側)、高さ3.8m。また石棺側面の縄掛突起が3個ずつというのが珍しい(通常2個ずつ)。出土品は須恵器片・埴輪片。 石室・石棺規模は同時代の五条野丸山古墳(玄室全長8.3m)石舞台古墳(玄室全長7.6m)に匹敵。石室・石棺の特徴が巨勢山古墳群と共通するので、被葬者は巨勢山古墳群を形成した巨勢氏(許勢氏)の盟主(猿、稲持、胡人、比良夫)に比定する説があるらしい。

日本武尊(古事記では倭建命) 白鳥陵しらとりのみささぎ 「権現山」(「天王山」とも)

 ・御所市富田。28m×45mの長方丘(一説には円墳)

 当古墳以外に、宮内庁により次の2ヶ所も日本武尊陵に治定されている。

・能褒野墓(のぼののはか三重県亀山市)=能褒野王塚古墳。墳丘長90mの前方後円墳で、4世紀末築造と推定される。

・白鳥陵(しらとりのみささぎ大阪府羽曳野市)=軽里大塚古墳・前の山古墳・白鳥陵古墳とも。墳丘長190mの前方後円墳で、5世紀後半築造と推定される。

第12代景行天皇(1世紀前後?)の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄。

309号線から東望   陵への道順標識                       参道方面

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ヤマトタケル伊勢国能褒野で薨じ、同地に陵を造って葬ったことは、記・紀ともに一致する。しかし白鳥(記では「八尋白智鳥」)と化して西方に飛び、降り留まった地にあらたに「陵」を起こしたという記事は両書で少し異同がある。

拝所からグルっと一周できる。

陵案内           拝所          拝所反対側       参道見返り

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*「陵」は本来天皇に限られる呼称。皇子の墓を「陵」というのは、『記、紀』においてヤマトタケルの能褒野陵と2つの白鳥陵のみで、例外的である。のちにヤマトタケルの墓を「能褒野墓」と定め、また『日本書紀』の所伝をも尊重し、「白鳥陵」2つを能褒野墓に附属するものとしたとのこと。

 

6代 孝安天皇

・和風諡号 やまとたらしひこくにおしひと(記=大倭帯日子国押人 紀=日本足彦国押人)

・享年・在位等 記の享年123才。紀では享年137才・在位102年

・所在等 御所市大字玉手。玉手丘上陵たまてのおかのえのみささぎ

5代孝昭天皇同様、「欠史八代」の一人。

(参考)古事記の記述全文

大倭帶日子國押人命 坐葛城室之秋津嶋宮 治天下也 此天皇 娶姪忍鹿比賣命 生御子 大吉備諸進命 次大倭根子日子賦斗邇命 二柱 自賦下三字以音 故 大倭根子日子賦斗邇命者 治天下也 天皇御年 壹佰貳拾參歲 御陵在玉手岡上

拝所遠景 北望

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これらの天皇達の実在を疑問視する説を提唱したのは、歴史学者津田左右吉(1873-1961年)。津田が始めに主張した説では欠史八代の8人の天皇達と、それに次ぐ崇神・垂仁・景行・成務・仲哀天皇(およびその皇后の神功皇后)も存在を否定し、「欠史十三代」を主張した。津田のこの説は不敬罪に当たるとして提訴され、1942年に裁判で敗北するが、第二次大戦後にGHQの指導によって(神道指令)、津田説が古代史学の主流となり、以後学校教科書からも初代神武天皇から神功皇后までの記述が削除されることとなった。しかしその後に津田説に次々と矛盾点が指摘され、崇神・垂仁・景行・成務・仲哀と神功皇后非実在性が薄らぎ、現在の歴史学では2代から9代までの実在を疑う「欠史八代」説が歴史学の主流となっている。一方で反論意見も根強くあり、実在説を唱える学者も少なくない。

参道登り口               参道         拝所

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御所まち 

御所駅東側に、風情ある街並みがある。「御所まち」と呼ばれ、葛城川によって「西御所」と「東御所」に分けられるそうだ。「西御所」は桑山氏の城下町の商業的町場として栄え、碁盤目状の道路が城下町のなごりを伝え、一方「東御所」も西御所と同じく、桑山氏の城下官庁街として、また桑山一族が建てた円照寺の寺内町として発達したとのこと。役行者が通ったとされる『行者街道』もある。

御所市観光ガイド

天皇陵だけを、見たい方は、下記のブログがすごいです。

1代神武天皇から124代昭和天皇までの全陵を何年かかけて、廻られたようです。

http://www.inoues.net/tenno/tenno_meguri.html

宮内庁HPの天皇陵はこちら↓