OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

天皇陵(その一)

天皇陵(その一)

1代『神武天皇陵』、2代『綏靖天皇陵』、3代『安寧天皇陵』、4代『懿徳天皇陵』

初代 神武じんむ天皇

・和風諡号 かむやまといわれびこ(記=神倭伊波禮毘古 紀=神日本磐余彦)。
・享年・在位等 記の享年137才。紀では享年127才、在位76年。

     *明治時代の那珂通世説では紀元前660年~585年。

・所在等 橿原市大久保町 畝傍山東北陵うねびやまのうしとらのすみのみささぎ

     円丘。考古学名は四条ミサンザイ古墳(山本ミサンザイ古墳、神武田古墳とも)

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・主な事跡=神武東征
「記」抜粋=高千穂宮で「葦原あしはら中国なかつくにを治めるにはどこが適当か」相談し、兄の五瀬いつせ命と共に東へ向かう。日向→豊国の宇沙(宇佐市)→筑紫の岡田宮で1年→阿岐国(広島県西部)の多祁理宮たけりのみやで7年→吉備国(岡山県周辺)高島宮で8年→速吸門はやすいのと→河内の白肩津→那賀須泥毘古ながすねひことの戦闘で五瀬命負傷→紀国(和歌山県)の男之水門おのみなとから迂回(五瀬薨去)→熊野で八咫烏やたがらすの導き→吉野川→宇陀(奈良県宇陀市)→忍坂(おさか=奈良県桜井市忍阪)→邇芸速日命(にぎはやひ=先住の神)と和解→畝火の白祷原宮(畝傍の橿原)で天の下治らしめしき。*天の下治ろしめす(あめのしたしろしめす)=天下を治めるという常套句 

「紀」抜粋=諸皇子と舟軍を率い→速吸之門(はやすいのと=豊予海峡)経由で筑紫国の菟狹(宇佐)で1か月→岡水門(おかのみなと=福岡県遠賀郡遠賀川河口)で1か月→安芸国の埃宮(えのみや=広島県府中町)で2~3か月→吉備国の高嶋宮で3年→難波之碕→河内国白肩之津→長髄彦ながすねひことの戦闘で五瀬命負傷→紀伊国の雄水門おのみなと・竃山かまやまから迂回(五瀬薨去)→名草邑(なくさのむら=和歌山市名草山)→熊野の神邑(みわのむら=新宮市三輪崎)兄弟二人薨去→熊野荒坂津くまのあらさかつ八咫烏の導き→菟田(宇陀)奈良県各地で戦闘→長髄彦と再戦、饒速日命にぎはやひのみこと長髄彦を殺し恭順→忍坂・生駒・天理等での戦闘→畝傍山の東南の橿原で即位

・神武陵の位置論争
元禄10年(1697年)修陵から幕末まで、現綏靖陵(四条塚山古墳)が神武陵として管理されてきた。しかし、この間にも神武陵所在地論争が起きている。明和9年(1772年)国学者本居宣長は、「菅笠すががさ日記」で、四条塚山古墳を神武陵とすることに異論を唱えた。古事記を重んじた宣長は「記に神武陵は『畝火山之北方白檮尾上』とあるのに、四条塚山古墳は畝傍山から離れすぎで、畝傍山西北麓の『すゐぜい塚(畝傍山北西慈明禅寺参道付近、全長71mの前方後円墳スイセン塚古墳。一時は綏靖陵に治定)』が神武陵にふさわしい」とした。嘉永元年(1848年)大和出身の津藩士で山陵研究家の北浦定政は「打墨縄うちすみなわ」で「神武陵は畝火山の東北の洞ほら村と云、其村の上にあり、字丸山とよぶ」と、畝傍山東北麓で中腹にある丸山を主張した。嘉永7年(1854年)与力で山陵研究家の平塚瓢斎は「聖蹟図志」で、「四条塚山古墳が神武陵」と記しながら、一説に「綏靖帝陵」と併記している。文久年間修陵の中心人物の谷森善臣よしおみは、安政4年(1857年)の「藺笠いがさのしづく」や文久2年(1862年)頃に完成した「山陵考」で、「丸山説は、陵墓としての形跡が観察できない」として、「丸山の北側の下方にある畑の小字ミサンザイ、俗称神武田じむだを地名考証から神武陵だ」と主張した。文久修陵にあたり、北浦の丸山説と、谷森のミサンザイ説が朝廷に提出された。文久3年(1863年)2月孝明天皇の勅裁で谷森の推すミサンザイが神武陵に決定した。これが今の「畝傍山東北うしとらのすみ陵」。四条塚山古墳は治定替えとなり、明治11年(1878年)2月に綏靖天皇陵となった。その後、神武陵の周辺拡張整備が行われた。1917年(大正6年)9月以降に数年かけて洞村は移転させられた。陵墓の神聖を侵すというのが理由だったそうだ。

 

*御陵印ごりょういん

 天皇陵参拝記念にもらえる「天皇陵の参拝記念スタンプ」みたいなもの。御陵印は、陵墓印りょうぼいんともいい、自分で押印できる印章(印影)のこと。以前は天皇陵それぞれに置いてあったそうだが、現在は、宮内庁書陵部陵墓課が、全国を5監区にわけ、それぞれに「陵墓監区事務所」を設置し、そこで分割管理している。5箇所を回ると、歴代93個(重祚・合葬あるため124個ではない)の御陵印を集められる。事務所で「御陵印を押させてください」と言えばいい。御陵印帳があれば便利(ネット通販でも購入できる)
畝傍陵墓監区事務所 拝所の東隣

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(御陵印のある場所)
 多摩陵墓監区事務所 東京都八王子市長房町1833(大正・昭和天皇武蔵陵墓地
 桃山陵墓監区事務所 京都市伏見区桃山町古城山明治天皇伏見桃山陵
 月輪陵墓監区事務所 京都市東山区泉涌寺山内町34-2(泉涌寺内 総門からの参道中程脇)
 畝傍陵墓監区事務所 奈良県橿原市大久保町71-1神武天皇陵)
 古市陵墓監区事務所 大阪府羽曳野市誉田6-11-3応神天皇陵)
 

2代 綏靖すいぜい天皇

・和風諡号 かむぬなかはみみ(記=神沼河耳 紀=神渟名川耳)
・享年・在位等 記の享年45才。紀では享年84才、在位33年。
・所在等 橿原市四条町 『桃花鳥田丘上陵つきだのおかのえのみささぎ

     考古学名・俗称は「塚山」「塚根山」で直径30m。 *桃花鳥=つき=トキ

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・主な事跡=即位の経緯

「記」=神武天皇薨去後、その庶兄「当芸志美美命たぎしみみのみこと」が、神武皇后の伊須気余理比売いすけよりひめを娶とり、その子=異母弟=三人(日子八井命ひこやいのみこと神八井耳命かむやいみみのみこと、神沼河耳命かむぬなかはみみのみこと)を殺そうと謀った。伊須気余理比売は、歌で御子に知らせた。御子達は驚き、逆に当芸志美美を殺そうと計画。神沼河耳命が、兄の神八井耳命に「あなたが武器を持って入って、当芸志美美を殺してください」と言った。兄である神八井耳命は武器を持って入って殺そうとしたが、手足が震えて殺せなかった。そこで弟である神沼河耳命が、兄の持っていた武器をもらい受けて殺した。 兄の神八井耳命は 「わたしは仇を殺せなかった。あなたが仇を殺した。私は兄だが、天皇になるべきではない。あなたが天皇となって天下を治めなさい。私はあなたを助けて仕える」と言って、 弟(綏靖天皇)に皇位を譲った。

「紀」=神武天皇薨去後、その庶兄の手硏耳命たぎしみみのみことが、二人の異母弟を殺そうと計画した。 神渟名川耳尊かみぬなかわみみのみことと兄の神八井耳命かむやいみみのみことはその殺害計画を知り、弓矢を作らせた。手硏耳命が小屋の中にいる時、弟の神渟名川耳尊は、兄の神八井耳命に「今がチャンス。誰も助けてくれる人はいないので、私とあなたが行うしかない。わたしが小屋の戸を開けるので、あなたが射ってださい」と言った。二人が小屋に入り、弟が戸を開いたが。兄は手足が震えて矢を射れなかった。神渟名川耳尊は、兄の持っていた弓矢を取り手硏耳命を射た。一発が胸に当たり、もう一発が背中に当たり、ついに殺した。兄は弟に「私は兄だが、未熟で弱く、結果を出せなかった。あなたは悪を殺して、英明にして武勇を備えている。あなたが継いで、天位についてください。私はあなたの助けとなって、神祇を祀ります」と、皇位を譲った。
*欠史8代
2~9代は、2代綏靖天皇の即位経緯記事を除き、「記・紀」の記載内容が極めて少なく、先帝の陵地、宮名、血縁関係、立太子時期、即位時期、崩年時期しか記されていない。そのため総称して「欠史8代」と呼ばれている。これら古代の天皇達の実在を疑問視する説を提唱したのは、歴史学者津田左右吉(1873 -1961年)である。津田が始めに主張した説では欠史八代の8人の天皇と、それに次ぐ崇神・垂仁・景行・成務・仲哀天皇およびその后である神功皇后も存在を否定しており、津田は「欠史十三代」を主張していた。津田のこの説は不敬罪に当たるとして提訴され、1942年に裁判で敗北するものの、第二次大戦後にGHQの指導によって(神道指令)津田説が古代史学の主流となり、以後学校教科書からも初代神武天皇から神功皇后までの記述が削除されることとなった。しかしその後に津田説に次々と矛盾点が指摘され、崇神・垂仁・景行・成務・仲哀と神功皇后非実在性が薄らぎ、現在の歴史学では2代から9代までの実在を疑う「欠史八代」説が歴史学の主流となっている。一方で反論意見も根強くあり、実在説を唱える学者も少なくない。

 

3代 安寧あんねい天皇

・和風諡号 しきつひこたまてみ(記=師木津日子玉手見 紀=磯城津彦玉手看)
・享年・在位等 記の享年49才。紀では享年57才、在位38年
・所在等 橿原市吉田町『畝傍山西南御陰井上陵うねびやまのひつじさるのみほどのいのえ  

      のみささぎ。公式形式は山形。俗称「アネイ山」(山形墳)。

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4代 懿徳いとく天皇

・和風諡号 おほやまとひこすきとも(記=大倭日子鍬友 紀=大日本彦耜友)
・享年・在位等 記の享年45才。紀では享年77才、在位34年
・所在等 橿原市西池尻町 畝傍山南纖沙溪上陵うねびやまのみなみのまなごのたにのえの

      みささぎ。公式形式は山形。俗称「マナゴ山」(山形墳)。

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【散策おすすめコース】

橿原神宮前駅→1.5km①第1代神武陵→0.8km②第2代綏靖陵→2km③橿原神宮
→0.7km④第4代懿徳陵→0.5km⑤第3代安寧陵→2km橿原神宮前駅=約8km

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天皇陵(その一)~(その十)は以下を参照下さい。

osaka-tom.hatenablog.com