OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

メスリ山古墳

JR桜井線・近鉄大阪線桜井駅の南東1.5km程にある鳥見山(とみやま=標高約245m)一帯を囲むように点在する古墳の一つがメスリ山古墳

古墳時代前期後半=4世紀初頭(~中頃)の前方後円墳、国の史跡。鉢巻山古墳とか東出塚古墳等とも呼ばれる。地理的には鳥見山古墳群だが、北側にある艸墓くさはか文殊院・谷首・コロコロ山古墳等の終末期古墳と比べると、250年~300年程古く、築造の時代背景は全く異なる。

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奈良県桜井市高田。2018年4月9日(月)一度訪問しており、当時は墳丘に登ったが、2022年6月17日(金)再訪時は、笹が深く登墳はパス。

コロコロ山古墳から東へ    メスリ山古墳前方部      後円部南東望見上げ   南望見上げ 

    *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

前方部を西に向ける墳丘長224m(古い案内板には約230m、現在250mともされる)前方後円墳で、墳丘斜面には人頭大の葺石が敷かれていた。後円部3段築成=径128m・高19m(古い案内板には径120m・高21m)、前方部2段築成=幅80m・高8m(古い案内板には高9m)。後円部に比べ、前方部がかなり低い。(前方部は果樹園になっている。)
後円部テラス各段に円筒埴輪が巡り、更に墳頂部の方形区画を囲むように円筒埴輪が二重に巡っていたらしい。また円筒埴輪は後円部3段目から前方部2段目への斜道にも2列に立てられており、前方部方形壇の外側にも間隔を置いて点在したらしい。

 (以下、掲載写真は2018年4月9日のものです。)

後円部3段築成    1段目        2段目        3段目から墳頂へ  前方部2段築成

後円部墳頂の方形区画は南北に長く、長辺(南北)11.3m・短辺(東西)4.8m程・深さ1m程で、周囲を二重に巡っていた円筒埴輪列は、一重目と二重目の間隔が広くとられ、その間に径1mもの大型円筒埴輪を角や辺を等分する位置に立てていたらしい。方形区画両短辺の円筒埴輪列の内側には、口縁部径1.3m・高さ2.4m程の=日本最大の器台型埴輪が1本ずつ立てられていた。その方形区画の下に、南北に長い竪穴式の埋葬主体部(全長8m・幅1.35m・深さ1.76m、8石の天井石)があり、粘土床上に木棺が安置されていた。なお竪穴式の埋葬主体部の上部外周には、約1mの高さで塊石を石垣状に積んでおり、これが方形区画の四周壁を形成していたとのこと。

方形区画位置    石室の天井石               方形区画の積み石  円筒埴輪列イメージ

主石室では内行花文鏡・三角縁神獣鏡の破片、翡翠の勾玉・碧玉の管玉等の玉類、石釧いしくしろ・鍬形石・車輪石等の石製腕輪類、椅子形石製品、櫛形石製品、石製合子(ごうす=ふた付きの 小さい容器)・刀剣等が出土(盗掘で大半が破壊されていたらしい)。更に主石室東横には副室が設けられていた。持ち送り積み合掌式天井の竪穴式石室で、長さ6m・幅0.7m・高さ0.6~0.7m。武器等の埋納用と考えられ、鉄剣形の茎式鉄矛212本(長柄をつけていた?)、銅鏃236個、石鏃50個、鉄弓1張(長さ182cmで鉄製弦)、鉄製矢5本(長さ80cm)、漆塗り盾、鉄剣・鉄刀各1本、鉄斧14個、玉状の石製品、手鎌19本、鑿のみ、やりがんな51本、錐、刀子、鋸等、680点が出土。

後円部の遺存葺石     後円部北東墳裾の案内  (2022年6月現在も残る案内)

古事記』、『日本書紀』や『延喜式』等に陵墓としての伝承はないが、墳丘規模・埴輪の大きさ・石室規模・副葬品埋納施設・出土遺物等からすると、絶大な権勢を誇った首長墳墓と考えられる。メスリ山古墳の築造時期(4世紀初頭~中頃)は、考古学的には3世紀代の箸墓古墳西殿塚古墳茶臼山古墳に後続し、行燈山古墳(4世紀前半=10代崇神天皇陵)・渋谷向山古墳(4世紀中頃=12代景行天皇陵)に先行する時期であり、歴史学的には初期ヤマト政権の形成期とされる。

行燈山古墳(10代崇神天皇陵)・渋谷向山古墳(12代景行天皇陵)は以下を参照下さい。

天皇陵 その三 - OSAKA-TOM’s diary

 

石室に入室できる古墳と違い、外から墳丘を眺めるだけの古墳はイマイチ興味が薄れるので、築造の時代背景を知った上で訪問するといいかも・・・。