天皇陵 その三
7代『孝霊天皇陵』、8代『孝元天皇陵』、9代『開化天皇陵』、10代『崇神天皇陵』、11代『垂仁天皇陵』、12代『景行天皇陵』・日本武尊(倭建命)白鳥陵、13代『成務天皇陵』、14代『仲哀天皇陵』、15代『応神天皇陵』
7代『孝霊こうれい天皇陵』
2016年4月2日参拝。奈良県北葛城郡王寺町本町3丁目。第7代「大日本根子彦太瓊おほやまとねこひこふとに=孝霊天皇」の『片丘馬坂陵かたおかのうまさかのみささぎ』に治定。
『延喜式』諸陵寮では「片丘馬坂陵」として兆域は東西5町・南北5町、守戸5烟で天皇陵(遠陵)とある。後世に所伝が失われ、元禄の探陵で現陵に治定された。公式形式は山形。
宮名は、『日本書紀』(以下『紀』)、『古事記』(以下『記』)とも「黒田廬戸宮くろだのいおどのみや」。伝地は『和名類聚抄』の大和国城下郡黒田郷と見られ、現奈良県磯城郡田原本町黒田周辺と伝承される。同地の法楽寺境内に「黒田廬戸宮阯」碑が建っている。
父は6代孝安天皇。母は皇后の押媛。『記紀』にも皇統のみで、在任中の事蹟に関する記載がなく、いわゆる「欠史八代*」の一人。
*『記・紀』において系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞)が記されない第2代綏靖天皇~第9代開化天皇までの8代の天皇、またはその時代を指す。
参道登り口 制札 拝所遠景 拝所 参道見下ろし
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8代『孝元こうげん天皇陵』
2016年2月4日参拝。橿原市石川町。第8代「大倭根子日子国玖琉おおやまとねこひこくにくる=孝元天皇」の『劔池嶋上陵つるぎのいけのしまのえのみささぎ』に治定。陵については『記』では「御陵は剣池の中の岡の上」とある。宮は『記紀』ともに「軽かるの境原宮さかいはらのみや」。『記紀』では皇統のみで、在任中の事蹟に関する記載がなく、いわゆる「欠史八代」の一人。
考古学名は中山塚1-3号墳(円墳2、前方後円墳1基)。橿原神宮前駅の東、石川池(万葉集に歌われた剣池)の中に浮かぶ島のように見える部分(東側奥では丘陵とつながっている)の上に石川中山塚古墳群=3基の古墳がある。
幕末の谷森善臣は「東南の1基を、西面に、後円うしろまるく、前方まえかたに造り給ひし」と「山陵考」に記し、前方後円墳と見ていた。陵の地形図の等高線も前方後円墳っぽい。石川中山塚古墳群は藤原京内と推測されるが、中国の隋や唐の律令では都から離れた場所に人を葬るのがきまりで、日本律令もそれに倣い、天皇が居住する都城内や周辺や大路近辺に墓を営むことを禁じている。藤原京造営で、京内の古墳の多くが削平された(発掘調査では50基以上とも)。しかし石川中山塚古墳群に墳丘が残るのは、律令国家が皇統譜上の初期王陵に擬し、京内に意図的に残された=「都市開発」から外されたのではないかという説もある。
参道登り口 制札 参道 拝所遠景 拝所
9代開化天皇陵
2016年2月9日参拝。奈良市油阪町(近鉄奈良駅の西側)。第9代「稚日本根子彦大日日わかやまとねこひこおほひひ=開化天皇」の『春日率川坂上かすがのいざかわのさかのえのみささぎ』に治定。『記』では「御陵は伊邪河の坂の上」とある。宮は『紀』では春日率川宮かすがのいざかわのみや、『記』では春日之伊邪河宮。
第8代孝元天皇の第二子。母は皇后の欝色謎命うつしこめのみこと。同母兄弟に「倭迹迹姫命」(箸墓古墳の被葬者とされる)等がいる。『記紀』では皇統のみで、在任中の事蹟に関する記載がなく、いわゆる「欠史八代」の一人。
考古学名は念仏寺山古墳で、墳長約100mの前方後円墳。
参道 制札 拝所遠景 拝所
10代『崇神すじん天皇陵』
直近は2019年12月参拝。天理市柳本町。第10代「御間城入彦五十瓊殖みまきいりひこいにえ=崇神天皇」の『山辺道勾岡上陵やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ』に治定。『記』では「御陵は山辺道の勾の岡の上」とある。宮は磯城瑞籬宮しきのみずがきのみや、『記』では師木水垣宮とあり、桜井市三輪山西麓に比定される。
第2~9代まで系図等の記述しかないが、10代崇神条に初めて多方面の記述が出てくる(天照大神等の宮中外祭祀、大物主大神祭祀、四道将軍派遣等)。『紀』の崇神天皇即位12年9月条に、「天下が太平になり、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと=初めて治めた天皇)と呼ばれた」とあり、また『記』にも「御世を称へて、初国知らしし御真木天皇みまきのすめらみことと謂す」ともあり、実在する初代の天皇との説もある。
考古学名は行燈山あんどんやま古墳。詳細は下記参照ください。
11代『垂仁すいにん天皇陵』
2016年2月22日参拝。奈良市尼辻西町11。第11代「活目入彦五十狭茅いくめいりびこいさち=垂仁天皇」の『菅原伏見東陵すがわらのふしみのひがしのみささぎ』に治定。『記』では「御陵は菅原の御立野の中にあり」とある。宮内庁治定の菅原伏見東陵の陪冢は、湟内陪冢1ヶ所、飛地陪冢6ヶ所(い号・ろ号・は号・に号・ほ号・へ号)の計7ヶ所。
『記紀』にある事績は系統解説の性格が強くその史実性が疑問視されたが、近年はその実在を認める説も多い。宮は纒向珠城宮まきむくのたまきのみや。『記』には「師木玉垣宮しきのたまかきのみやとあり、奈良桜井市穴師周辺に比定される。
『紀』垂仁即位7年条に「角力=相撲の元祖(野見宿禰と当麻蹴速)」伝承記事がある。また、即位28年10月、同母弟の倭彦命やまとひこのみことが薨去し、埋葬時に近習者をを生きながら埋めた様子を悲しみ、殉葬を禁止した。さらに即位32年秋7月条に皇后の日葉酢媛命ひばすひめのみことが薨去した際、出雲国から土部はじべを呼び寄せ、人や馬等の土物はにものを作らせ殉葬の代替にさせた。これが『埴輪』の始まりという伝承記事がある。
現在、垂仁陵周濠内南東の小島が、湟内陪冢『伝田道間守墓』として治定されている。『釈日本紀』巻10所引の『天書』では景行天皇が彼の忠を哀しんで垂仁陵近くに葬ったとある。考古学調査はされておらず、江戸時代の「山陵絵図」や明治時代の「御陵図」に島が描かれていないため、考古学的には、江戸か明治期の周濠拡張に伴う外堤削平の際、残された外堤の一部と推測されている。ただし「廟陵記」等で周濠南側に『橘諸兄公ノ塚』の記載があることから、その塚を前提として小島が残されたとする説も。田道間守*(三宅連=三宅氏の祖)を菓祖神とする信仰により、現在は小島の対岸に拝所が設けられている。
*田道間守は天日槍(あめのひほこ=新羅からの渡来人)の子孫。垂仁即位90年に、天皇から「常世国に非時(ときじく)の香菓(かぐのみ)を求めよ」と命じられた。しかし垂仁即位99年7月に天皇は崩御。翌年(景行元年)田道間守は非時香菓を持ち帰ったが、天皇崩御を聞き、陵で自殺したと『紀』にあり、『記』にも同様の記事がある。
考古学名は宝来山古墳。全長227mの前方後円墳。前後3段築成。前方部3段目は後円部3段目の下半分に接続し、神戸市垂水区の五色塚古墳が類似する。
制札 参道南西望 拝所 田道間守命塚・拝所 飛地い号(兵庫山古墳)
12代『景行けいこう天皇陵』
直近は2019年12月参拝。天理市渋谷しぶたに町。第12代「大足彦忍代別おおたらしひこおしろわけ=景行天皇」の『山辺道上陵やまのべのみちのえのみささぎ』に治定。『記』では「御陵は山辺の道の上」とある。宮は『記紀』ともに纏向の日代宮。桜井市纏向。
熊襲・出雲・東国の征服が、主たる事蹟ではあるが、それは日本武尊やまとたけるのみこと(『記』では倭建命)の功績である。なお『紀』では天皇の日本武尊に対する接し方が好意的に描かれているが、『記』では冷徹な応対として描かれている。
考古学名は渋谷向山古墳。詳細は下記参照下さい。
以下を参照ください。
13代『成務せいむ天皇陵』
215年11月参拝。奈良市山陵町字御陵前。第13代「稚足彦わかたらしひこ=成務天皇」の『狹城盾列池後陵さきのたたなみのいけじりのみささぎ』に治定。『記』では「御陵は沙紀の多他那美」とある。宮は、 『記』に「近つ淡海の志賀の高穴穂宮(現大津市穴太)」とある。
事蹟として『記紀』に山河等を境に国郡くにこおり・県邑あがたむらを定め、造長くにのみやつこ・稲置いなぎを任命し、地方行政機構整備を図ったとあるが、実年代である4世紀では考えられないとの説が一般的。
考古学名は佐紀石塚山古墳。佐紀盾列古墳群を構成する古墳の1つ。佐紀陵山古墳(伝日葉酢媛命陵)の西に接する前方後円墳で前方部は南向き。全長218.5m、後円部径132m・高さ19m、前方部幅121m・高さ16m。各3段築成。葺石多用が石塚山の由来。周濠は前方部前面を除き幅が狭く東側は極端に狭い。佐紀陵山古墳の後円部周濠が東側のくびれ部に食い込む。佐紀陵山古墳が先に築造されたのだろうが(時期差は数十年もない模様)、何故このように築造したか不明。親族(祖母と孫)関係の存在も推定される。周濠外北から北東に3基の陪塚(い・ろ・ほ号)がある。江戸時代の記録では後円部に竪穴式石室と長持形石棺があり、鏡・玉・剣等が盗掘されたらしいが詳細は不明。
参道登り口 制札 拝所 道左が成務陵、右が日葉酢媛命陵
14代『仲哀ちゅうあい天皇陵』・15代『応神おうじん天皇陵』
2015年9月参拝。大阪府羽曳野市~藤井寺市。2019年7月世界文化遺産に登録された古市古墳群の26基に属する。
第14代「足仲彦たらしなかつひこ=仲哀天皇」陵は『恵我長野西陵えがのながののにしのみささぎ』に治定されている。『記』では「御陵は河内の恵賀の長江」とある。宮は穴門あなと豊浦宮(下関市長府)→筑紫橿日宮(福岡市香椎=『記』では筑紫の詞志比宮)。これは九州の熊襲征伐に赴いた折の行宮(あんぐう=仮宮)。日本武尊の第二子、15代応神天皇の父。
皇后である神功皇后は、新羅・百済・高麗を服属させたという三韓征伐の様子等が神話的に記述され、仲哀天皇より事蹟の分量が多い。因みに神功皇后陵は『狹城盾列池上陵さきのたたなみのいけのえのみささぎ』(『記』では沙紀の盾列池上陵)に治定。陪塚として域内陪冢・飛地い・ろ・は・に号が宮内庁管理されている。考古学名は五社神ごさし古墳(奈良市山陵町)、全長約275m、後円部径約195m・高さ23m、前方部幅155m・高さ27mで全国12位の規模。すぐ南に、上記の13代成務天皇陵と日葉酢媛命陵があり、『続日本後記』に神功皇后陵と成務天皇陵を混同していた記事もあり、文久3年(1863)まで二転三転している。
第15代「誉田別命ほむだわけ=応神天皇」陵は『恵我藻伏岡陵えがのもふしのおかのみささぎ』に治定。『記』には「御陵は川内の恵賀の裳伏岡」とある。宮は『紀』では神功皇后の磐余いわれ若桜宮(桜井市池之内)を引き継いだことになっている。『記』では軽島之明宮かるしまのあきらのみやとあり、現在では軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや=橿原市大軽町)が比定されている。詳細は下記参照ください。