隅田八幡宮古墳周辺
2021.11.1(月)隅田八幡神社・宮の壇古墳・隅田八幡宮古墳・上兵庫古墳群・鳥坪古墳
JR和歌山線の隅田すだ駅から1.6km=徒歩約20分で隅田八幡宮に着く。
①隅田八幡神社
和歌山県橋本市隅田町垂井。この神社に伝わる人物画象鏡は、鏡背の48字の金石文が著名で、国宝に指定されている。5~6世紀頃の和製銅鏡と見られ、青銅製で径19.9cm。正確な出土年代や出土地は不詳だが、古い時代に出土したものであることは確からしい。鏡背には円形の鈕(ちゅう=紐を通す小さなつまみ)を中心に、内区には古代中国神仙思想上の人物である東王父とうおうふ・西王母せいおうぼ等9名の人物を配し、その周囲に半円形と方形からなる文様帯、その外側に鋸歯文きょしもんを描き、周縁部に漢字48字の銘を左回りに配する。この鏡の原鏡となったとされる画像鏡は、郡川こおりがわ西塚古墳(大阪府八尾市)出土の神人歌舞画像鏡との説もあるが、他にトヅカ古墳(京都府京田辺市)、西塚古墳(福井県若狭町)、亀塚古墳(東京都狛江市)等で、同型鏡(または踏み返し鏡)が出土している。原鏡とは画像の構図が逆転しているとのこと。
銘文=癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟
明確でない文字も多く、内容についても諸説ある。「癸未年」がいつに当たるかについても諸説があるが、443年説、503年説が有力。
一般的な読み下し文=癸未みずのとひつじの年八月 日十大王の年、男弟王が意柴沙加おしさかの宮に在る時、斯麻が長寿を念じ、開中費直かわちのあたい、穢人である今州利の二人らに白上同(真新しい上質の銅)二百旱を取りてこの鏡を作る
隋神門 拝殿 境内案内 人物画像鏡碑 解説
*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。
②宮の壇古墳
橋本市隅田町垂井。和歌山県地理情報システム=埋蔵文化財包蔵地所在地図での遺跡番号6(以下「遺跡番号」とのみ表記)。ただ、遺跡地図の表示地点は私有地で入れないし、その所有者に伺っても「75年ここに住んでいるが、そんな古墳聞いたことはない」とのこと。なので、お勧めはしません。一応その地点の写真だけ掲載します。
八幡宮北側から宮の壇古墳へ 八幡宮の相撲場周辺 宮の壇古墳跡辺り
③隅田八幡宮古墳
隅田町中島。遺跡番号7。隅田八幡宮から150m程、京奈和道方面に進むと、八幡宮の駐車場への進入路がある。駐車場の南に隣接する民家の裏。畦道から回り込むしかない。一応市史跡だが、11月でも笹や木が生い茂り、すぐそこなのに、たどり着くのが大変。私は民家と逆の南側から(写真の赤矢印)回り込んだ。小さな墳丘の南~南東側に開口部がある。羨門辺りに扉石(か羨道天井石)が落ち込んでいるが、開口部は割と広く、すんなり入室できる。紀ノ川流域では珍しい切石積みの横穴式石室。羨道長1.7m以上・幅1.4m・高さ1.3m、玄室長3.3m・幅1.7m・高さ1.8mの両袖式で、玄門部は柱様の立石の上に梁のように楣石(まぐさいし=玄門部の上部石)を載せており、整然とした合理的な作りに見える。現在の墳丘周りの荒れ放の風情と違い、玄室は非常に整然とした印象である。石材は畿内では珍しく、一部L字形の組合せが見られるとのこと。橋本駅前の昼食処のご主人は、自宅が八幡宮のすぐ近くで、この古墳の存在は知っておられたが、こんな石室があることは全くご存知なかった。荒れ放題なのが残念だが、地権者の方の意向があるのかもしれない。民家の塀沿いから戻ったが、こちらも大変だった(5段目写真の黄矢印)。
駐車場進入路 駐車場へ 畦道を迂回 民家南裏へ
笹・木々の生い茂り具合 開口部 羨道 玄門部
玄室 奥から見て右壁 左壁 天井部
奥壁から開口部
北側の民家 生活痕跡 塀沿いを戻る
④~⑦上兵庫古墳群
隅田町上兵庫。④上兵庫4号墳=遺跡番号13-4。⑤上兵庫5号墳=遺跡番号13-5。⑥上兵庫3号墳=遺跡番号13-3。⑦’上兵庫2号墳=遺跡番号13-2。⑦上兵庫1号墳=遺跡番号13-1。遺跡地図にはあるが、古墳らしきものは、はっきりとは確認できなかった。なのでお勧めしません。
位置 4号墳方面 ④4号墳跡? ⑤5号墳辺り ⑥3号墳辺り⑦1・2号墳辺り
⑧鳥坪とりつぼ古墳
上兵庫古墳群から鳥坪古墳へ 鳥坪古墳から橋本駅へ
隅田町河瀬。円墳。遺跡番号18。それらしいのを撮影したが???
なので、ここもお勧めしません。
上記ルートで、起点の隅田駅から終点橋本駅まで約7km程。見学時間含め2時間半。