2022.11.16(金)。穴太飼込あのうかいごめ古墳群・穴太野添古墳群。滋賀県大津市坂本。
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滋賀里しがさと方面から京阪電車沿いの県道47号線を歩いて北上したが、47号線沿いに石室があった。穴太駅から50m南東、大津市穴太3丁目8-9の民家の南東に隣接。登って見ていないのでよく分からないが、両袖式の様で切石加工された石材が奥壁等に使われている。後掲の滋賀県教育委員会「1969年滋賀県文化財調査報告書-第4冊」の『穴太野添古墳群分布図』によれば穴太古墳群の1基と思われる。
*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。
古墳群の大半は、京阪石山坂本線の東側にある盛安寺せいあんじ管理の墓地になっており、南東端に古墳群の案内板がある。6世紀中頃~7世紀初めの群集墳で150基以上が確認されている。
なおネットで得られる情報として、滋賀県教育委員会の「1969年滋賀県文化財調査報告書-第4冊」があった。その『第1章穴太野添古墳群調査報告-第1節』に『穴太野添古墳群分布図』が掲載されている。
野添古墳群発掘調査報告・福王子古墳群発掘調査報告 - 全国遺跡報告総覧
分布図の一部を切り取り、加工したものが左下図。墓地(表示)は当時からあるが、まだ県道47号線や比叡山高校穴太グラウンド等は無い。現在、右下隅の赤●に前掲の案内板、右上隅青●に「平子谷林道」の標識がある(=赤矢印が林道)。
【穴太飼込古墳群と穴太野添古墳群周辺の位置関係と探索ルート】
南東端の前掲案内板から、墓地南側の外周道を上り、墓地内に入ると墳丘の様な所が散見される。
続いて穴太野添古墳群の古墳公園へ向かう。何基かあるはずだが、分かり易いのは5基。案内板後ろに、公園中心にある15号墳が目に入る。
古墳公園案内 解説拡大 分布図拡大(右下が北) 15号墳遠景
東側から時計回りに廻った。まず位置的には18号墳辺りに大きな石材が横たわる(最大長2m・幅1.9m程)、天井石だろうか?。その少し南に12号墳があり、6世紀末~7世紀初頭で、両袖式、羨道長4.2m・幅1.3m・高さ1.5m、玄室長2.8m・幅2.1m・高さ2m以上だったとのこと。
18号墳辺り 12号墳南望 案内 北西望
12号墳から公園中心にある15号墳へ。
15号墳西望 墳頂から12号墳等東望 南西望=16号墳 16号墳南東望
16号墳は15号墳南西下の斜面にあり、6世紀末頃の両袖式石室で、羨道長6m・幅1.1~1.4m・高さ1.5m、玄室長3.1m・幅2.1m・残存高さ2.4mだったとのこと。17号墳は15号墳のすぐ西側にある。
16号墳南東望 案内 南望 北西望 17号墳
ここからは、整備されていない墓地北側の古墳群へ入る。何号墳か分からないので、巡った順にⒶ から掲載します。
明らかに墳丘と分かるもの、墳丘はないが号数タグの付いた緑色のポールの立つ窪み(石室掘形=石室を設置するための事前の掘り込み、掘り方とも)等を辿って行く。ポールだけ残りタグが失われているものもある。
Ⓐ・Ⓑ
Ⓐ南西望 西望 Ⓑ=63号墳 北望(黄枠はポール)
*写真は2022年11月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意下さい。
Ⓒ・Ⓓ
Ⓓには石室があり、天井部が滅失しているため奥壁が見える。高さ1.5m程で8号墳。
Ⓒ南西望 Ⓓ=8号墳(白いのは大きさ比較のA5ファイル)
Ⓔ・Ⓕ
Ⓕでは石室石材が見える。
Ⓔ=72号墳 北望 Ⓕ=76号墳 北西望
Ⓖ・Ⓗ
Ⓗでも石室が覗ける。
Ⓖ=77号墳 北望 Ⓗ北西望
Ⓘ・Ⓙ
Ⓙは北側斜面だが、上級者向けスキー斜面の様にコブがいくつもある。
Ⓘ=81号墳 南東望 北西望 Ⓙ=北側斜面全景
Ⓚ・Ⓛ
ⓀもⓁも掘形。Ⓛのタグは無い。
Ⓚ=79号墳 北望 Ⓛ北望
Ⓜ・Ⓝ・Ⓞ
Ⓜは資材置き場になっているが、上から見ると大きな掘形がある。Ⓝも資材置き場状態。Ⓞも堀形のみ。
Ⓜ南西望 南望見下ろし Ⓝ北東望 Ⓞ北西望
Ⓟ・Ⓠ
Ⓟでも西側石材の崩れた隙間から石室が僅かに見える。自撮り棒で隙間内部北側の奥壁撮影。Ⓠは北側の斜面。右端の写真は巡って来た方向の見返り。
Ⓟ東望 奥壁 Ⓠ=北側斜面 西側見返り
Ⓡ・Ⓢ
Ⓡも大きな堀形、古墳公園の北側になる。Ⓢも堀形のみで、向こうに古墳公園の15号墳が見える。
Ⓡ遠景南望 近景南望 北望 Ⓢ南望
Ⓣ~Ⓦ
一旦古墳公園北沿いの道(=平子谷林道)に戻り、少し南東側から別の丘に入ると、そこにもいくつか墳丘が見える。
Ⓣ北東望 Ⓤ南望 Ⓥ南望 Ⓥ西望 Ⓦ北東望
墓地北側の穴太野添古墳群(Ⓐ~Ⓦ)は、撮影と記録しながら約1時間。見落とした所もかなりあったと思うが、ざっと見るだけなら30分程掛からないかも。
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穴太古墳群から更に日吉大社まで歩き、西本宮・東本宮と紅葉も鑑賞した。
なお、日吉大社参道南側にある『穴太積み*』石垣の側道は、まさに本日の『穴太』の地の『穴太衆』が手掛けたもの。もしかして穴太古墳群の石室を構築した技術集団の末裔かも・・・・・。
*城の石垣のうち、自然石をそのまま積み上げる「野面(のずら)積み」の一種。自然石を加工せず積み上げるだけなので石の形に統一性はなく、石同士がかみ合っていない。そのため隙間や出っ張りができ、敵に登られやすい欠点があったが、排水性に優れており頑丈である。技術的に初期の石積法で、鎌倉時代末期に現れ、本格的に用いられたのは16世紀の戦国時代である。「穴太積み」の呼称は穴太衆が手掛けた石垣を指し、積み方の種類ではない。穴太衆の技術の高さを誇示する為に江戸後期以降用いられた呼称である。