忍阪古墳群周辺
2020.3.9(月)忍阪古墳群。2021.11.26(金)竜谷古墳群
忍阪古墳群
近鉄大阪線の大和朝倉駅南口のロータリー右手に、忍阪古墳群のある2号公園=古墳公園への道がある。
*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。
住宅街の外周道を南西に向かい、約120mで右折すると、公園北上斜面に4基の石室が移設されている。進入路手前(西)から9→8→2→1号墳。各々フェンスが張られているが、施錠はされていない。
桜井市朝倉台(元桜井市忍阪)。外鎌とかま山の西にのびる尾根上と南斜面に位置し、団地造成に伴う調査では10基を数えたらしい。調査後1・2・8・9号墳は団地内の古墳公園に移設されたが、その他は消滅。
*写真は2020年3月9日。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意ください。
1号墳 径7mの円墳で、発掘時点で既に天井石や羨道部はなくなっていたが、(奥から見た)右片袖?の側壁と奥壁が移設されている。築造は6世紀中頃とされる。大きさは私の身長170cmから類推ください。
2号墳 径13mの円墳で、同じく天井石や羨道は残っておらず、側壁と奥壁の一部が移設されている。西側壁は持送りが結構きついが、東壁はほぼ垂直??6世紀末~7世紀初頭とのこと。
8号墳 南斜面に築かれた径約12mの円墳(多角形墳の可能性も)。周囲に幅約3mの濠を巡らせていたらしい。埋葬施設は加工した榛原石はいばらいしで築かれた磚槨せんかく式石室(レンガ状に割れる室生安山岩=榛原石を積んだ石室)。石室の南半分や上部は既に失われていたが、日本で初めて見つかった6角形の特異な石室で、一番注目を集めた。南西部には羨道部があったと推定されている。出土遺物は石室内から、歯1個と銅製釘4点、ガラス玉約100点、須恵器杯蓋片1点、周濠より土師器甕1点が発見された。
6角形の痕跡。右端の写真は発掘当時の様子。
9号墳 墳丘の南半分が破壊されていたが、墳丘の規模、外形や周囲の濠は8号墳とほぼ同じと推定される。埋葬施設も8号墳同様磚槨式石室だが、長方形の石室でT字形の横穴式石室らしい。8・9号墳ともに、7世紀後半~末葉と推定される。なお、8・9号墳は周囲の土ごと移築されており、重要な古墳であったことがうかがえる。 春先で草深くなく、見やすかった。
なお、遺跡地図では、忍阪古墳群移設場所の東側に、外鎌山北麓古墳群が見られるが、こんもりした小山しか確認できなかった。(緑の丸が忍阪古墳群)
奈良県遺跡地図Webを編集加工。http://www.pref.nara.jp/16771.htm
竜谷りゅうたに古墳群
桜井市竜谷。忍阪古墳群と同じ、朝倉台団地内に一部保存されている。
朝倉団地内の6号公園に保存されている。外鎌山の斜面にあった古墳群で昭和49年団地造成に伴い12基の古墳が発掘調査された。いずれも径10~15mの円墳で、木棺直葬と小型の横穴式石室に木棺埋葬したものもある。2号・12号墳は木棺を合葬し、7号・8号はやや大型の石室だった。6世紀前半の6号墳は左片袖式で玄室長3.1m・幅1.6mだが奥壁の一部と左側壁の下部のみ残存。金環・鉄刀片・鉄鏃・須恵器・土師器が出土(公園の一番東端)。6号墳西隣の6世紀後半の7号墳はフェンスで囲まれているが施錠されておらず入室可能。右片袖式で、玄室長3.4m、幅1.75m。金銅製飾金具・鉄釘・刀子・須恵器が出土。
公園進入口 6号墳石室残存部見上げ 見下ろし
7号墳東望 フェンス入口 開口部 玄室
西側壁 東側壁 天井部 玄門の袖部
6世紀後半末の8号墳(公園の一番西端)は径18.5mの円墳で、玄室現存長4.5m・最大幅2.4mだが石室下部のみ残存。ある程度整形された石材を積んでいる。水晶製三輪玉・耳環・鉄鉾・鉄釘・刀子・鉄鏃・太刀金具・須恵器・土師器が出土。6世紀初頭の9号墳は6号墳と7号墳の間にあるそうだが、明確にはそれと分からない。木棺直葬で、墓壙現存長1.7m・幅55cm・深さ10cm(7号墳のフェンス北東脇に、その位置が石で囲まれている)。須恵器坏身・坏蓋が出土。築造は9→6→7→8号墳の順と考えられている。
8号墳残存石室 墳丘南東望
9号墳辺り?