OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

寛弘寺古墳群 移築石室

寛弘寺古墳群は、4世紀中頃~7世紀後半にかけて総数92基造営された。大半が小型であったため、ほとんどが古い時代に消滅したが、大阪府南河内郡河南町かなんちょう寛弘寺の「寛弘寺古墳公園」に4・5・6・7号墳の4基が整備保存されている。

寛弘寺古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

そして、40・41・45号墳の石室が、3㎞程北東の「近つ飛鳥風土記の丘」に移築保存され、出土遺物は博物館に展示されている。2023年4月18日(火)訪問。

博物館受付で貰える散策路マップを編集加工(上が北) 緑〇=40・41号 赤〇=45号

*マップ上の道は、濃いグレイは舗装された周回道。薄いグレイは階段、白っぽい所は地道。星印は解説板。

寛弘寺40号

近つ飛鳥博物館から舗装された周回道脇の管理事務所棟を過ぎて、D支群への分岐の手前、西脇に移築保存されている。

D支群分岐から北東望                南望

周回道寄りの40号は全長は4m前後あるが、幅は0.7~0.8m程で、人ひとりが寝て丁度位の幅しかない。

西望

東望

北望

寛弘寺41号

40号からやや北西の離れた所にある。

全長1.7m、幅0.7mとすごく小さい。石室というより棺と言った方がいいくらい。出土した須恵器や土師器によって6世紀中頃築造とされている。

寛弘寺45号墳

近つ飛鳥博物館から管理事務所棟に向かう舗装された周回道脇、B9号の南西側に移築保存されている。

南西望 

石室の左(南東)側に幅3~5mの浅い溝がある。石室全体を取り囲んでいる訳ではなく、「4分の1」周くらい。案内には「石室の周囲には排水溝が巡るという、珍しい構造をもっていた」とあるので、これがその排水溝を復元したものなのか? に、しては幅が広すぎるし、石室にしみ込んだ雨水等の排水には役立ちそうにもない。普通なら墳丘を囲む周濠と見るのが自然だが・・・。丁度この日除草作業をされていたが、石室内とこの溝を丁寧に行われていたので、自然にできた溝とは思えないし・・・。

全長9.7mとのことだが、殆ど幅は変わらず、どこまでが玄室で、どこから羨道なのか、はっきりしない。

側壁を見ると、左右ともに段積みでなく1石の部分があり、何となく出っ張っているようで、これが袖石なら、両袖式で、玄室の長さは4.5m程になるのだが・・・?