OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

天皇陵 その五

天皇陵 その五

26代『継体天皇陵』・今城塚古墳、27代『安閑天皇陵』、28代『宣化天皇陵』・桝山古墳、29代『欽明天皇陵』・丸山古墳

*天皇の和風諡号や陵名は『日本書紀』(以下『紀』)をベースにしています。(古事記は『記』)

陵、諡号等の基本知識は、『天皇陵』を参照ください。

天皇陵 - OSAKA-TOM’s diary

 

26代『継体けいたい天皇陵』

2016年3月22日参拝。大阪府茨木市太田3丁目。第26代「男大述おほど=継体天皇(在位507年~531年?*)」の『三嶋藍野陵みしまのあいののみささぎに治定されている。宮は磐余玉穂宮いわれたまほのみや(『記』では伊波禮いわれ)。奈良県桜井市池之内に比定。
*『紀』第17巻の継体期以降の記述は、比較的年代的にも信頼性を増すので、在位年を記載するようにしたが、『紀』には薨去が「即位25年80才」と「或本云(あるほんいわく)即位28年」と二つ記されており、即位28年なら在位は534年までという事になる。『記』では薨去は43才とあり、何が本当かよく分からない。

25代武烈天皇には後嗣がいなかった。『紀』では、大伴金村が仲哀天皇の五世孫の倭彦王やまとひこのおおきみを後継とすべく丹波に迎えに行くが逃げられる。そこで越前国(現福井県)坂井郡高向たかむこに居た誉田天皇(=応神天皇)の五世孫とされる男大述を招請する。まず樟葉宮(くずはのみや=枚方市楠葉丘2丁目)で507年に即位。大伴金村と物部麁鹿火あらかいを大連おおむらじに任じる。→511年山背筒城宮(やましろつつきのみや=京田辺市多々羅付近=旧綴喜郡)→518年弟国宮(おとくにのみや=乙訓)→526年大和磐余玉穂宮に落ち着いた。

継体即位6年(512)、大伴金村の進言で任那四県・二地が百済へ割譲されたことは、我々の高校時代の日本史でも習った覚えがある。また継体即位21年(527)、任那が百済・新羅から攻められ、近江臣毛野けのの率いる大群を救援に送り込もうとするが、筑紫国造磐井が渡海を妨害したため、物部麁鹿火が派遣され翌年三井郡(久留米付近)で磐井を鎮圧=いわゆる「磐井の乱」も日本史に登場する。 

陵の考古学名は太田茶臼山古墳。出土埴輪等から5世紀中頃の築造と推定される前方後円墳で、墳長約226mは全国21位。後円部径約140m、前方部幅約150m。墳丘の左右くびれ部には造出しが有り、墳丘周囲には盾形の幅約28m~33mの周濠と幅30mの周堤が巡らされている。かつて二重濠であったと推定する向きもある。円筒・形象埴輪が検出されており、これらは新池埴輪製作遺跡(高槻市上土室)での生産とされる。

陵遠景       制札        拝所                  前方部周濠南西望

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後円部東側南東望     後円部北側       後円部北側南西望     東側くびれ部

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

宮内庁治定の三嶋藍野陵陪冢は、域内陪冢1ヶ所(拝所南側隣接=通称「車塚」)飛地陪冢8ヶ所=飛地い・ろ号茨木市東太田4丁目5-11藍野高校西側隣接)飛地は号(太田3丁目太田神社本殿北側隣接=通称「太田山」)飛地に号太田3丁目さくら公園内南西側、径約21mの円墳、円筒・朝顔形埴輪片出土)飛地ほ(太田3丁目さくら公園内北東側、径約19mの造出し付き円墳、円筒・朝顔形埴輪片や造出し部分から人物埴輪の顔部分片・馬形埴輪の顔や脚部分片・須恵器片が出土)。飛地へ号(高田町19)飛地と号(茨木市高田町くすのき公園内、墳長約28m・後円部径18m・高さ約4mの前方後円墳。前方部・周溝から円筒埴輪片・人物埴輪腕部分片が出土)飛地ち号(高槻市上土室(かみはむろ)6丁目=通称「二子山」。1959年名神高速建設に伴う周堀部の発掘、1977年水道拡張事業に伴う発掘実施。前方後円墳で、墳長40m、後円部径20m、前方部幅30m。前方部は西向き。墳丘南側くびれ部には造出しが有り、北側にもあったとされる。葺石・埴輪、外堤で円筒埴輪列を検出。円筒・朝顔形・形象埴輪・須恵器片が出土。5世紀後半頃の築造と推定される)。考古学的には、飛地に・ほ・と号以外は、古墳か否かを含めて陪塚であるかは定かでない。また宮内庁治定の他に、D号陪塚(高田町、長方形墳、南北20m・東西14m、高さ約3m)とE号陪塚(方墳、辺約27m)も陪塚と想定されている。

なお、継体陵の所伝は14世紀頃以降失われ、江戸時代元禄9年(1696)に松下見林けんりんが『前王廟陵記』で太田茶臼山古墳=継体天皇陵説を挙げ、以降も踏襲されて明治17年(1884)に宮内省管轄となり現在に至っている。しかし、当古墳の築造年代=5世紀中頃は、継体天皇在位時期とは合わない。また『延喜式』諸陵寮には「摂津国島上郡」とあるが、当古墳の旧住所は島下郡であった。このため真陵は、今城塚古墳(高槻市郡家新町)に比定する説が有力視されている。ただし、当古墳の墳丘・周溝の規格は市野山古墳(藤井寺市允恭天皇陵)とほぼ同形で、誉田御廟山古墳(羽曳野市応神天皇陵)・墓山古墳(羽曳野市)を基にした規格でもあり、古市古墳群の大王墓とのつながりが指摘されている。

(2019.5撮影)域内陪塚 飛地に号      ほ号        へ号        と号

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飛地ち号=二子山古墳南望                      前方部東望 

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26代継体天皇皇后の手白香皇女『衾田陵』は下記を参照下さい。

西殿塚古墳 - OSAKA-TOM’s diary

 

今城塚古墳いましろづかこふん

大阪府高槻市郡家新町ぐんげしんまち。三島野古墳群に属する6世紀前半の前方後円墳で、墳丘長190m、二重濠が巡り、内濠・外濠を含めた兆域は340m×350mで、淀川流域では最大規模。国の史跡ではあるが、宮内庁管理はされておらず、散策・見学・登墳自由。被葬者は、墳丘形状や埴輪等の年代的特徴から6世紀ヤマト王権の大王おおきみと推定され、531年に薨去した継体天皇とするのが学界の定説になっている。太田茶臼山古墳を含め大王級墓が、5~6世紀に至って畿内北部の淀川水系に出現することは、それまで大和川水系の大和・河内にあった勢力から王権の主導権が移ったことを意味するとも考えられる。また、埴輪工房跡と目される新池遺跡との深い関連が指摘される古墳である。

1935年~1944年(S10~19)の臨時陵墓調査委員会で、「陵墓参考地に編入すべし」との答申がなされたが、宮内庁が陵墓参考地指定については難色を示したらしい。

(2019.5撮影)案内  前方部北角南望    案内        前方部中央  前方部北西側内堤北東望

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北側くびれ部南西望   北側造出し南西望     南東望          案内

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後円部登り口       墳頂から北望      南東望          後円部北西望

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発掘は、1997年(H9)から、高槻市立埋蔵文化財調査センターが実施。二重濠を区分する内堤から形象埴輪や埴輪祭祀区域が出土し、出土点数や埴輪祭祀区域の規模は日本最大。埴輪祭祀区域は、東西65m、南北約10mの広さで、家形15・柵形25・蓋形4・大刀形14・楯形1・靱ゆき形1・武人形2・鷹匠形2・力士形2・冠帽男子1・座像男子4・巫女形7・四足動物(馬形等)18・鶏形4・水鳥形13の合わせて200点以上が出土。なかでも家形埴輪は、高さ170cmもあり、入母屋造りで、屋根には千木・鰹木があり、高床の柱を円柱で表現している。吹き抜け構造で祭祀用建物とも考えられる。埴輪以外にも阿蘇ピンク石の石棺片も採集されている。

案内        案内から北西望   南東望       埴輪祭祀区域案内 

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27代『安閑あんかん天皇陵』

2015年9月18日参拝。羽曳野市はびきのし古市ふるいち5丁目6。第27代「勾大兄広国押武金日まがりのおおえひろくにおしたけかなひ=安閑天皇(在位531年?534年?~535年)」の『古市高屋丘陵ふるちのたかやのおかのみささぎで、妹の神前かんさき皇女との合葬陵として治定されている。(『記』では「河内古市の高屋村」とのみ)。なお『紀』には「以皇后春日山田皇女及天皇妹神前皇女、合葬于是陵」とあるが、皇后春日山田皇女陵は、羽曳野市古市5丁目10=安閑陵から南へ200m、元は6世紀初頭前後の90mの前方後円墳である高屋八幡山古墳が『古市高屋陵ふるちのたかやのみささぎに治定されている。宮は勾金橋宮まがりのかなはしのみや(『記』では金箸)で、奈良県橿原市。
陵の考古学名は(古市古墳群の)高屋築山たかやつきやま古墳。6世紀初頭の前方後円墳で、墳長122m、後円部径78m・高さ13m、前方部幅100m・高さ12.5m。室町時代後半に畠山氏の高屋城の本丸がおかれ、元々の形が大きく改変されており、古市古墳群ではあるが世界遺産リストには掲載されていない。

制札               拝所               南面

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26代継体天皇が即位する前に娶った尾張目子媛おわりのめのこひめとの第一皇子。幼少から器量優れ、武威にたけ寛容な性格だったという。継体天皇即位25年2月、継体天皇は勾大兄に即位させたが、その同日継体天皇は崩御する(形の上では、初の譲位ということになる)。 事績に、関東~九州に直轄地「屯倉みやけ」の設置(41箇所)とこれに伴う犬養部の設置が『紀』に記されている。これは磐井の乱に荷担して破れた地方豪族等が許しを請うため献上した所も含まれるとされている。

ところで『紀』には「即位2年12月崩御、その時70歳」とある。すると在位は534年~535年となる。先述の通り、継体天皇の薨去年は「即位25年」と「或本云(あるほんいわく)即位28年」の二つあり、即位28年なら継体天皇在位は534年までという事で、辻褄が合う。

28代『宣化せんか天皇陵』

2015年11月1日参拝。奈良県橿原市鳥屋町。第28代「武小広国押盾たけをひろくにおしたて=宣化天皇(在位536年~539年)」の『身狹桃花鳥坂上陵むさのつきさかのえのみささぎで皇后橘仲皇女たちばなのなかつひめみことの合葬陵として治定されている。なお、『紀』には「以皇后橘皇女及其孺子(わくご=幼子)、合葬于是陵」とある。(『記』には陵・崩年の記載無し)。宮は檜隈廬入野宮ひのくまのいほりののみや(『記』では檜垌ひのくま)、奈良県高市郡明日香村檜前に比定される。

安閑天皇に子供がなく、同母弟の檜隈高田皇子が宣化天皇として満69歳で即位。人柄は清らかで、君子らしい顔立ちをしていたと記されている。大伴金村と物部麁鹿火を大連に再任し、蘇我稲目を大臣としたとある(「蘇我氏」の初見)。筑紫の那津(なのつ=現博多)官家の整備を行い、新羅に攻められていた任那へ、大伴金村に命じ援軍を送った。

陵の考古学名は鳥屋ミサンザイ古墳。6世紀前半の前方後円墳で、墳長138m前後、後円部径83m、前方部幅78m、各2段築成。前方部は北向きで、くびれ部の両側には、台形に突き出た造出しがある。盾形周濠が巡るが、東側は現在灌漑用ため池の鳥屋池につながっている。宮内庁の発掘調査で6世紀前半の円筒埴輪や須恵器類が出土したとのこと。中世に宣化陵所伝は失われていたが、江戸時代元禄の探陵の際、元禄12年(1699)に京都所司代の松平信庸が現陵に治定したらしい。

参道見返り=畝傍山    制札          拝所           西側南西望(橿原高校)

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本古墳後円部から橿原高校を挟んだ南東300m程に、全国最大の方墳=桝山古墳、西300m程から以西に、広大で著名な新沢千塚古墳群が広がる。

桝山古墳

橿原市鳥屋町。宮内庁により「10代崇神天皇の子で、11代垂仁天皇の同母弟=倭彦命やまとひこのみこと」の『身狭桃花鳥坂墓むさのつきさかのはかに治定されている。『延喜式』諸陵寮には記載がない。明治10年(1877)に内務省により現在の地に定められたが、現在では否定的な見解も強い。『紀』では、「垂仁28年に倭彦命が薨去、身狭桃花鳥坂に葬られた。その際近習は墓周辺に生埋めにされたが、数日間も死なずに昼夜呻き続けたうえ、その死後には犬や鳥が腐肉を漁った。これを哀れんだ垂仁天皇は殉死の禁令を出した」と記されている。*『記』では倭日子命(倭彦命)の分注に「初めて陵に人垣を立てた」とある。

4世紀後半~5世紀前半の方墳。上空からは210m程の前方後円形に見えるが、後円部が元々方形で、明治の陵墓整備で北東部に前方部が接合されて前方後円形に生垣を巡らせている。後円部の方形部分が桝山古墳。一辺85m~90mで、3段築成とみられる。黒斑(野焼きによる焼きムラ)が特徴の円筒埴輪片が採集されている。

宣化陵から(赤〇は千塚)   南望          北側接合部       東望  (2018.11撮影) 

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29代『欽明天皇陵』

2016年2月4日参拝。高市郡明日香村大字平田。第29代「天国排開広庭あめくにおしひらきひろには=欽明天皇(在位539年~571年)」の『檜隈坂合陵ひのくまのさかあいのみささぎに治定されている。宮は(磯城郡しきのこおり磯城嶋しきしま=現奈良県桜井市金谷)の磯城嶋金刺宮しきしまのかなさしのみや(『記』では師木嶋大宮しきしまのおおみや)。
なお、『紀』には欽明陵として、『檜隈坂合陵、檜隈大陵、檜隈陵』の三つの陵名が登場する。これらが別々の陵との説もある。『檜隈坂合陵』は欽明32年(571)の葬送記事での陵名。『檜隈大陵』は推古20年(612)欽明妃=堅塩媛(きたしひめ=蘇我稲目の娘・馬子の姉、31代用明・33代推古天皇の母)を追葬した際の陵名。この折「軽の術かるのちまたで大規模な誄(しのびごと=故人を偲ぶ儀礼)が催された」とあり、「軽の術」は橿原神宮前駅東出口から国道169号の丈六交差点の一帯辺りのはずで、現陵の北750m付近にある丸山古墳が近いので、「檜隈大陵」・欽明真陵は丸山古墳との説もある。さらに、『檜隈陵』は推古28年(620)「砂礫を葺き、陵域外に土を積んで山を造り、豪族たちがその上に大きな柱を立てることを競った」とあるので、葺石が敷かれている現陵=梅山古墳の特徴にふさわしいとも言われている。

出自は継体天皇と皇后手白香皇女(仁賢天皇と春日大娘皇女との娘)の嫡子であるので、安閑・宣化天皇より、皇統の血脈は濃い。さらに皇后に娶った石姫いしひめ/いわひめの父親は宣化天皇、母親は仁賢天皇の娘橘仲皇女。傍系であった継体天皇以降、天皇の血脈は皇女が受け継いでいる形で、兄弟子弟との近親婚による直系父子承継の始まりともいえる。なお、即位時も、薨去時も、年齢は「若干」とだけ記されている。在位期間が32年に及ぶのだから、薨去は40才後半から50才台なのだろうが、「若干」と記したのは、継体・安閑・宣化に比べると、かなり若かったということかもしれない。

事蹟面では、大伴金村・物部尾輿おこしを大連に任じ、蘇我稻目も大臣に再任。しかし540年朝鮮半島で新羅が任那を併合する。これは「継体期に大伴金村が任那四県を百済に割譲したことが原因」と物部尾輿等から外交政策失敗を糾弾されて、大伴金村は病と称し住吉に隠棲(失脚)する。任那は560年(または562年)に滅ぶことになるが、それまでの間に百済との関係は深まり、仏教伝来や五経博士を通じた、文化流入が促進される結果となる。

陵の考古学名は平田梅山古墳。6世紀=古墳時代後期の前方後円墳で全長約140m。 後円部径72m、前方部幅107m。明日香村内では唯一・最大の前方後円墳。南斜面を縦コの字に抉り造営している。結果、北・東・西側を丘陵が囲む=三方山囲みの形。段築は北側が2段、南側が3段とみられている。陵は葺石が敷かれ、盾形周濠が巡るが北側が狭く、南側が広い。また墳丘外表面を石材で飾っている。これらは終末期古墳につながる特徴である。自然地形をそのまま利用し、盆地の奥まった場所にある丸山古墳とでは、築造方法や時期に差があり、欽明陵は二つあり、7世紀初めに丸山古墳から梅山古墳に改葬されたとする説もある。

参道西側見下ろし     参道東側見上げ     参道頂上         拝所見下ろし

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拝所周辺見下ろし   制札       拝所(当時整備中)   前方部南西角    案内

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なお、前方部南西角辺りに『吉備姫王きびひめのみこ』の墓がある。吉備姫王は「欽明天皇と皇后石姫の子である30代敏達天皇」の孫=茅渟王ちぬのおおきみの妃であり、35代皇極天皇(=37代斉明天皇)・36代孝徳天皇の母でもある。また欽明天皇と堅塩媛の子で、「用明・推古天皇の同母弟=桜井皇子」の娘でもある。欽明天皇に始まる、兄弟子弟との近親婚による直系父子承継の関係で、皇統の系図は格段とややこしくなるが、欽明天皇から100年程後の人物である。『紀』では皇極2年(642)に薨去、檀弓まゆみ丘に埋葬とあり、『延喜式』には「欽明陵域内」とあり、明治維新前に現在地に治定された。柵内には盛土様の高まりがあるが、高さや平面形からして墳丘とは思えない。墓よりも、墓域内にある4体の「猿石」と呼ばれる渡来人の石象が有名かもしれない。 

遠景南西望        案内           制札          拝所

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墓域内の「猿石」    北側の「女」          「山王権現」    南側の「僧(手前)と男」

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丸山古墳

奈良県橿原市、見瀬町・五条野町・大軽町にまたがるため、以前は見瀬丸山古墳とか五条野丸山古墳、大軽丸山古墳とも言われていた6世紀後半の巨大前方後円墳。国の史跡。全長318m、後円部径155m・高さ21m、前方部幅210m・高さ15m。これは奈良県下では最大、全国 6位。大王墓クラスの前方後円墳としては最期と思われ、以後大王墓が方墳や八角墳に移る画期である。1991年春石室入口が崩壊し、近所の小学生が石室内に入ったことを家族に伝え、父親が内部を撮影し、それが12月報道された。宮内庁は、翌年閉鎖する前に石室と石棺の現況を調査し、石室規模と壁面構成、石室内の漆喰遺存等が判明。横穴式石室は全長28.4mで全国1位。羨道は一枚の長さ4.8mの巨大な自然石6枚で天井を覆い、長さ20.1m・幅1m以上・高さ1.5m程。玄室は長さ8.3m・最大幅4.1m・高さ4.5m。内部には刳抜式家形石棺が2基、横向きのL字型の様に直交するように置かれていた。玄室内には約1mの土砂が堆積しており、石棺の身については詳細不明だが、奥棺は7世紀初め頃で、蓋の長さ2.4m・幅1.4m・高さ0.4m程。前棺は6世紀後葉~末葉で、蓋の長さ2.7m・幅1.4m・高さ0.6m程。材質は流紋岩質溶結凝灰岩で加古川付近の竜山石。通常なら奥棺が古いはずだが、奥棺設置後に、他からより古い石棺を合葬したか、予め奥棺のスペースを確保し、前棺設置後、奥棺を合葬したことになる。須恵器の杯や高杯の一部も出土。須恵器が示す年代観は6世紀後半。1960年代以降学界で、欽明天皇・蘇我稲目・宣化天皇等、被葬者論争が起こった。築造時期が6世紀末葉だとすると、蘇我稲目か欽明天皇が考えられるが、後円部墳頂は『畝傍陵墓参考地(被葬候補は天武・持統天皇合葬)』に治定されている。ただ、天武・持統天皇陵は奈良県高市郡明日香村の野口王墓が、宮内庁により「檜隈大内陵ひのくまのおおうちのみささぎ」と治定されており、近年は第29代欽明天皇陵説も有力である。なお、周囲に水はないが最大幅約65mの盾形周濠。東側には、幅のある外堤の痕跡が確認できたらしい。

(2016.2撮影)後円部北望  後円部墳頂        案内          制札

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後円部墳頂切通し南西望  後円部墳裾から南東望  前方部から北東望(畝傍山) 北望(耳成山) 

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