OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

平尾山古墳群

平尾山古墳群

2020年10月25日(日)。

大阪府柏原市の平尾山古墳群「安堂支群ー第6支群3号墳移設復元石室」~高尾山創造の森「平野・大県支群ー第11・17支群」~「平尾山支群」

平尾山古墳群 概要

平尾山古墳群の築造期間は6世紀前半~7世紀後半とされ、最盛期は6世紀後半~7世紀前半。(大まかに言って)北は八尾市との境界~南は大和川、西は東高野街道(近鉄大阪線)~東は奈良県三郷町との境界に囲まれた、東西3km、南北2kmにおよぶ大規模群集墳。1407基の古墳が確認されており、推定2000基とも言われる。地域的に安堂、高井田、平尾山、雁多尾畑、本堂、太平寺、平野・大県、青谷の8支群に区分される。大半は10m前後の円墳で、確認されている埋葬施設の多くは小型の横穴式石室。切石積みの石室や石棺式石室も僅かに確認されているものの、玄室規模や開口方向・棺配置・副葬品等、古墳群全体が同質的。先ず山麓部に比較的規模の大きい古墳が築かれ、次第に周辺にも築かれ、支群を形成していったと考えられるらしい。平野・大県支群を中心とする山麓部では6世紀代、雁多尾畑支群、平尾山支群の山間部では7世紀代の古墳が多数を占めている。八尾市の高安古墳群、南河内郡の一須賀古墳群とともに、大阪府の三大群集墳と言われる。

*考古学者で、古墳研究の第一人者の一人、白石太一郎氏によると、同じ河内の高安古墳群等と同様に、ミニチュアの模造炊飯具の副葬があることから、河内に定着した渡来系集団が築いた可能性が高いとのこと。ただ、平尾山古墳群の造営が6世紀前半に始まり、そのピークが7世紀前半におよぶのに対し、高安古墳群は、6世紀前半に始まり、7世紀初めには造営が終了するという違いがある。考えられるのは、平尾山古墳群が蘇我氏配下の渡来系集団によるもので、高安古墳群は6世紀末に蘇我氏により没落させられた物部氏配下の渡来系集団によるものではないかとしている。

渡来系氏族といっても、武器、武具などの軍事的要素は少なく、釵子(さいし・かんざし)や鉄滓も検出されており、様々な知識をもつ文人集団、技術を持つ生産集団とみられる。その中には山麓部の大県・大県南遺跡の鉄製品生産集団も含まれていたことは間違いないと考えられる。しかし、推定1400~2000基の古墳が、すべて山麓部集落の集団により造営されたと考えることは難しいと思われる。また、渡来系の副葬品を出土する古墳は、副葬品を出土した古墳の4分の1程度に限られ、すべての被葬者が渡来系ではなく、在地系集団も含まれている可能性もあるとのこと。

なお、各支群の造営時期に差があることなどから、各支群を別々の集団によって造営された独立した古墳群とみなす考えもあり、平尾山古墳群という呼び名は、古墳の集中密度が一番高い平尾山支群と雁多尾畑支群を中心とする地域に限ることもあるらしい。

 

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 柏原市HP(発掘調査された古墳)から 

6-1.発掘調査された古墳 | 大阪府柏原市

安堂支群ー第6支群ー3号墳 移設復元石室

 現在の柏原市高井田大和川に北接する南斜面の地山を削って築かれた、推定径約23mの円墳。墳丘は削平され、周溝の一部が残っていただけらしい。切石による両袖式横穴式石室で、玄室床面には切石が敷かれていた。また、掘った穴を版築によって埋め戻してから、石室周囲に自然石を充填して排水施設をつくっていた。柏原市内では、切石による横穴式石室は初例で、玄室床面の敷石や石室周囲の排水溝も他に例を見なかった。現状保存は諸事情で断念せざるを得ず、東方の緑地内へ移設することになり、1986年4月移設作業が行われた。移設の際に7世紀中頃の須恵器が出土し、この須恵器が古墳の築造年代を示しているとのこと。

玄室床面中央の凝灰岩切石による敷石は、東西長1.85m、南北長3.4mで、壁体との間には河原石が充填されていた。敷石の接合面は、調整痕が分からないほど丁寧に調整されていたとのこと。須恵器の蓋、杯、長頸壺、甕、土師器の蓋、杯、高杯、丸底壷、近世の椀など殆どが石室内礫層から出土した。近世の椀を除き、7世紀後半~8世紀初頭のものとされる。

関西本線高井田駅北側に、高井田横穴公園や歴史資料館がある。その更に北側の住宅街「高井田第一公園」に移設されている。

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*Yahoo!地図を編集加工しています。右の写真は発掘当時の様子。

高井田横穴公園については、2019年11月のブログ記事を参照ください。

高井田横穴群 - OSAKA-TOM’s diary

移設先の高井田第一公園(白○が自車)  黄○が移設場所           公園から移設場所へ

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*写真をクリックすると拡大されます。
 移設石室                    解説

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移設石室             敷石          一番高い側壁石は170cm(私の身長)位ある

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平野・大県支群ー第11・17支群

平尾山古墳群の中で、最も様相が明らかになっているのが平野・大県支群で、古墳群北西部に位置し、42支群273基が判明しているとのこと。

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*Yahoo!地図を編集加工しています。               柏原市HPから(アドレスは上記参照)

私は車で行ったので、上記地図の印からアクセスしましたが、JR関西本線近鉄大阪線で行くなら、 この「かしわらガイドマップ」を参照ください。

http://www.city.kashiwara.osaka.jp/_files/00037709/c5f.pdf

 なお、以下の記事は、印から私が回った順に記載しますので、徒歩で西から上がって来る場合は道順にご注意を。

散策の進入路

鐸比古ぬでひこ神社の小さな鳥居脇に、散策道への進入路がある。

鐸比古神社の小さな鳥居  高尾山頂の解説      鳥居横の道標

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みはらし広場から17支群へ

 先ずは「みはらし広場(上右端道標写真の、道路脇の休憩場所のような所)」から古墳観察歩道を下り、17支群へ。

 みはらし広場の道標                古墳観察歩道脇の風景 

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 古墳観察歩道を下りきって、「いにしえの道」との交差箇所から更にすこし下った先に石室石材らしきものが見える。石材の隙間から自撮り棒を差し込んで内部を写すが、殆ど土で埋まっている。近くにもう一つ石材があるが、こちらは隙間等は無し。

17支群の露出石材  石材の隙間     隙間内部                もう一つの石材 

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 11支群へ

 鐸比古神社の小さな鳥居脇へ戻り、11支群を目指して下る。金網フェンスを過ぎて左へ(黄矢印)。*因みにここを右に登ると細い道があり、道沿いに石材が見受けられ、16支群かもしれないが、しばらく行くと行き止まり。 

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 11支群4号墳

 しばらく下ると、17支群への「いにしえの道」と11支群への「なかよしの道」の分岐がある。ここを右へ行く。私の歩幅で130歩程下った所に、11支群4号墳が開口している。

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 11支群4号墳奥壁全景   奥壁上半分        奥壁上段と天井石    天井石 

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11支群1・2号墳へ

11支群4号墳から更に90歩程下ると、11支群の1・2号墳への分岐がある。道標に向かって左上に1・2号墳が見える。

下の3枚目の写真で白矢印から、2号墳へ向かう黄矢印の間に解説板があるが、「17支群1・2号墳」となっているが、「11支群」が正当なんだろう。

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11支群2号墳

2号墳は、手前(西側壁)上部が崩れ、玄室の様子が見れる。

2号墳南端部東望      南端部北望       全景北望        奥壁側北東望

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2号墳玄室は2/3~3/4程、土で埋もれている。

落部分                      奥壁     羨道方面(黄は楣石と思われる)。

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11支群1号墳

2号墳から少し北東へ登ると、1号墳が見える。

1号墳遠景北望      遠景東望         近景東望        開口部北望

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2号墳同様、2/3~3/4程、土で埋もれている。無理して「ほふく前進」で入れそうでもあるが、無理せず自撮り棒で内部を撮影。

開口部          奥壁部分         東側壁部分       楣石西上角

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10支群

1号墳から、さらに上へ行くと10支群があるらしいが、笹で覆われていて、よく分からなかった。

10支群への登り口  登り口の道標    10支群?     登り切った所の道標

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11支群3号墳

11支群1・2号墳への分岐に戻り、「なかよしの道」を北西に60歩程下った、南脇のところに11支群3号墳がある。道から下へ回ると開口部がある。上の石は厚さが110㎝以上はある。ここも土でかなり埋まっている。

分岐道標       赤線がなかよしの道で黄○が3号墳      3号墳開口部北望

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奥壁           西側壁         東側壁         天井石

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17支群へ

17支群への「いにしえの道」と11支群への「なかよしの道」の分岐に戻り、木製の小橋を渡り、17支群へ向かう。

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17支群の石室

小橋からしばらく行くと、鋭角に曲がるカーブ(下の左端写真の白矢印)の、手前の北崖下(黄矢印)に、石材が見える。道標の古墳表示と逆側だが、なんとか崖を降り、石材を下から回り込むと、隙間があった。自撮り棒を差し込んで撮影した映像を見ると、確かに石室のようだ。

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隙間対面の側壁   羨道方面                楣石        隙間側の側壁

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そこから、鋭角に曲がるカーブ先端の少し先にも石材がある。そこにも石材の隙間があり、隙間奥に空間や石組が見られ、石室と思われる。

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平野・大県支群での、明確な古墳の位置を示す資料が見つけられず、行き当たりばったりだったので、以上で切り上げた。まだまだ、あちらこちらに石材が転がっており、小型石室のものなのだろうと思いつつ、平尾山支群へ向かった。

 

平尾山支群

2019年11月に高井田横穴公園にある歴史資料館から北東へ進み、平尾山支群ー67支群2号石室に訪れたことがあったが、今回は車でアクセス可能な柏原東高校周辺の赤枠内を訪れた。しかし、石材がいくつか確認できたのみで、石室は全く確認できなかった。

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大阪府地図情報提供システム→主題図→文化財地図→埋蔵文化財地図から

https://www11.cals.pref.osaka.jp/ajaxspatial/ajax/

柏原東高校北側まで車で登坂。高校の北東側に柏原特産のブドウ畑が広がる。ブドウ畑のなかに石材が散見される。

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ブドウ畑の北端から西へ。上記埋蔵文化財地図では、いくつもあるはずだが、私は殆ど確認できなかった。足腰を鍛えるためのウォーキングには良いかもしれないが、古墳散策にはお勧めできない・・・?!。

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なお、上の左端写真の「この先行き止まり」を真っすぐ行くと私有地。行ってみたら所有者の方がおられ、最初は『ここは私有地や!』と怒鳴られたが、少し話すうちに、奥の方を案内頂いた。古墳らしきものは見当たらなかった。その方曰く「どこかで調べて、ちょこちょこ人が来る。それより猪が頻繁に出没して困っている。息子もここを継ぐ気はないようだし・・・・」。まー行かないことをお勧めします。