OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

石宝殿

石宝殿

2020年8月4日。大阪府寝屋川市石宝殿いしのほうでん古墳

交野市→寝屋川市大東市東大阪市の各古墳巡り。

石宝殿古墳の概要

寝屋川市打上元町。標高約100mの高良こうら神社(=打上神社)裏山にある終末期古墳の石槨。高さ・幅とも1mもなく、火葬風習後のものだろう。享保元年(1801年)刊行の『河内国名所図絵』には金銅壺内に白骨が収められていたとある(壺は所在不明)

周辺では古墳時代後期6世紀代の群集墳として打上古墳群・打上神社古墳群が知られるが、本古墳はその造営後に単独墳として築造された有力豪族墓と考えられるらしい。

横口式石槨は終末期の有力支配者層の墓制とされ、大阪府の中・南河内奈良県の明日香地域に集中的に認められるが、北河内では本古墳が唯一であり、かつ花崗岩の巨石をくり抜いて構築する数少ない例。古墳域は1973年(S48)国の史跡指定。

行き方

最寄り駅はJR片町線の「寝屋川公園駅」。

徒歩寝屋川公園駅東口→「市立埋蔵文化財資料館」を東方面→打上団地前交差点を東方面→最初の十字路を左へ→団地内道路案内に従い進み、打上公園へ→公園南の階段を登る(途中4ヶ所に案内絵地図があり、案内に従って進むと階段下に着く)。行程約650mの登り道。

=打上団地前交差点の一つ北の交差点から進入。

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上図にもあるように、神社へ向かう手前の道は、かなり狭いので、運転に自信のない方は歩いた方が・・・。なお高良神社前にしか、車を止める場所はありません。

高良神社一ノ鳥居     二ノ鳥居・拝殿     二ノ鳥居         鳥居はかなり小さい 

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拝殿東の進入路    解説板       参道

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石槨

現在墳丘は認められないが、元々墳丘封土を伴わないとする説と本来は八角形墳とする説がある。主体部の埋葬施設は横口式石槨で、南に開口。花崗岩の巨石2個をくり抜き組み合わせて構築したもので、前面にはさらに巨石2個を東西に据えて羨道としている。発掘時の出土品として須恵器片(TK217型式古段階=一説に混入品)・瓦質土器の椀(中世期の古墳信仰遺物)等がある。

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玄室前に花崗岩の巨石2個で羨道を形成する。東側石は長さ約2.4m・高さ約1.5m・厚さ約0.4mの割石。西側石は最大幅約1.2mの三角錐台状の割石。側石の天井部分は発見されておらず、側石のみが据えられたと推測されるとのこと。石槨背後(北側)に、東西に4個の列石がある。背後正面の3個は東西一列に並ぶが、西端の1個は、南西向きに据えられている。列石の意味は不詳で、墓域区画石説、墳丘封土の土留め石=外護列石説、地山の土留め石説等あり、外護列石なら墳丘が八角形の可能性がある。また石槨と列石との間には石敷きも認められる。4個以外に列石は認められていない。

石槨東側         西側          北側から南望       列石(背後正面の3個)

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石槨部分は平らに加工した底石上に、横口部をくり抜いた上石を載せる。入口前面には閉塞用の扉石の軸受け穿(左下写真の黄色〇)が認められる(=西側に片開き、現在不明)。底石は南北長約3m・厚さ約0.1m、上石は直径約3.2m・厚さ約1.7m。横口部は長さ約2.3m・幅約0.55m・高さ約0.7mで、入口から約0.9m奥から幅約0.9mと広くなるが、高さは約0.7mとやや低くなる。類似構造の横口式石槨としては竜田御坊山3号墳石槨斑鳩町、現在橿原考古学研究所附属博物館前に展示)、鬼の俎・鬼の雪隠がある。

石槨正面       上石天井部    石槨頂       埋葬室内

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高良神社

祭神は武内宿禰、配祀=八大竜王八幡大神。摂社=住吉社、稲荷社、神明社

旧讃良郡に属し、江戸時代には交野郡に属していた。打上川沿いを含め、寝屋川市には秦氏一族に因む地名や伝承地(伝秦川勝の墓)などが点在する。

日本書紀の欽明23年(560年頃)7月条には「新羅は使いを遣わして調を奉った。その使いは新羅任那を滅ぼしたことを知っていたので、帝の恩に背いたことを恥じ、あえて帰国を望まず、ついに留まって本土へ帰らず、日本人同様に遇され、いま河内国更荒郡(サララノコオリ=讚良郡)鸕鷀野邑(ウノノサト)新羅人の先祖」とある。また『新撰姓氏録』に「宇努連新羅皇子金庭興の後」などとあり、一帯は渡来系氏族と縁の深い地域と言える。なお「高良」は高麗の訛であろうと推測されている。 筑後一の宮高良大社武蔵国の高麗神社などが知られているが、ほかに高来神社などがある。越中の高麗神社は五十猛命を祭神としている。

 

【雑感その4】

我々のルーツは中国大陸?朝鮮半島?固有の人種?。自分の苗字で先祖のルーツが分かるという?「名字由来ネット」というサイトもある。韓国・朝鮮での姓は300種類弱しかないが、日本の名字は30万種類とも!もっとも、上位7000位までで約96%を占めるそうですが・・・。

*名字の数え方には諸説あり、「伊藤、伊東、井藤、依藤、井東」など同じ「いとう」でも漢字構成の違いにより各1件とカウントする数え方や「伊藤」でも「いとう、いふじ」など「読み方の異なるもの」を各1件とカウントする数え方などがあります。 漢字と読みが異なるものをそれぞれカウントすると、苗字研究家であり文学博士である丹羽基二氏の著書「日本苗字大辞典」によると30万種弱と紹介されているそうです。

キリスト教にはバイブルが、イスラム教にはコーランが、仏教には経典が、日本固有の八百万の神道には?日本の古代史書古事記日本書紀。名前は学校で習ったが、内容は?我々の習った日本史は本当か?魏志倭人伝邪馬台国卑弥呼の名前は知っているが、内容は?天皇って?どこの出身?天皇陵って?それらを解くカギは古事記日本書紀などしかないが、それを検証するのが考古学なんだろう。

 

ここから、府道20号線・東高野街道国道170号線で6km程先の、大東市の堂山古墳群に向かう。

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