OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

能峠古墳群

能峠古墳群

能峠ゆきとうげ古墳群=奈良県宇陀市榛原上井足かみいだに 2020年1月20日(月) 

S50年代、大和高原南部で大々的に行われた農地整備事業に先立ち、墓域である南山・北山・西山地区、生活場である中島の四地区がS56年7月~58年10月に調査された。方形台状墓・横穴式石室・中世墓群等が発見され、宇陀地方の墓制の変遷を知れる。古墳群は5世紀~6世紀後半に築かれた15基だったらしい。調査後に壊されて今は広い田畑地帯になっている。その時見つかった元の能峠南山地区の横穴式石室4基と小型横穴式石室8基を、100~200m東の山裾に移築したとのこと。

①が丹切古墳群 そこから約1km      ②が移築後の能峠古墳群

Yahoo地図を編集加工

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結構広い農道を南下する。能峠古墳群の手前100m程で、猪が罠にかかっていた。これがこの辺の日常だろう。

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農道脇にあり、すぐ見つかる。フェンスで囲まれているが、施錠はされてはいない。

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能峠1号墳

6C後半の東西約13m、南北約14mの円墳とのことで、この移築古墳群では一番大きい。 埋葬施設は右片袖横穴式石室で全長約7.1m、玄室(墓室)長約3.8m、玄室幅約1.9m、羨道(せんどう 玄室への進入路)幅約1.6m。玄室内には二つの組合式箱型石棺が置かれている。奥壁に平行に接して1棺、西側壁に平行してもう1棺。7C中葉すぎ頃まで追葬が行われていた模様。石室内には平安前期の木棺墓、鎌倉時代の火葬場が確認されたと解説板にある。土師器はじき・須恵器すえき*、刀、刀子(小刀様のもの)、鏃(矢じり)、銀環などが出土。天井部分はコンクリートで防護されている。石室は右片袖式(奥から見て右=5枚目の写真)で、同葬の場合、初葬者は羨道と反対側の奥隅、次葬者は羨道と反対側の側壁が一般的らしい。つまりこの1号墳がそれである。

*古墳石室でよく出土する土師器・須恵器については最後の豆知識参照。

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能峠5号墳・6号墳・7号墳・8号墳・9号墳・10号墳

1号墳の東隣。7世紀中頃らしい。解説板がまとめて1枚なので、どれがどれかよく分からない。しかも極小石室が二つしかない。???いずれも幅は60-70cm位で、確かに一人で精一杯。

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能峠2号墳

5~10号墳の東隣。石室は錯乱が著しく、奥壁・側壁の下部が残っているだけ。6世紀後半~末で、石室奥には組合式石棺が置かれ、その南にも棺痕跡が有った。石室内から刀子、鏃などが出土したとある。

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能峠3号墳

2号墳の東隣。解説板には「尾根の東端に位置した径約12mの円墳。右片袖の横穴式石室で、石室規模は全長5.7m、玄室長3.5m、幅1.7m、高さ1.7m。羨道幅1.3m。須恵器・土師器*、刀子、鏃、釘等出土。6世紀~末のもので、7C前半までの追葬が認められ、平安時代前期の木棺墓も検出した」とある。古墳群では二番目の大きさで、結構立派な石室で、天理市の塚穴山古墳(17mの石室)のミニ版風。

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能峠4号墳・11号墳

3号墳のさらに東隣。解説板には左右の表示はなく、どちらがどちらか分からない。解説では「4号墳は小型横穴式石室の径9.5mの円墳で、石室内及び周辺から須恵器・土師器*、刀、刀子などが出土。7世紀前半で、小石室群中では最初に築かれたもの」とある。「11号墳は、右片袖横穴式石室で、石室内には組合式箱型石棺が置かれており、石棺の中から金銅装板状品が出土し、7世紀中頃」とある。過去のブログ等を見ると、各々逆の記載があった。私としては、円墳形の方は左片袖式だし、玄室長さ2m、幅0.9m、高さ約1.2mで径9.5mの円墳に相応しいと思う。ただ露出石室の方は、極小で、こんな中に組合式箱型石棺が置かれていたというのも腑に落ちないのだが・・・。

以下の写真が露出石室の方。11号墳?  比較のために置いた鞄は28㎝四方。

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以下の写真が円墳形の方。4号墳? 移築の際、石材に目印の数字が記入されている。

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若干、疑問を感じつつも、次の高田垣内古墳群ヲトンダ支群を経て、見田・大沢古墳群へ向かう。

osaka-tom.hatenablog.com

 

*【古墳豆知識その6 土師器はじきと須恵器すえき

同じ土器でも、埴輪は古墳の墳丘上に置かれることが一般的。土師器と須恵器は石室からよく見つかる。土師器は野焼きで、酸素が充分供給される酸化焔焼成によって焼き上げる。そのため、焼成温度は須恵器より低い800~900度で、土肌は橙色ないし赤褐色となる。須恵器は4世紀後半~5世紀にかけて登場する。おそらく朝鮮半島からの渡来人が伝えたろくろ技術を用い、登窯と呼ばれる地下・半地下式の窖窯あながまで焼く。酸素供給が不足するが、高熱により燃焼が進み、1100度以上の還元焔焼成となる。木材燃料からは(酸素が十分ならすぐ二酸化炭素と水になるが)一酸化炭素と水素が発生し、それが粘土成分の酸化物から酸素を奪う(還元)。粘土中の赤い酸化第二鉄が還元されて酸化第一鉄に変質するために、土肌は灰色っぽくなる。須恵器登場後も、土師器は造られ続けるので、土師器が必ずしも古いとは言えない。現在は、色や形や厚さ、形成・調整=作り方などで、かなり細かく編年されている。