OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

丹切古墳群

丹切古墳群

奈良県宇陀市榛原区下井足しもいだに2020年1月20日(月)

【古墳豆知識その5 古墳の終焉】

3世紀前半(=弥生末期)の墓である方形周溝墓(墓の周りに四角の溝を設けたもの)や弥生墳丘墓等を経て、3世紀半ばに前方部が短く帆立貝のような(纏向まきむく型)前方後円墳が現れる。
そして3世紀半ば~後半に、300m近い前方後円墳である箸墓古墳(奈良県桜井市)が突如出現する。あの有名な邪馬台国卑弥呼は、240年頃=まさに3世紀半ば、「魏志倭人伝」に「親魏倭王」として登場する。卑弥呼が亡くなった時、『径百余歩の塚を盛大に作った』ともある。なので昔、箸墓古墳卑弥呼の墓では?と話題になった。
そして4世紀に、行燈山古墳=10代崇神(奈良県天理市)はじめ、200~300m級の天皇家陵墓とされる古墳が造られ、奈良だけでなく、全国各地に100m級の前方後円墳が一斉に拡がる。これがヤマト王権の全国展開時期と重なる。
5世紀に入っても大仙陵=仁徳陵などの大規模大王墓が造られる。また、見かけは同じ前方後円墳でも、それまで埋葬部分が後円部墳頂から縦向きの穴=竪穴式石室だったのが、横に入口を持つ=横穴式石室が現れ始める。副葬品も呪術的な鏡や珠や素朴な土器から、軍事的な剣・甲冑等や馬具が多くなり、だんだん派手になっていく。これは朝鮮や中国との交流が盛んになった証である。6世紀には横穴式石室が主流になり、副葬品も金ピカになってくる。

しかし6世紀末、前方後円墳は造られなくなり、方墳や円墳に変わってくる。前方後円墳は当初、各地有力豪族の連合であったヤマト王権での身分的シンボルとの説もあり、中央集権化や氏・姓制が進むと、王権との親密性を前方後円墳で誇示する必要性がなくなってきたのだろう。同時に、各地域の共同体に拡がった小集団毎の小さな古墳の集まり=群集墳も7世紀初頭頃~後半にかけて、だんだん造られなくなる。大化の改新~天智期に始まった戸籍による個人別掌握体制や、672年壬申の乱で40代天武朝になり、中央集権・皇族のみによる政治体制強化と相まっている。
群集墳内では、小グループを同葬する形態から、個人の極小古墳や極小石室に移って行く。こうなると、いわゆる古墳というより、古墳の様式を継承した単なる墓と言える。こうして古墳は終焉を迎える。
古墳の形、埋葬石室の形、副葬されていた土器や出土品で古墳の造られた時期が大体分かるが、これに史書資料を重ね合わせると、古代歴史の一端が解明できるようになる。

 

今回、訪問した榛原周辺の古墳は、こうした終焉期に当たる。

丹切古墳群の概況

榛原駅南方の尾根上に立地。5C後葉~7C中葉まで連続して造られた60基で構成されていたという。前方後円墳は全く無く、殆ど10~20mの円墳だった。旧榛原高校(現榛生昇陽高校)建築に先立ち、S43年2月から調査された。埴輪や葺石等は認められず、盛土のない横穴のみのものもあり、石棺がやっと納まるものや、竪穴式石室に近いものもあったらしい。調査後大半が消滅したが、校庭に石室1基(34号墳)が移築された。校庭のフェンスを越えた所には33号墳が遺存する。さらに尾根を東に登った所に15号墳・16号墳と思われる石室も見ることが出来る。この古墳群内で、埋葬形態が箱形石棺→箱形木棺直葬→横穴式石室→磚槨式や小型横穴式石室と移行した事が分かっているとのこと。

  左はルート図(Yahoo地図を加工編集)。      右は昇陽高校で戴いた資料から転載。

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丹切34号墳

奈良県立榛生昇陽高校の敷地内にある。見学は本館事務室に申し込めばできる。学校のあいている日なら、8時半頃から可能。関連資料がもらえ、事務の方が石室まで案内してくれる。あとはフリーで見学できる。

一見すると円墳に見えるが、元は校庭地域を走っていた尾根の斜面に横穴を掘って造ったらしい。墳丘はなく、草に埋もれているところを坪掘りで発見したとのこと。7C初頭の石室らしい。円墳に見えるのは石室周辺を削平した結果だそうだ。石室は両袖式横穴式石室で、全長約4.7m程(玄室の長さは2.8m前後、幅は1.6m前後、高さ2.2m。羨道部幅0.9m)。榛原石の組合式箱形石棺(長さ1.9m弱、幅0.6m強)が今でも東寄りに残る。西寄りには鉄釘10数本が見つかり、長さ2m、幅0.5m程の木棺が置かれていたらしい。石棺内からの出土物はなかったが、棺外から土師器坏・高台付埦、須恵器の平瓶・坏・長頸壺等が見つかっている。須恵器はⅣ~Ⅵ型式の比較的新しいものであったそうだ。

 校庭~34号までの写真が以下の4枚。

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 石室の様子は以下の通り。

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丹切33号墳

34号墳のすぐ東側、フェンス(無施錠)の外側の斜面上にある。

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磚槨式の両袖式横穴式石室。石室全長6.6m、玄室長さ3m程、幅1.7m、高さ1.6m程。羨道の長さは現存1.4mだが、石材の散乱状況から3.6m前後あったらしい。中央やや東寄りに組合式箱形石棺が残り、内法は長さ1.9m、幅0.4~0.5m、高さ0.5m。石材は小口面1枚、側面2枚ずつ、底面2枚。棺内から頭蓋骨・人骨片・金環3個が出土、棺外から土師器の壺、須恵器のフラスコ様長頸壺・台付長頸壺・高坏等が出土した。須恵器は東海地方の特色が見られるという。

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この地域で採掘される通称「榛原石」を用いた板状の石材で構築した磚槨式(磚は中国では瓦のこと。日本では、瓦の様な板状の石)で、持ち送り(上に行くほど狭くなる)が特徴。

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丹切15号墳

33号墳から、さらに東に登って行く。

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径約17m高3mの円墳で、南側に開口する右片袖式の横穴式石室とのこと。南側斜面に石室石材と思われる石も見られる。羨道部はほとんど埋まっているが、墳頂付近の木が倒れ、自然石を積んだ玄室を見ることができる。石室の長さは3.5m以上、玄室長さ2.5m・幅1.5m程らしい。土砂で高さは不明。

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丹切16号墳

さらに東に行くと、石室天井石らしき岩が南側に見える。羨道部は埋まり?、玄室も半分くらい土砂で埋まっている。自然石を積んだ横穴式石室ではあるが、かなり小規模と分かる。

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30分程で高校事務室に戻り、校門を出て法清寺方面から尾根上部に回り込む。

法清寺の横を過ぎて、T字路風の獣道を右へ。(ちょっと道とはわかりにくいが・・)

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3~4分行くと、T字路風の分岐がある(ここもはっきりとはわかりにくい)。

ここを右(太矢印)へ行くと、錆びついた案内板(白丸)が見える。

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なんと、その案内板のすぐ南側(上の3枚目の写真赤四角枠)が、先ほどの16号墳であった。

16号墳東側にこんもりした墳丘っぽい(上の5枚目の写真)のがあり、これが17号墳??

元のルートに戻り(上の左向き細矢印)、南西方面に下ると能ゆき峠古墳群への道に出る。

 下の左端写真は16・17号墳の見返り

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昇陽高校で案内頂いた事務の方によると、一時は訪問者が全国から訪れたが、最近は少ないと言われていた。確かに私の直前の訪問者は、昨年11月だった。

 

この続きは、「能峠古墳」を見てください。

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