OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

椿井大塚山古墳

椿井大塚山古墳

京都府木津川市山城町椿井 3世紀末=古墳時代初期の前方後円墳

国の史跡 大量の三角縁神獣鏡が出土している。

2019.11.8(金)大阪府柏原市松岳山古墳~京都府相楽郡和束町安積皇子墓をグルっと車で回った中の1箇所。

           *「Yahoo!地図」を加工編集させていただきました。

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JR奈良線上にある。というか、古墳の後円部をJRが横切っている。だからJR奈良線で行ける。南手前の上狛駅から色んなお寺の間を抜けて1.7km位北へ。通り過ぎた棚倉駅からは70号線を2km位南へ。途中で飛び降りれば一番近い・・・・?

全長約175m、後円部径約110mで高さ20m。失礼だが、山あいの鄙びた所に、よくぞこんな巨大な構造物を造ったものだ。

車なら国道24号→県道70号線が早いが、JRを西から東の古墳側へ抜けるのがちょっとややこしそう。

そこで、JR線東沿いの道がお勧め(上図と下の写真参照) 

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古墳へ100mの地点

ガードレールが途切れる直後。この幅広の道に路駐(駐禁標識はない?)

上の写真の矢印から、やや下って行くとすぐにある。  

 

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  *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

真っすぐ墳丘を登ってもいいが、北側に登り口がある。

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墳頂に上ると、以下のような具合に見える。

後円部墳頂から前方部方面西望    中=北西望            後円部を横切るJR線

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JR奈良線開業は1879年、1896年全通。1953年法面拡幅工事が行われた際に、偶然にも竪穴式石室が発見されたらしい。JR造線の時は、ただの山と思われていたんだろうな。

 

【雑感その3】 

前回、道路や住宅地開発で古墳が削平されている現況を少し嘆いたが、よく考えると、古墳発見は、地元の農民が鍬でグサッと掘ったらとか、道路や住宅を建てようと思ったらとかが多い。あの高松塚古墳も、村人が生姜を貯蔵しようと穴を掘ると古い切石が見つかり、1972年に極彩色壁画が発見された訳だ。

因みに、明日香村にあるドデカイ「飛鳥歴史公園」の中に、42代文武天皇(天武・持統天皇の孫) の陵=栗原塚穴古墳がある。200m北に高松塚。さらに200m北に中尾山古墳がある。文武陵としては、元禄の修陵時には高松塚が、「大和志」(1736年刊)では中尾山古墳が、文久の修陵時点では野口王墓古墳(北へ900m公園外。現天武・持統合葬陵)があてられた。最近、学界が文武陵とするのは中尾山古墳。

もし高松塚が文武陵になっていたら、発掘禁止で、壁画発見はなかったかも・・・。

まー共存が結果オーライになることも多い。

2019年11月9日(土)21時~「世界ふしぎ発見」という有名テレビ番組で古墳特集をしていた。よく出来た内容だった。

『今我々は、人工的な建物などの合間に木の茂っている古墳を、「自然」と捉える。が、築造当時は何もない自然の中に、人工的に作った「盛り土」むき出しの構造物』と、ゲストがコメントしていた。

思うに、古墳は歴史ロマンティック・ミステリー!!

 

本題へ戻り、JR側から来るなら、以下の写真。地元の方以外は車はやめた方がいいと思います。

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JRレール高架下を抜け左折→右折→左折→最後右写真で右折 全80m

(大塚山古墳情報 受け売り)

全長約175m、後円部径約110m・高さ20m、 前方部長約80m・高さ約10m、失礼だが、山あいの鄙びた所に、よくぞこんな巨大な構造物を造ったものだ。墳丘は自然の山を利用。このような造り方は、最古級の古墳に多いらしい。前方部が三味線の撥(ばち)形に開くのも初期古墳の証。埋葬施設は、南北長6.9m、幅1m、高さ3mの竪穴式石室(墳頂からタテに掘り下げて作る石室)に、板石・割石を積んで壁を立ち上げ、天井も板石を置き粘土で厚く覆っていた。床には板石・礫・砂を敷き、その上に粘土を施し、長大なコウヤマキの割竹形木棺(竹を上下に割った形、丸木舟を上下に重ねた形=Θ)を安置、これらも初期古墳の証。石室内には朱が塗られ、粘土床には10kgを超える水銀朱が認められた。さらに三角縁神獣鏡32面、内行花文鏡2面、方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面など計36面以上の鏡や武具が出土。多数の銅鏡を棺中に入れるのも初期古墳の証。それらの鏡は、3世紀代の古墳時代前期には西日本や中部地方辺りに急速に拡がったが、短期間にほぼ同様の鋳型で製作されたと思われる。鉄刀(片刃)7本以上、鉄剣(両刃)十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃(矢じり)約200本、銅鏃17本、鉄製甲冑1領、工具・農具では鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上が、漁具では鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本が出土。この他鉄製冠ではないか?という鉄製品が、また日本最古の刀子(小刀)も出土。縄文時代からの漁具である銛等の出土、南西に船戸という地名があることから、被葬者は船舶の管理者であり、津(港)の管掌者と言われている。京都南山城がヤマト政権勢力下にあったと思われるとのこと。