OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

平林古墳等 葛城市・御所市周辺の古墳巡り

平林古墳等 葛城市・御所市周辺の古墳

2019年6月20日(木)葛城IC周辺=平林古墳→神明神社裏山古墳→芝塚古墳→兵家8号墳(丸子山古墳)→兵家古墳→鍋塚古墳→的場池10号墳→大田古墳群→寺口千塚74号墳→火振山古墳

2019年6月20日(木)御所市内=掖上鑵子塚古墳→掖上鑵子塚南古墳→條ウル神古墳→巨勢条池北古墳→条池南古墳→條庚申塚古墳→みやす塚古墳→新宮山古墳→権現堂古墳→(吉野郡ジヲウ古墳)→水泥古墳→巨勢山202号墳→巨勢323号墳→九品寺裏山古墳群→吐田平古墳群

葛城IC周辺

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平林古墳

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*画像をクリックすると拡大されます。

葛城市兵家ひょうげ。平林ひらばやし古墳(上図①)は6世紀後半の前方後円墳。全長62m、後円部径33m、前方幅42m。地形の関係からか前方部が後円部より高い。1958・1992年発掘調査。埋葬施設は両袖式の横穴式石室(玄室長5.7m、羨道長8.8m)。羨道部前に、石積み壁のみで天井石を乗せない前庭部があり、それを含むと全長は20.1mで県内でも見瀬丸山古墳に次ぐ規模となる。羨道部に組合式家形石棺の底石が残存、玄室内には床面に凝灰岩の破片があり、石棺が置いてあった模様。これに加え鉄釘も発見されており木棺もあったと考えられている。出土物は須恵器・土師器・鉄製の武器や農工具、金銅製や鉄製の馬具類、画文帯四仏四獣鏡等。

前方部南西面北望  前方部北東面東望  後円部北東面東望  後円部から前方部  石室入口

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後円部石室入口      石室内部        羨道部石棺底石      奥壁

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神明神社裏山古墳

文字通り神明神社の裏にある古墳(上図印)。7世紀後半、全長45m、後円部径28mの前方後円墳(前方部は西向)。

神明神社         裏山古墳        墳丘北面西望       前方部東望

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芝塚古墳

葛城市兵家(最初の図②)。6世紀前半の前方後円墳。正確には芝塚1号墳。1985年調査で、幅約15mの濠を巡らしていたと確認されている。後円部埋葬施設は未調査だが、前方部から赤色顔料を塗った長さ3m・幅55cmの箱形木棺が出土。木棺内に鉄刀1・鉄製鏃数点、墳丘や周濠から多数の円筒埴輪・須恵器・土師器等も出土。2号墳は100m程西にあったが(復元径30m・高さ4.5~5mの円墳)消滅している。周濠の痕跡があり、完周していなかった模様。埋葬施設は片袖式横穴石室(全長8.1m、羨道長3m・幅1.5m、玄室長5.1m・幅2.5m)で南に開口していらしいた。玄室内には二上山凝灰岩製の組合式家形石棺(石棺内と外面に朱の痕跡)と木棺があった。垂飾付耳飾・玉・馬具・刀・鉄製工具・須恵器等出土。現在石棺は1号墳北側に移築保存されている。

遠景南望       南東望      近景南西望(赤枠が前方部)        2号墳石棺保存位置

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石棺保存所への進入路 保存石棺

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兵家第8号墳(丸子山古墳)・兵家古墳 

葛城市兵家。丸子山古墳(最初の図③)は径34m・高さ9mの円墳。墳丘には葺石があり、大きさや立地から、兵家古墳群の盟主的な古墳と考えられる。兵家古墳(同*)は、丸子山古墳の北150mの尾根先端部分。現在は削平され消滅。横口式石槨の底石が、斜面に露出している状態で見つかったとのこと。同尾根に前方後円墳の兵家宮谷山古墳もあったが不明。

丸子山古墳西望      北西望         兵家古墳跡?北東望    北西望

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鍋塚古墳

葛城市當麻竹内(最初の図④)。5世紀前半、径46mの円墳。1978年調査で周濠の存在が確認された。朝顔形埴輪や鰭付円筒埴輪などの破片を採取。周辺では最も古く、神武東征神話の長髄彦ながすねひこの墓伝承も・・・まさか。

北西望              北望               北東望

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的場池10号墳

葛城市竹内(最初の図⑤)。的場池古墳群は、竹内集落南側尾根に連なる5世紀後半~6世紀の11基の古墳群。いずれも直径10m前後の小円墳。横穴式石室は二基確認され、7世紀代と見られる。10号墳は7号墳(10mの円墳)の南に接するように築かれた小規模な方墳だったようで、7世紀の終末期古墳。須恵器・土師器・刀子等出土。石室は長さ約1mしかなく、火葬と思われる。石室は當麻スポーツセンター敷地内(北西角)に移設保存されている。

移築保存石室                                移設地全景

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太田古墳群

葛城市太田(最初の図⑥)。葛城IC周辺にあった古墳時代後期の古墳群で、弥宮池やみやいけ支群・弥宮池南支群・弥宮池北支群・小山支群、約50基で構成される。一部小規模な前方後円墳があるが、大半は円墳。木棺直葬が殆どだが、横穴式石室に組合式石棺を納めるものもあった。道路建設に伴い橿原考古学研究所で調査され、IC南沿いの「道の駅」西側に、一部が移築されている。調査後消滅した古墳も多いらしい。 

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弥宮池1号墳

弥宮池支群、径26mの円墳。1995年調査。石室は全長7mの片袖式横穴式石室。調査時既に天井石は無く、石室基底部と石棺底石が残っていた。追葬痕跡があり3人以上が葬られた可能性があるとのこと。須恵器・土師器・耳環・ガラス玉・鉄鏃・鉄刀・鉄釘・歯牙等出土。

移築石室      案内         羨道跡      玄室跡       玄室から羨道方向

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小山2号墳

小山支群、径30mの円墳で周構をもつ。1997年発見。横穴式石室は既に天井部を失っていたが組合式家形石棺が2基あった。北側の石棺は棺身がかなり崩れているが、長さ2m強・幅約1mで、横に保管されている棺蓋の縄掛突起の形状から6世紀前半。南側の石棺は、棺蓋の長さ195cm・幅82cm(逆側74cm)、平らな形状から6世紀終り頃とのこと。出土品は土師器・須恵器・ミニチュア鉄製農具・鉄鏃・馬具・玉類・耳環等。

移築石棺         案内                       南側の組合式石棺

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北側の組合式石棺                 棺蓋        赤枠が弥宮池南5号墳石棺石材

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弥宮池南5号墳 弥宮池南支群の径24mの円墳。横穴式石室だったが、墳丘中央に盗掘抗があり、調査前にかなり破壊が進んでいたとのこと。組合家形石棺石材(上の右端赤枠内)と須恵器が遺存。

寺口千塚74号墳

葛城市寺口(最初の図⑦)。進入路から5分程。道のすぐ北側脇に有るそうだが、時期的に笹がひどく、よく分からなかった。寺口千塚古墳群の大半は、74号墳から西600m程の丘陵上に群集する。当古墳は横穴式石室の奥壁付近が残る径14m程の円墳らしい。石室残存部分は長さ1.2m・幅1.2m・高さ1m程(土砂で約1m埋没)。天井石は2枚残る。古墳群は、大半石材が抜き取られており、見れる石室はほとんどないとのこと。

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火振山古墳

葛城市南藤井。以前は新庄神塚こうづかと呼ばれていた。古墳時代中期、三段築成の前方後円墳。全長95m以上、後円部径55m・高さ10m、前方部幅36m・高さ7m。円筒埴輪など検出。

遠景西望             南西望           南望

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御所市内

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掖上鑵子塚古墳

御所市柏原(上図⑧)。5世紀後葉の前方後円墳。全長約150m、後円部径約102m・三段築成、前方部幅約88m・二段築成。幅15m程の全周周濠があった。南側の前方部南角付近は、先築墳のため、周濠が歪んでいる。後円部中央には長持形石棺が納められていたと伝えられ、金銅透彫銙帯かたい・琴柱形石製品・桂甲小札等が出土。また墳丘上からは各種埴輪を検出。帽形埴輪はS13年に重要美術品に指定。

*掖上鑵子塚わきがみかんすづか南古墳 掖上鑵子塚古墳の前方部に隣接した古墳。径30m・高さ5mの円墳。発掘調査未実施で詳細不明。陪塚とされているが、掖上鑵子塚古墳の周濠が歪んだ状態のため、鑵子塚南古墳が先行し、後から鑵子塚古墳が築造された可能性が有るとのこと。

掖上鑵子塚古墳後円部南望 前方部東望        前方部南望       案内

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鑵子塚前方部北望     南古墳北望       南古墳と鑵子塚

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巨勢山古墳群 条池支群

御所市條(上図⑨)。古墳時代中期中葉=5世紀から終末期=7世紀、御所市の巨勢山丘陵、約800基の群集墳の一つの支群。

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條ウル神じょううるがみ古墳

御所市條(上図a)。6世紀後葉頃の前方後円墳。前方後円墳では最終期。大きく削平されているが、前方部を南南東に向ける。墳丘長約70m。埋葬施設は横穴式石室で、内部に二上山凝灰岩製の刳抜式家形石棺を安置。石室・石棺は大規模で、玄室長7.1m以上・幅(奥壁側)2.4m以上-(玄門側)2.7m以上・高さ3.8m。石棺側面の縄掛突起が3個ずつというのは珍しい(通常2個ずつ)。石室は現在埋め戻されている。出土品は須恵器片・埴輪片。 石室規模は同時代の五条野丸山(玄室全長8.3m)・石舞台古墳(玄室全長7.6m)に匹敵し、石室・石棺の特徴が巨勢山古墳群と共通するので、被葬者は巨勢山古墳群を形成した巨勢氏(許勢氏)の盟主(巨勢猿・稲持・胡人・比良夫)に比定する説がある。

条池北古墳・条池南古墳

条池北古墳(641号墳)(上図b)=6世後半。右片袖式の横穴式石室が半分残り、西の池側に開口。条池南古墳(640号墳)=6世紀中葉~後半。石棺には石枕があった。いずれも副葬品には優秀な馬具部品があり、葛木氏を支えた有力層の墳墓と見られてる。

條ウル神古墳    案内                  条池北古墳?     条池南古墳?

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詳しくはコチラ→條大池古墳 | 御所市

條庚申塚古墳(642号墳)

(上図C)。墳頂に祠が有り、その下に開口。羨道部分は遺存しない。

遠景南西望        登り口          墳頂祠        石室位置

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祠と楣石         開口部(左下はA4ファイル)  玄室全景        右袖部

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奥壁とA4ファイル      右側壁(奥から向かって)   左側壁         天井石

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みやす塚古墳

御所市室字ミヤス(上図ⅾ)。私有地なので墳丘は立入れない。1948年調査で方形の円筒埴輪列の一部を確認、家・蓋形埴輪等の形象埴輪も出土。その中心地下の埋葬施設は盗掘され窪地となっていたとのこと。

遠景西望             近景西望             遠景南望

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新宮山古墳

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御所市稲宿(上図⑩)。新宮山しんぐうやま古墳は巨勢山708号墳という別称もある。巨勢山古墳群がある丘陵東麓にのびる細長い尾根の先端。径25m以上の円墳。北東向きの小規模前方後円墳との説もある。6世紀中頃~後半築造。

古墳への経路

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両袖式の大型横穴式石室が南東方向に開口。開口部は粗末なフェンスで閉鎖されている。
情報では、全長13.6m、羨道長7.3m・幅1.7m・高さ1.4m、玄室長6.3m・幅2.5m・高さ3mと細長い。花崗岩製で、玄室奥壁と側壁は3~4段、袖石1段。玄室奥に組合式箱形石棺、手前に刳抜式家形石棺が置かれている。奥の箱形石棺は、吉野川(紀ノ川)周辺産出の緑泥片岩の板石製で、赤色顔料が塗られていた。手前の家形石棺は、高砂市周辺産出の凝灰岩(竜山石)製。蓋は屋根形で、縄掛突起が両長辺に2個ずつ、両短辺に1個ずつ。奥壁側に盗掘のための穴が開いている。内部は丁寧に刳り抜かれ、加工当時の工具痕跡もあり、赤色顔料も鮮やかに残る。出土遺物は不明。石室様相や家形石棺の特徴から、6世紀中葉~後半と考えられる。周辺は巨勢氏の本拠地で、高取町の市尾墓山古墳・宮塚古墳、御所市樋野の権現堂古墳などとともに、6世紀代の巨勢氏の関連と思われるとのこと。

開口部                       羨道

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権現堂古墳

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御所市樋野(樋野の氏神=天安川神社境内内、上図⑪)。6世紀前半、径15mの円墳。

神社車道側進入路            参道側

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南に羨道のある片袖式の横穴式石室。羨道は埋没し、玄室奥壁側が倒壊しているため、石室の奥壁側から見る形になる。玄室長5.5m・幅2.5m・高さ約2.3m、羨道幅約1.7m。石室には二上山産凝灰岩製の刳抜式家形石棺(2.2×1.1m)があり、棺蓋には左右計4個の縄掛突起がある。また家形石棺の棺身内部に石枕が刳り抜かれており、御所市條の条池南古墳に類例があるが、極めて珍しい。権現堂古墳では石枕の位置から、南頭位埋葬と思われる。神社境内には別の刳抜式家形石棺一個体分が散在しており、元はこれが奥壁寄りにあった初葬の棺で、現在石室内にあるものは追葬棺とみられる。

案内           開口部         羨道方面         案内

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玄室右壁             石棺内

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(ジヲウ古墳)

ついでなので、吉野郡大淀町今木まで足を伸ばした。国道309号線北側、山の中腹にある石鳥居が目印。7C古墳終末期。 

遠景北望      道標         参道

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1876(M9)年に「坂合黒彦さかあいのくろひこ皇子墓」に治定。皇子は、安康天皇を刺殺した眉輪まよわ王と共に葛城首長の円つぶら大臣邸に逃げ込み、大臣ともどもワカタケル大王(後の雄略天皇)に焼き殺されたと「紀」にある。結果、「葛城氏」は5世紀後半に滅亡。皇子は「新漢いまきのあやの𣝅本つきもとの南の丘」に側近者と合葬されたとある。「いまき」の地名にもとづき治定された。当古墳北西に、横穴式石室の正福寺古墳と、さらに北西に保久良ほくら古墳があり、石室形式等から7世紀と考えられている。ジヲウ古墳も同様で、5世紀後半の坂合黒彦皇子陵とするのは無理がある。

制札           拝所                       水泥古墳との位置関係

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水泥古墳

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丘陵先端部に築造された古墳2基=「北古墳・南古墳」の総称。北側の丘陵には巨勢山古墳群があるが、水泥みずどろ古墳は離れている。南古墳北側の「西尾さん(上図⑬)」という方が管理されており、北古墳はそのお宅の庭にある。私が訪れた時は、幸いおられて、丁寧にご案内頂き、お宅で保管されている遺物も見せていただけた。

開口部                                  案内

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南古墳は、6世紀後半~7世紀初頭、径約25mの円墳。両袖式の横穴式石室で南に開口。普段は厳重に施錠されている。石室全長15m、羨道長6.2m・幅1.6m、玄室長4.6m・幅2.4m・高さ2.6m。玄室床面には円礫が敷かれ、礫床下中央には排水溝がある。石室内部には刳抜式家形石棺2基があり、1基は玄室に、1基は羨道に置かれている。玄室棺は盗掘で棺蓋一部が滅失している。二上山凝灰岩製。棺蓋長2.2m・幅1.3m、縄掛突起は前後1個・側面2個の計6個。羨道の追葬棺は竜山石製。棺蓋長2.3m・幅1.6m、縄掛突起は前後1個・側面2個の計6個。特に前後の縄掛け突起には6弁の蓮華文(全国唯一)が彫られている。羨道に入らなかったのか側面の突起は削り取られているが、それらにも線刻が存在した。出土品として金銅製耳環、須恵器(高坏・𤭯・台付𤭯)等。

羨道の追葬棺                                  石棺内

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西尾家の裏庭の北古墳は、6世紀中頃-後半、元は径20mの円墳。花崗岩製の両袖式横穴式石室で南に開口。石室全長13.4m、羨道長7.8m・幅2m・高さ1.9m、玄室長5.6m・幅3m・高さ3.3m。石室床面下に、排水管として、瓦質の土管約20本が追葬時に敷設されていた。被葬者は不明だが、一帯を治めた巨勢氏(許勢氏)の盟主の可能性がある。

開口部      玄室                          西尾家所蔵の瓦質排水土管

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巨勢山古墳群

御所市巨勢山丘陵、約800基の国内最大級の群集墳。古墳時代中期前半に、室宮山古墳以降、南側の巨勢山丘陵に築造され始めた。大半が径約10m~20m程の小規模円墳。5世紀代は木棺直葬が主体で、6世紀前半には横穴式石室の支群が現れる。6世紀中頃が最盛期。7世紀初頭になり若干下火になるが、古墳築造は続き、7世紀中葉に、323号墳等の横口式石槨が構築されたらしい。

巨勢山202号墳

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御所市朝町(上図⑭)。ゴルフ場進入路のトンネル上。本来は少し北東にあったがゴルフ場造成によって消滅。7世紀中葉の横穴式石室石材のみを移している。十数個の大きな花崗岩と一枚の緑色片岩の板石がある。石室の大きさなど不明。トンネル横には、巨勢山古墳群鎮魂碑が立つ。

鎮魂碑                      移築石材

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巨勢山323号墳

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御所市西寺田宇墓山。7世紀中頃の方墳。間際まで行ったが笹が深く、辿り着けず。

墓地が麓にある。巨勢山古墳群で確認されている唯一の横口式石槨墳。一辺14.8m高さ約3mの方墳。石槨は南に開口。全長約4.5mで、石槨長約2.1m、幅約0.8m高さ約0.8m  羨道長さ約2.4m幅約1.5m高さ約1.3m。葛城閃緑岩の切石(石槨部)と割石(羨道部)で構成されている。出土遺物は須恵器・土師器。 

麓の墓地から見下ろし   323号墳へ 

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九品寺裏山古墳群

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御所市楢原字西室。駒形大重神社の鳥居南脇から吐田平はんだひら古墳群へ向かう途中、墓地を過ぎてから150m程。九品寺北を流れる鎌田川沿い。道沿いに石材が散乱している。径10m前後の小円墳が10基程あったらしい。通称九品寺裏山古墳(遺跡地図16B-0139)は離れていて、墓地を過ぎた所の堀池の西側から、池の北側に進んだ所辺り。
駒形大重神社                   九品寺裏山古墳群 

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吐田平2号墳

以下は、結局辿り着けていないので、殆ど参考になりませんが・・・・・。

御所市森脇字吐田はんだ。駒形大重神社鳥居南脇を道なりに進み 墓地を過ぎてから600m程登って行く。牛舎?跡を左手へ・・・少し行くと森の中へ入る所があるらしいが、笹薮がひどく、マムシもいるらしく、地元の方に聞いても行かないということで、ここで断念。以下情報のみ記載。

牛舎?跡を左手へ少し進むと墳丘が見える。吐田平古墳群は20基程。2号墳は径15m・高さ4mの円墳。南に開口する左片袖式の横穴式石室で、組合箱式石棺があった。羨道長4m・幅1.2m、玄室長3.1m・幅2m・高さ2.2m、羨道部の天井石は滅失している。玄室内には、石棺の一部もある。須恵器・金環・刀・鉄鏃・鉄矛等出土。2号墳の西にある1号墳は径22mの円墳だが、東・西・北側が削られている。木棺直葬らしい。須恵器・鉄鏃が出土。3号墳は、2号墳のすぐ南側、径9mの円墳。盛土は流失し、現状の高さは2m程。南に開口する横穴式石室で、袖は無く、玄室と羨道の境は不明。現状は長さ3.5m・高さ1.2m・幅1.2m位。天井石は奥壁側の一枚のみ残る。東側に4号墳、径18mの円墳で、墳頂は陥没している。さらに東側に「16B-0161」がある。15m程の円墳で、墳頂に1.5mx2.5m程の陥没孔があり、周りに石材が散乱。さらに南の尾根伝いに4~5基の円墳が並び、北側尾根にも10数基の円墳が並ぶ。 

吐田平古墳群方面                              駐車位置東望

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