豊中市の桜塚古墳群と池田市の古墳
2012年週3日勤務となり、古代史の勉強を本格的に開始。記紀や魏志倭人伝等の古代史書は解釈が様々。天皇の系譜を辿っているうちに天皇陵見学に出だした。神武~50代桓武天皇まで回り、その後は歴史と併せ、考古学面から近場の古墳巡りへ。
2019.5.29(金)。全国的に5月としてはかってない暑さだが、それほど暑くなさそうな今日を選び、大阪府豊中市~池田市の古墳を巡った。
豊中市の桜塚古墳群
阪急宝塚線の岡町駅周辺に5基残存する。大石塚古墳、小石塚古墳、大塚古墳、獅子塚古墳、南天平塚古墳、約3kmの行程。
池田市の古墳
阪急宝塚線の石橋(阪大前)駅から北方面へ向かい、二子塚古墳、鉢塚古墳、五月ケ丘古墳、池田茶臼山古墳を巡り、池田駅までの約5kmの行程。
*ブログはつい先ごろからやり出したところ。
桜塚古墳群
古墳時代前期後半(4世紀)と中期末~後期初頭(6世紀)の二期にまたがって形成されたとされる。 明治期に三度大規模調査され、「壱日三捨六墳全図」「三十六墳所在総図」「諸墳略図面書上」などの絵図が編集・保存された。昭和10年代の土地区画整理事業に際し、狐塚古墳、北天平塚古墳、南天平塚古墳などが発掘調査され、北摂の中期古墳群と確認された。絵図の36基と、近年調査で発見された桜塚37号~44号の8基を加えた、計44基が確認されたが、宅地開発で39基は破壊され、現存は、大石塚・小石塚・大塚・御獅子塚・南天平塚古墳の5基のみ。
大石塚古墳と小石塚古墳
阪急岡町駅の西側約200m、豊中市岡町北1丁目、南北に並んで築かれた4世紀末頃の前方後円墳。南側の大石塚古墳(上図①)は3段築成、全長80m以上、後円部径48mと群中最大。墳丘には葺石がみられ、墳丘テラス面には円筒埴輪と朝顔形埴輪が3本一組で配されていたとのこと。小石塚古墳(上図②)は2段築成、全長49m、後円部径29m、前方部幅21m。墳丘から円筒埴輪や壺形埴輪、周溝外側から円筒埴輪棺が出土。
大石塚後円部南東望遠景 北端近景 案内
*画像をクリックすると拡大されます。
小石塚遠景 前方部近景 案内
大塚古墳
岡町駅反対側の原田神社(上図③)を抜け、豊中市中桜塚4丁目の大塚公園へ(上図④)。3段築成の円墳で径56m、周囲に幅12mの濠が巡っていた。墳頂に三棺が埋葬され、うち西側の二棺は中心の墓壙に並べて納められていた。築造は5世紀初めと推定される。
大塚古墳遠景 近景 案内
墳頂 埋葬墓壙跡南望 墓壙跡北望
御獅子塚古墳
御獅子塚おししづかは、大塚古墳の南側、豊中市南桜塚2丁目、南桜塚小学校の東に隣接(上図⑤)。全長55mの前方後円墳で、周濠を含めると70m。2段築成で、墳丘には葺石が敷かれ埴輪が巡る。後円部墳頂には埋葬施設が残存しており、長さ5.2mの棺の内外から、鏡・甲冑・刀剣・鉄鏃・農工具・玉類・馬具・革製の楯が出土したとのこと。築造年代は5世紀中頃。
大塚公園から遠景 後円部全景 案内
後円部南望近景 前方部南西望 北西望
南天平塚古墳
南天平塚みなみてんびんづかは、御獅子塚古墳の南、豊中市南桜塚3丁目(上図⑥)。全長28mの帆立貝式前方後円墳だったとされる。現在では墳丘の一部を残すのみ。戦前の発掘調査で二つの木棺から鏡・刀剣・鉄鏃・短甲・馬具・楯等が出土したらしい。一方の木棺はほとんど腐らずに残っており、割竹形木棺の構造が判明した。築造年代は5世紀後半と考えられるとのこと。
南望遠景 南東角 案内
墳丘部南望 石碑北望 西望
池田市の古墳
阪急石橋駅→二子塚古墳→井口堂・有馬道道標→水月公園→釈迦院→一乗院→五社神社・鉢塚古墳→歴史民俗資料館・五月ヶ丘古墳→池田茶臼山古墳→池田駅 全行程5km
二子塚古墳(稲荷山古墳)
池田市井口堂1丁目。6世紀前半の前方後円墳(上図⑦)。墳丘全長70m、2段築成、後円部径45m・高さ10m、前方部最大幅18m・高さ5m。石室が二つあるので二子塚(稲荷社があるので稲荷山古墳)。後円部の埋葬施設は、花崗岩割石による両袖型横穴式石室で、南東方向に開口。石室は、全長6.7m、羨道長1.5m・幅0.9m・高さ0.7m、玄室長4.5m・幅1.5m・高さ1.7mで天井石は四枚。羨道には一枚の天井石が遺存。前方部にある埋葬施設は、横穴式石室らしいが、埋没していて不詳。石室のうち一つは第二次大戦で防空壕として利用されたとのこと。
全景 近景 案内
後円部登り口 石室
途中の経由地
⑧井口堂道標 井口堂1丁目
池田には昔大小八つの街道があり、多くの「道標」があった。能勢街道と有馬道が出会う所に二つ道標がある。一つは「右ハ大坂道・南無阿弥陀仏・左ハ京道」と縦三行で、下に「蓮華紋」が刻まれている。二つ目は「右大坂」と上に「仏像」が刻まれている。「坂」という文字から江戸時代前期および後期に作られたと考えられるらしい。
⑨有馬道道標
井口堂道標から西へ約150m。能勢街道と有馬道の分かれ道で、小さな祠があり、その前の道標に「右ハいけだみち・南無阿弥陀仏・左ハありまみち」と縦三行で、その下に「蓮華紋」が刻まれており、これは井口堂道標と様式が同じなので、同時に作られたものと考えられている。
⑩水月公園 鉢塚3丁目
池田市三大公園の一つ。S45年(1970)に四つの池を二つ残して公園にした。中国蘇州市から贈られた建物「斉芳亭せいほうてい」、石坊(中国の門)、太湖石、蘇州の獅子が置かれている。
⑪釈迦院 鉢塚3丁目
神亀元年(724)若王寺にゃこうじとして聖武天皇詔勅で創建。神功皇后持ち帰りの鉄鉢が出たと伝わる。厄落としの「尊鉢厄神さん」の愛称もある。信長攻めで焼失後、釈迦院の名で再建。秀吉の北の政所が朝鮮の役の戦勝を祈願したといわれる。
⑫一乗院 鉢塚2丁目
「石田三成軍旗塚」が有名。三成の遺児千代丸が乳母や遺臣と尊鉢村に隠れ住んだと伝えられ、この辺は石田姓が多い。釈迦院と共に若王寺の塔頭の一つで、行基創建。その後弘法大師が雨宝童子を彫り、本尊としたと伝えられる。雨宝童子は「融通尊」として「どんな事でも融通して下さる」とされる。
井口堂道標 有馬街道道標 水月公園 釈迦院 一乗院三成軍旗碑
鉢塚古墳
五社神社本殿裏。鉢塚2丁目(上図⑬)。五社神社は、神亀元年(724)若王寺の鎮守社として創建。五社とは国常立尊・建速素盞鳴尊・五十猛尊・住吉大神・穴織大神。本殿奥に鉢塚古墳がある。S39年(1964)に古墳の頂部から経塚が発見された。
鉢塚古墳は6世紀末~7世紀初頭、45mの円墳。全国でも屈指の規模を誇る大型横穴式石室が柵越しに見れる。
五社神社 拝殿横石室進入路 案内
明治時代、造幣局技師の英ウィリアム・ゴーランドが『日本のドルメンとその築造者達』で「テラスのある墳丘」と記して以来、上円下方墳と考えられていたが、H5年の実測では約45mの円墳と推定される。 石室全長は14.8m、羨道長8.4m・高さ約2m・幅約1.8m、玄室長6.5m・高さ5.2m・幅3.2m。石材は花崗岩が主で、他にチャート・粘板岩・輝緑凝灰岩。石棺と思われる熔結凝灰岩も見られた。 玄室内には石造十三重塔(国の重文)と不動明王の種子を刻んだ板碑、地蔵菩薩像が祀られる。墳頂は後世に経塚として利用された。蘇我馬子墳墓との伝承があるが、秦氏の本貫に位置し、その有力な一族の墓と考えられるとのこと。
羨道側壁 玄室
五月ヶ丘古墳
⑭呉服神社前を通り、五月丘1丁目の歴史民俗資料館(⑮)、東奥に五月ヶ丘古墳(⑯)がある。S30年ごろ柿畑で発見された。築造は7世紀=古墳時代後期。池田の古墳群では新しい部類。小型の円墳で横穴式石室の基底部が復元されている。石室内の陶棺は須恵器で、本物は資料館に展示されている。被葬者は築造時期から秦氏一族と思われる。
進入路 復元石室 案内
陶器石棺本物 墳丘?
池田茶臼山古墳
五月丘1丁目の茶臼山公園内(上図⑰)。池田市では最も古い古墳。池田五大古墳の一つ。S32年(1957)、団地造成の際、地元の保存活動により公園となり喪失を免れた。市内の中高生たちの協力で6年間発掘調査が行われたらしい。前方後円墳で全長62m、竪穴式石室の長さ6.4m、古墳の周りは円筒埴輪が20cm間隔で一列に配置されていた。出土品は歴史民俗資料館に保存されている。
公園見上げ 登り口 墳頂から東望