OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

舞谷2号墳

JR桜井線・近鉄大阪線桜井駅の南東1.5km程にある鳥見山(とみやま=標高約245m)一帯を囲むように点在する古墳の一つが舞谷2号墳

]

奈良県桜井市浅古あさご。7C前半~中頃の方墳。
桜井中学付近信号から東方向に、5分程で左(北)側に民家が一軒あり、その少し東に階段がある。上がって、獣道なりに50m程。
2018年4月9日(月)一度訪問しているが、2022年6月17日(金)再訪。殆ど変わっていなかった。

民家下から   登り口               進入路              開口部

     *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

東西に並ぶ5基からなる古墳群の一つ。奈良県遺跡地図では213=舞谷1号墳・192=2号墳・191=3号墳・214=4号墳・215=5号墳

東西10.6m・南北9m・高さ約2.5m。石室は横穴式で、南に開口。

室生安山岩(榛原石)の板石を漆喰で積み固めた小型の磚槨式石室で、このタイプとしては花山西塚古墳(桜井市粟原(おおばら))とともに著名な古墳である。天井構造は奥壁と左右の側壁から少しずつ前に持ち送りし、小型の板石で覆っている。天井の断面は家型の寄棟造り状である。全長4.1m、玄室長2.4m・幅1.3m・高1.6m、羨道部は半壊。出土遺物は不明。

玄室全景         西側壁

東側壁                                    天井部

石室上へ         開口部俯瞰                     (2018年4月当時)

 

秋殿南古墳

JR桜井線・近鉄大阪線桜井駅の南東1.5km程にある鳥見山(とみやま=標高約245m)一帯を囲むように点在する古墳の一つが秋殿南古墳。すぐ東隣にこうぜ1号墳がある。

]

奈良県桜井市浅古あさご。7世紀初頭頃の方墳。

2018年4月9日(月)一度訪問しているが、2022年6月17日(金)再訪。殆ど変わっていなかった。

登り口東望                                見返り    進入口

   *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

進入口位置     案内         進入口                  開口部

鳥見山南麓の一尾根先端部を掘り込んで築造しているとのこと、一辺24m・高さ5mの方墳。両袖式の横穴式石室が南方向に開口する。案内には羨道の長さ6.3m・幅1.65mとある(現状高さ1.4m程)、羨道部は基本的に花崗岩巨石の一段積みで3石(西壁は羨門部の1石含めると4石)。羨道天井は(楣石含め?)4石。

羨道西側壁

羨道東側壁                                     玄門部

玄室は長さ4.7m(案内板には6.3mとあるが、そこまでない?)・幅2.3m・現状高さ2.3m。盗掘で棺や遺物は不明。玄室は奥壁・側壁とも基本的に二段積み。ただし、一段目が半円形(下弦の月っぽい)なので、そこそこ土砂で埋まっている感じがする。天井は2石。

玄室全景         奥壁           奥壁上部         奥壁下部

玄室西側壁        玄門側          東側壁          玄門側

玄室天井奥側       玄門側          楣石上部         楣石  

左袖           右袖            羨道

規格・構造的に岩屋山式石室とも言われるが、どう見ても丁寧に仕上げられた切石で構成される岩屋山古墳石室(7世紀中葉~後半)とは、似ても似つかない?と思うが・・・・。秋殿南古墳は羨道や奥壁、玄室側壁の一部に切石加工されたような石材もあるが、自然石っぽいものもあり、中型・小型石材が大型石材の間を埋めていて、石材の統一感もあまりない。打上古墳(明日香村細川=6世紀後半~7世紀前半)やムネサカ1号墳(桜井市粟原(おおばら)7世紀前葉~中葉)等は、まさに岩屋山式で納得だが・・・・・。 

岩屋山古墳石室(2015年11月訪問当時)

詳しくは以下を参照下さい。

秋殿南古墳(桜井市浅古) - 一般社団法人 桜井市観光協会公式ホームページ

 

秋殿北古墳

秋殿南古墳から尾根を北へ上がった辺りにあるらしい。奈良県遺跡地図(下図参照)では遺跡ID「14B-0238」で径10mの円墳とある(秋殿南は176)。

こうぜ1号墳

鳥見山南麓から派生する尾根の先端に築かれた古墳で全長11m(西石室)と9.7m(東石室)の2基の石室が隣接して遺存する(遺跡地図182)。2006年の桜井市教育委員会の調査で前方後円墳の可能性が高いと判断されたらしい。2018年4月訪問時は場所が分からず、2021年6月は笹薮がひどく、今回も同時期なので、とても登れる気がせずパス。今は先達のブログ等を参考にするのみ。また機会があれば、真冬にリベンジするかも・・・・・。

遺跡地図     こうぜ1号墳進入路                         遠景北西望      

詳しくは以下を参照下さい。

こうぜ古墳群(桜井市浅古) - 一般社団法人 桜井市観光協会公式ホームページ

 

兜塚古墳

JR桜井線・近鉄大阪線桜井駅の南東1.5km程にある鳥見山(とみやま=標高約245m)一帯を囲むように点在する古墳の一つが兜塚古墳

    *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

桜井市浅古あさご古墳時代中期後葉=5世紀末頃の前方後円墳メスリ山古墳から東へ直線距離で360m。距離は近いが築造時期はメスリ山古墳より150年前後新しい。

2018年4月9日(月)一度訪問しているが、2022年6月17日(金)再訪。八坂神社境内から南へ抜ければグルっと廻るより近い。

八坂神社境内に、奈良県遺跡地図「14D-0090」の円墳がある。東半分は破壊され灯篭や碑だけが立つ。南に開口する自然石の横穴式石室(羨道長5m以上、玄室長4.3m・高2m)だったらしいが、西側壁一部石材を残すのみ。

八坂神社         古墳跡?                      兜塚古墳へ

墳丘周囲をフェンスでガチガチに囲まれた様子は、2018年当時と全く変わっていなかった。古墳を護るためというより、周辺の私有地を護るためかも・・・・・。

経路

前方部を西南西に向け、全長40m・後円部径20m・前方部幅19m。現在は周囲の住宅地よりかなり高く、見晴らしが良い。茸石らしい小礫や円筒埴輪の破片もあったらしい。
石室は後円部墳頂中央より東に偏った場所にあった竪穴式(竪穴系横口式説も)で、扁平な河原石を礫槨状に積上げていたとのこと。石室の推定規模は長さ約3.7m・幅1.4m、床面に粘土を敷きつめ、その上に石棺を安置していた。棺は阿蘇ピンク石製の刳抜式家型石棺で、長さ約2.1m・幅と高さ約1mで、露出遺存している。蓋石は蒲鉾形に近く、左右に二個ずつ、縄掛突起がやや上向きにつく。家形石棺としては奈良市の野神古墳の石棺等と共に、古い型式のもの。ずっと露出しているため、ピンク石とは判りにくいが、石棺蓋内部は結構ピンク石っぽい。碧玉製管玉・琥珀製棗玉・銀製空玉・披璃製小玉・鉄鏃等が出土。
石棺南望     西望      石棺内部              北望      東望

前方部方面                前方部       後円部方面

東方 180°パノラマ                             (右=南=談山神社方面)

メスリ山古墳

JR桜井線・近鉄大阪線桜井駅の南東1.5km程にある鳥見山(とみやま=標高約245m)一帯を囲むように点在する古墳の一つがメスリ山古墳

古墳時代前期後半=4世紀初頭(~中頃)の前方後円墳、国の史跡。鉢巻山古墳とか東出塚古墳等とも呼ばれる。地理的には鳥見山古墳群だが、北側にある艸墓くさはか文殊院・谷首・コロコロ山古墳等の終末期古墳と比べると、250年~300年程古く、築造の時代背景は全く異なる。

[http://]

奈良県桜井市高田。2018年4月9日(月)一度訪問しており、当時は墳丘に登ったが、2022年6月17日(金)再訪時は、笹が深く登墳はパス。

コロコロ山古墳から東へ    メスリ山古墳前方部      後円部南東望見上げ   南望見上げ 

    *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

前方部を西に向ける墳丘長224m(古い案内板には約230m、現在250mともされる)前方後円墳で、墳丘斜面には人頭大の葺石が敷かれていた。後円部3段築成=径128m・高19m(古い案内板には径120m・高21m)、前方部2段築成=幅80m・高8m(古い案内板には高9m)。後円部に比べ、前方部がかなり低い。(前方部は果樹園になっている。)
後円部テラス各段に円筒埴輪が巡り、更に墳頂部の方形区画を囲むように円筒埴輪が二重に巡っていたらしい。また円筒埴輪は後円部3段目から前方部2段目への斜道にも2列に立てられており、前方部方形壇の外側にも間隔を置いて点在したらしい。

 (以下、掲載写真は2018年4月9日のものです。)

後円部3段築成    1段目        2段目        3段目から墳頂へ  前方部2段築成

後円部墳頂の方形区画は南北に長く、長辺(南北)11.3m・短辺(東西)4.8m程・深さ1m程で、周囲を二重に巡っていた円筒埴輪列は、一重目と二重目の間隔が広くとられ、その間に径1mもの大型円筒埴輪を角や辺を等分する位置に立てていたらしい。方形区画両短辺の円筒埴輪列の内側には、口縁部径1.3m・高さ2.4m程の=日本最大の器台型埴輪が1本ずつ立てられていた。その方形区画の下に、南北に長い竪穴式の埋葬主体部(全長8m・幅1.35m・深さ1.76m、8石の天井石)があり、粘土床上に木棺が安置されていた。なお竪穴式の埋葬主体部の上部外周には、約1mの高さで塊石を石垣状に積んでおり、これが方形区画の四周壁を形成していたとのこと。

方形区画位置    石室の天井石               方形区画の積み石  円筒埴輪列イメージ

主石室では内行花文鏡・三角縁神獣鏡の破片、翡翠の勾玉・碧玉の管玉等の玉類、石釧いしくしろ・鍬形石・車輪石等の石製腕輪類、椅子形石製品、櫛形石製品、石製合子(ごうす=ふた付きの 小さい容器)・刀剣等が出土(盗掘で大半が破壊されていたらしい)。更に主石室東横には副室が設けられていた。持ち送り積み合掌式天井の竪穴式石室で、長さ6m・幅0.7m・高さ0.6~0.7m。武器等の埋納用と考えられ、鉄剣形の茎式鉄矛212本(長柄をつけていた?)、銅鏃236個、石鏃50個、鉄弓1張(長さ182cmで鉄製弦)、鉄製矢5本(長さ80cm)、漆塗り盾、鉄剣・鉄刀各1本、鉄斧14個、玉状の石製品、手鎌19本、鑿のみ、やりがんな51本、錐、刀子、鋸等、680点が出土。

後円部の遺存葺石     後円部北東墳裾の案内  (2022年6月現在も残る案内)

古事記』、『日本書紀』や『延喜式』等に陵墓としての伝承はないが、墳丘規模・埴輪の大きさ・石室規模・副葬品埋納施設・出土遺物等からすると、絶大な権勢を誇った首長墳墓と考えられる。メスリ山古墳の築造時期(4世紀初頭~中頃)は、考古学的には3世紀代の箸墓古墳西殿塚古墳茶臼山古墳に後続し、行燈山古墳(4世紀前半=10代崇神天皇陵)・渋谷向山古墳(4世紀中頃=12代景行天皇陵)に先行する時期であり、歴史学的には初期ヤマト政権の形成期とされる。

行燈山古墳(10代崇神天皇陵)・渋谷向山古墳(12代景行天皇陵)は以下を参照下さい。

天皇陵 その三 - OSAKA-TOM’s diary

 

石室に入室できる古墳と違い、外から墳丘を眺めるだけの古墳はイマイチ興味が薄れるので、築造の時代背景を知った上で訪問するといいかも・・・。

コロコロ山古墳

JR桜井線・近鉄大阪線桜井駅の南東1.5km程にある鳥見山(とみやま=標高約245m)一帯を囲むように点在する古墳の一つがコロコロ山古墳

]

奈良県桜井市高田 。1984年(S59)に発見、1985年(S60)に発掘調査されている。元は一辺30m・高さ3m、6世紀末~7世紀初頭の方墳で、現在の西側住宅地(桜井市阿部)にあったが、1987年(S62)に両袖式の横穴式石室が移築保存された。フェンスで囲われているが、扉は施錠されておらず石室の見学は可能。

2018年4月9日(月)一度訪問しているが、当時施錠されていると思い込み入室しなかったので、2022年6月17日(金)再訪。2018年当時、真っ白だった案内が新しくなっていた。

 南東望         東望           フェンス         案内

    *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

石室は全長11m、羨道長5.65m・幅1.75m・高さ不詳。

玄室は長さ5.35m・幅2.5m・高さ不詳。天井部は失われており、代わりにコンクリートで覆われている。しかしながら、剥き出しになった側壁は、構築途中の様相で、側壁の構造が見れる点は貴重かも・・・・・。

玄室           西側壁          東側壁          覆い屋

東側壁奥側上部      玄門側上部        西側壁上部

左袖部        右袖部       楣石         羨道 

なお石室内で、初葬時の副葬品として耳環・ピンセット状鉄製品・鍔・土器等、追葬時の副葬品として金銅製刀子・鉄斧・土器等があったらしい。

コロコロ山古墳(桜井市阿部) - 一般社団法人 桜井市観光協会公式ホームページ

 

谷首古墳

JR桜井線・近鉄大阪線桜井駅の南東1.5km程にある鳥見山(とみやま=標高約245m)一帯を囲むように点在する古墳の一つが谷首古墳

[http://]

奈良県桜井市阿部。八幡神社敷地内。6世紀末~7世紀初頭(前半)の方墳、県史跡。谷汲古墳とも。

2018年4月9日(月)一度訪問しているが、2022年6月17日(金)再訪。全く変わっていない。

          谷首古墳進入口      案内           開口部

    *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

阿部丘陵周辺では最大規模で、一辺約35~38m・高さ約8mの方墳らしいが、墳丘はよく分からない。中世には墳丘が砦として利用されたとのこと。墳頂に神社拝殿・本殿がある。南に開口し、開口部は羨道南端の天井石が崩れ落ち狭くなっているが、中はかなり広い。石舞台古墳類似の花崗岩の大型石材を使った両袖型横穴式石室。全長13.8mで、羨道は長さ約7.8m・幅約1.7m・高さ約1.8m。羨道側壁は1段積みで(羨門部除きで)4石。羨道天井は(崩落分込みで)4石。

開口部          羨門部          羨道西側壁

羨道東側壁                     羨道天井

玄室は長さ約6m・幅約2.8m・高さ約4mとかなり大きい。奥壁は2段積み・側壁は基本3段積みで、持ち送りが結構きつく、終末期古墳の特徴を示す。天井は2石。石室内から、かって凝灰岩の破片が出土し、石棺があったと思われるとのこと。この周辺を本拠地にした豪族=阿倍氏関係の墳墓と考えられている。

玄室奥壁         床面           西側壁          東側壁

玄室天井奥側                    天井奥側の蝙蝠

楣石(まぐさいし)                                楣石上部

左袖石          右袖石          羨道           開口部

 

文殊院西古墳

JR桜井線・近鉄大阪線桜井駅の南東1.5km程にある鳥見山(とみやま=標高約245m)一帯を囲むように点在する古墳の一つが文殊院西古墳と東古墳

[http://]

奈良県桜井市阿部。安倍文殊院境内。7世紀後半の円墳。単独古墳としては全国に7基しかない「国の特別史跡の一つ。

建築物・仏像等有形文化財の国宝に当たる。単独古墳としては、文殊院西古墳以外に石舞台・高松塚・キトラ・巣山古墳(奈良県)、王塚古墳(福岡県嘉穂郡桂川町) ・山上碑及び古墳(群馬県高崎市)。

群集墳としては埼玉(さきたま)古墳群(埼玉県行田市=愛宕山・稲荷山・奥の山・瓦塚・将軍山・鉄砲山・中の山・二子山・丸墓山古墳)、岩橋千塚(いわせせんづか)古墳群(和歌山県和歌山市=将軍塚古墳(前山B53号墳)・知事塚古墳(前山B67号墳)・郡長塚古墳(前山B112号墳)・大日山35号墳)、西都原(さいとばる)古墳群(宮崎県西都市=鬼の窟古墳(西都原206号墳))

 

2018年4月9日(月)一度訪問しているが、一部見落としたので、2022年6月17日(金)再訪。

阿倍文殊院

   *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

安倍山丘陵から北西に派生する尾根を利用していたとのこと。規模は30m前後だが墳形は不明。

文殊院西古墳西望  南望         東望        本堂         本堂案内

埋葬施設は、花崗岩を丁寧に仕上げた切石積みの両袖式横穴式石室で全長12.5m。

開口部北望     (2018年4月当時の開口部と案内)       案内      (2018年4月当時の案内)

羨道は長さ8m・幅2.3m・高さ1.8mで、羨道両側壁は1段で各4石ずつ、羨道天井は3石で、開口部側の一枚が一段高い。

羨道側壁

羨道天井                                   玄門部

玄室は長さ5.1m・幅3m・高さ2.6m。玄室奥壁は、方形に切り揃えた切石が使われ、5段積みで上から4石・3石・4石・3石と基底石4石。

玄室全景                      玄室奥壁上部       奥壁下部

玄室両側壁も5段だが、上から7石・6石・7石・6石と基底石7石の5段で、上段石の目地が下段石中央にくるように互積みされている。ただし一部に倍の横幅の石が使われている箇所が(奥から見て)右側=西側壁に2ヶ所?(最上段と上から2段目)、左側=東側壁に3ヶ所?あり、目地を揃えるため、その石の真ん中に浅く彫り込んだ目地の模擬線があり、石の大きさと配置が綿密に計算されている。

玄室西側壁        下部玄門側        下部奥側         目地模擬線 

玄室東側壁        下部玄門側        下部奥側         目地模擬線  

玄室天井は1枚の巨大石で、中央部分を薄く削り上げ、蒼穹(アーチ)状に仕上げている。玄室中央に安置されていたであろう棺への水滴落下を防ぐためともされる。出土遺物はないが、石室の完成度から7世紀後半と推定されている。

玄室天井         楣石と天井前側

周辺には7世紀代にも大型の横穴式石室が築かれたが、当古墳は最も新しい時期。各所に高度な加工技術が見られ、最も完成した石室であり、被葬者の権力が窺い知れる。近くに阿倍氏の氏寺とされる阿倍寺跡があり、周辺は当時阿倍氏の支配地域とされる。当古墳も阿倍氏一族の墓の可能性が高く、大化の改新後、左大臣に任じられ権勢をふるった阿倍内麻呂(倉梯麻呂)等が有力候補である。

平安時代以後は「安倍」と称する。

 

文殊院東古墳

西古墳の東約100mにある。墳形・規模は不明。

東古墳方面                     白山堂          東古墳

南面に開口する両袖式の横穴式石室だが、立入禁止。全長13m、羨道長8.3m・幅1.8~2m・高1.5m、玄室長4.7m・幅2.3~2.7m・高2.6mとのこと。羨道は花崗岩の切石(手前2段・奥1段)、玄室は自然石(奥壁・側壁とも基本2段)、全て切石の西古墳に先行する7世紀前半築造らしい。羨道中程に枯れない泉があったことで「閼伽井あかいの窟」とも呼ばれる。

東古墳開口部               羨道

詳しくは以下を参照下さい。

文殊院東古墳(桜井市 阿部) - 一般社団法人 桜井市観光協会公式ホームページ