馬見うまみ古墳群は、奈良県北葛城郡の河合町・広陵町~香芝市・大和高田市に広がる馬見丘陵周辺に造営された250基以上の古墳群。佐紀盾列古墳群と大和・柳本古墳群と併せ「大和3大古墳群」とも呼ばれる。4世紀末~6世紀に造営されたと見られ、葛城氏系の墓域との説もある。北群・中央群・南群の3群に分けられる。
*奈良盆地南部・西南部の水を集めた曽我川(支流に葛城川・高田川)は、河合町北部で大和川に合流する。合流地点の西側南北7km、東西3kmの低い丘陵が馬見丘陵。その丘陵東縁に沿って築かれたのが馬見古墳群。奈良盆地西南部の勢力が築いたとみられている。墳長約200mの大型前方後円墳4基を含め前方後円墳22基・帆立貝形前方後円墳6基・前方後方墳2基・大型円墳3基等がある。大まかには、南群―中央群―北群の順序で築かれ、古墳時代前期後半から中期末まで約150年間も続く。この間に世界遺産の百舌鳥・古市古墳群が登場する。馬見古墳群を築いた勢力もこの動向と無関係ではないはず。馬見古墳群中央群に乙女山古墳等帆立貝形前方後円墳があるが、堺市の百舌鳥古墳群の大山古墳(仁徳陵)周囲にある十数基の陪塚のうち半分位が帆立貝形。同じ頃、百舌鳥古墳群の周辺部にあたる泉南地域にも帆立貝形が造られている。主墳となる前方後円墳の被葬者に従属する人物の墳墓としての意味合いがあると考えられている。馬見古墳群の主な古墳築造順は、古墳時代前期(4世紀中頃に)新山→佐味宝塚→(4世紀後半に)築山→島の山→巣山→(5隻異前半に)新木山→大塚山→(5世紀末)狐井塚古墳が築かれたとされる。
北群
2017年11月2日(木)訪問。北群・中央群・南群の3群では、一番遅く造営された。
①(川合)大塚山古墳
奈良県北葛城郡河合町川合。5世紀中頃~後半築造の前方後円墳で、墳丘長197m(または215m)、後円部径108m(118m)・高さ約16m、前方部幅110m(123m)・高さ16~17m、各3段築成である。周濠跡は現在水田になっているが、盾形の周濠跡がはっきり分かる。周濠幅は後円部北側で35m・南側で39m、くびれ部で49m。周濠外提幅20m。前方後円墳・方墳・円墳等8基からなる大塚山古墳群の主墳とされる。葺石・円筒埴輪列が確認され、円筒・朝顔形埴輪、家形埴輪の円柱部分に小型の盾を付けたものや盾形・蓋形埴輪とともに、須恵器質の土師器等が確認されている。埋葬施設は竪穴式石室で、長持形石棺と推測されている。
後円部南望 西望 東側周濠跡南望 くびれ部東側案内
*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。
前方部西望 正面北望 西側周濠跡北望 後円部西側案内
②九僧塚くそうつか古墳
大塚山古墳くびれ部の西方=県道5号線を挟んだ西脇。一辺33m・高さ3mの2段築成の方墳。大塚山古墳の陪塚で大塚山古墳副葬品の埋納施設とされる。大塚山古墳とほぼ同時期の築造とのこと。
大塚山東側周濠跡南望 大塚山くびれ部側から 県道から
*写真は2017年11月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意ください。
③高山塚1号墳=中良塚なからづか、高山塚2・3・4号墳
河合町西穴闇にしなぐら。
高山塚1号墳は5世紀後半~6世紀初頭の前方後円墳。全長88m、後円部径45m・高さ6.5m、前方部幅50m・高さ6.5m、各2段築成。
位置関係 全景北望 案内 後円部西望 北西望
高山塚2号墳は、1号墳の少し西側。元は35m程の円墳。高山塚3号墳は、2号墳から道を挟んだ南側の保育所に隣接。元は25m程の円墳。高山塚4号墳は、3号墳の西側80~100mで、元は20m程の円墳(民家の塀で囲われ見えない)。いずれも5世紀後半築造とのこと。
2号墳東望 案内 3号墳南西望 北東望
④丸山古墳
河合町川合。5世紀後半、径48mの2段築成の大型円墳(または帆立貝形古墳)。周濠もあった様で、総長は60m程。
遠景北望 近景西望 南望
⑤城山古墳
河合町川合。5世紀末~6世紀初頭の前方後円墳。全長109m、後円部径60m・高さ10m、前方部幅73m・高さ10m、各3段築成。周濠の幅は後円部側で18m、前方部側で20mで外提があり、円筒埴輪・土師器・瓦器が出土。中世には河合城として利用され、名称の由来となっている。
前方部北望 西望 後円部南西望 後円部北端西望
⑥島の山古墳
川西町大字唐院。別名島根山古墳。4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳。墳丘長195m、盾型周濠を含めた総長265m・幅175m。周辺の古墳とともに三宅古墳群を構成する。 東西くびれ部には造出しがあり、墳丘からは葺石と埴輪列(朝顔形円筒・家形・盾型・靫形埴輪等)が検出された。2005年(H17)の調査で、西側くびれ部から、祭祀用と考えられる植物製籠も出土。位置的には、河川が合流する交通要所にあり、大塚山古墳群と共通しており、両者の墳形規格が同じ点から、大塚山古墳との関連性が指摘される。出土した鍬形石は、江戸時代の学者=木内石亭著の「雲根志」に、『神代石』という名で記されているらしい。
後円部中心には竪穴式石室があったようで、兵庫県の竜山石製の石室天井石が確認されている。1996年調査で前方部墳頂から粘土槨も検出。粘土槨は東西10.5m・南北3.4mの墓坑内にあり、全長8.5m・幅1.7~2m。副葬品の多くは盗掘を受けているが、粘土槨表面に貼り付けるように滑石製勾玉・臼玉・管玉・琴柱型石製品等2500点が検出されている。棺上の粘土層内からは車輪石80・鍬形石21・石釧32・鉄小刀5も見つかり、更にその上を厚さ10cmの粘土層で封じ込めていたらしい。棺内には碧玉製合子3・獣形銅鏡3・大型管玉5・首飾り1・竪櫛11等があった。副葬品から被葬者は女性の可能性があるとのこと。また、墳頂のくびれ部から前方部にかけて大型の粘土槨があることも確認された。
後円部北東望 西側周濠北望 案内 後円部東望
前方部南東望 東望 北東望 正面北望
中央群
2017年11月2日(木)訪問。
河合町佐味田馬見丘陵公園内に乙女山古墳・ナガレ山古墳等数基が整備保存されている。一般の方には花壇公園として親しまれている。
公園案内 花壇
河合町佐味田馬見丘陵公園内。5世紀前半の帆立貝形前方後円墳。全長約130m、後円部径約104m・高さ約14.7m、前方部長約30m・幅約52m・高さ約3.5m。前方部を南東に向ける。後円部は3段築成で、1・2段目は低く緩やかで、3段目は急斜面で椀を伏せた様な形。後円部西側に長さ11m・幅約23mの造出しが付く。周濠は前方部側が幅広く、後円部側が狭い。 葺石は各段斜面に敷かれており、後円部の埋葬施設は粘土槨と考えられるらしい。 刀子(とうす=ナイフ)・勾玉・臼玉うすだま等の滑石製模造品が出土。 造出し部では2段目の斜面に葺石が認められ、外側に礫を敷いた円筒埴輪列、その内側から家形埴輪2・楕円形円筒埴輪2が検出された。残念ながら竹藪に覆われ、墳丘は良く分からない。
後円部遠景東望 道標 案内 前方部
一本松古墳・倉塚古墳
乙女山古墳から池を挟んだ南側に一本松古墳(全長130mの前方後円墳)・倉塚古墳(全長180mの前方後円墳)がある。
道標 一本松西望 東望 案内
一本松墳頂 墳頂~北東望 倉塚 案内
⑧ナガレ山古墳
5世紀前半の前方後円墳。全長105m、後円部径64m・高8.5m、前方部幅70m・高6.2m。前方部を南に向ける。破壊された部分に土を入れ、墳丘全体に盛土を施し復元しているとのこと。墳裾と中段に埴輪列も復元。墳頂部と西側埴輪列は植栽で埴輪列を表現している。
公園案内 前方部西望 くびれ部北西望 後円部北望
東側送葬通路 案内 復元埴輪 西側見下ろし
東側景色案内 北東方面実写 東方面実写
南側景色案内 南東方面実写 南方面実写 *佐味田石塚古墳案内
*ナガレ山古墳の北側100m程に(ナガレ山古墳と公園館の中間)に佐味田石塚古墳の石室が移築保存されている。2017年訪問時、石室は笹で覆われていた。
2022年再訪時は綺麗になっていた。
案内正面 1号墳移築復元石室 2号墳
⑨巣山古墳
巣山古墳(広陵町大字三吉元斉音寺)へは、公園南側の道路に架かる陸橋を越える。東側陸橋下の休憩所には北今市きたいまいち1・2号墳の石棺(復元?)と案内が置かれている。
公園案内 東側陸橋から西望 案内 巣山遠景南望
巣山古墳の外提北側に古墳状の高まりがあり、円筒埴輪列と円筒棺が見つかっている。
位置 案内
巣山古墳は、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳。全長204m、後円部径110m・高25m、前方部幅94m・高21m。各3段築成で前方部を北東に向ける。全国規模23位で、古墳系では全国に9例しかない「国の特別史跡」である。
墳丘は上に行くほど急斜面で、斜面に安山岩系礫石や割石が葺かれるらしい。くびれ部両方に方形の造出しが付く。楯形周濠の幅は後円部側で33m、前方部側で37m、くびれ部造出し周辺で57m。周濠外堤は最大幅が27m、南の一部・東側・北側の一部に築堤を行い、特に東面と北東周辺が高く、幅広い築堤となっている。後円部の頂上部が明治年間に盗掘を受けたが、多くの遺物が出土。後円部主軸に並行して2基の竪穴式石室が確認されたが詳細は不明。前方部先端にも方形の壇状施設があって、内部に小型の割石積みの竪穴式石室のような埋葬施設があると見られている。造出しからは滑石製刀子・籠形土器が出土しており、祭祀関係施設と考えられている。被葬者は(柿本人麿の長歌から)40代天武天皇第一皇子の高市たけち皇子説もある。
南東望 前方部西望 くびれ部西望 後円部南東望
巣山古墳から公園に戻る真ん中の陸橋は、佐味田狐塚古墳(全長78mの前期帆立貝形前方後円墳)の上に架けられている。
案内 陸橋北望 陸橋から東望 狐塚北端
その他5~6基ありますが、単なる芝生公園様の所や樹木の中に有ったりします。
カタビ古墳群
赤丸部分 案内 2・3号墳西望見上げ 1号墳
別所下古墳
黄丸部分(赤丸の右下) 南東望 北東望
三吉2号墳・ダダオシ古墳
ピンク丸部分(右端) 案内 三吉2号墳南西望 ダダオシ古墳東望
池上古墳
オレンジ丸部分(左端) 遠景東望 近景北東望 案内
=======================================
なお、ナガレ山古墳の東脇に古墳模型が有り、結構分かり易い。
詳しくは、奈良県HPを参照下さい。
公園の古墳/奈良県公式ホームページ
⑩佐味田宝塚古墳
河合町佐味田。4世紀末~5世紀初頭頃の前方後円墳。全長111m、後円部径60m、前方部幅50m。各2段築成で前方部を北東に向ける。埋葬施設は粘土槨、その周囲に礫を埋めた排水溝を巡らせていたと推測されている。濠は確認されていない。
馬見丘陵公園西側陸橋から、ほぼ西に1km。当時はかなりさびれて、小さな案内があるだけで、知らないと古墳とは気づかないだろう(今は少し立派な案内が設置されている)。
1881年に発見され、1882年(M14)粘土槨から約36面の銅鏡が出土した。その中に家屋文鏡かおくもんきょう*と呼ばれる直径23㎝の大型鏡があった(宮内庁書陵部蔵)。他に、銅鏡18面・銅製品8点・石製品(石釧(いしくしろ=石製腕輪)・鍬形石・石製合子(ごうす=ふた付き小容器))刀子・剣・斧・鑿等の滑石製模造品47点・玉25箇、総数140点も出土し、東京・奈良国立博物館や宮内庁書陵部に保管されている。
1985年(S60)調査で墳裾から出土した円筒埴輪列から、4世紀末~5世紀初頭頃築造で、馬見地域で最初に築造された前方後円墳と判明。葺石が敷かれ、鰭付ひれつき円筒埴輪列が並び、くびれ部には形象埴輪が存在したと思われる。形象埴輪は盾・蓋きぬがさ・短甲・草摺くさずり、靭(ゆぎ=背負矢立)・家・壺形等。その他車輪石や三角縁神獣鏡片が発見されている。
墳丘西望 案内 家屋文鏡
*家屋文鏡 4世紀頃の地域首長の日常生活に使用された住居と考えられる。鏡背面に、中央の紐(ちゅう)を中心に形の違う4棟の家が描かれている。竪穴棟・平屋棟・高床棟・高床倉庫らしき棟。竪穴棟は竪穴式住居で、入口の扉は支え柱で持ちあげられ、露台と蓋もあり、他の3棟より床面積が大きい。平屋棟は、入母屋屋根で、基壇の上に建てられ大陸風の建築様式と見られる。高床棟は、入母屋屋根で、一方の妻側に手すりをつけ、他方の妻側には露台が見られ、高貴な人家を示す蓋がさしかけられている。また、屋根の左右には稲妻形模様(雷文の一種)が描かれ、その模様の中に人物像が描かれる。祭祀儀礼や政治の中心的な建物と考えられる。高床倉庫らしき棟は、切り妻屋根で、一方に梯子が付く。高床の下は蓆(むしろ)状の仕切りをつくり、収納空間をとなっている。このうち平屋棟と、高床倉庫には、左右に神木様のものが立つ。なお、竪穴棟を除く3棟の上には、各々二羽の鳥が描かれている。
⑪牧野ばくや古墳
葛城郡広陵町馬見北8丁目4。6世紀末の円墳。径約50m・高13mで3段築成。6世紀末から、大王墓や首長墓としての前方後円墳が築造されなくなり、方墳や円墳に代っていく。埋葬施設は、墳丘の中ほどに南面に開口した両袖式の横穴式石室。全長17.1m、羨道長10.4m・幅1.8m、玄室長6.7m・幅3.3m・高4.5m。 巨石を積み、石舞台古墳に次ぐ規模とのこと(玄室側壁は後期~終末期特有のきついめの持送りがみられ、桜井の赤坂天王山と類似)。玄室内には凝灰岩製家形石棺2基が納められていた。奥壁側の石棺は長さ2.1mの刳抜式、手前の石棺は、長さ2.6m程の組合式と推定される。玄室内を中心に玉類・金銅製山梔くちなし玉・金環等の装飾品・銀装大刀・矛・鉄鏃400本等の武器・金銅装の馬具2組・木芯金銅椀・須恵器等が検出された。この時期では最大級で、被葬者は大王に近い人物と考えられ、30代敏達天皇皇子=押坂彦人大兄皇子の説もある。
公園案内 石室案内 開口部 羨道
2022年5月の石室公開日に再訪。以下を参照下さい。
牧野古墳 - OSAKA-TOM’s diary
⑫新木山にきやま古墳
広陵町赤部字新木山。5世紀前半の前方後円墳。押坂彦人大兄皇子の「三吉陵墓参考地」に治定されている。墳長200m、後円部径117m・高19m、前方部幅118m。各3段築成で前方部を東に向ける。両くびれ部に造出しが付き、形態は巣山古墳に似ている。周濠幅は後円部側で18m、前方部側で22m程。外堤は水田や畑の畦畔として残り、幅約20m程・高さ3m以上と推定される。。埴輪列の存在も確認されている。宮内庁に勾玉・管玉・棗玉等が所蔵されているらしい。円筒埴輪の方形透かしと黒斑から、5世紀前半築造と考えられ、馬見古墳群中央群では最後の大型前方後円墳。後円部西側に、外提に接して主軸を同じくする三吉石塚古墳がある
後円部北西望 前方部西望 制札 北側周濠西望 後円部東望
*三吉石塚古墳
5世紀後半の2段築成の帆立貝形前方後円墳が復元されている。全長45m、径40・高6.5mの円丘部に幅22m・長7mの方丘部が付く。葺石・埴輪(円筒・朝顔形・短甲・家等)を検出。周囲には馬蹄形の濠が巡っていた。埋葬施設は未調査のため不明。新木山古墳のある東側を除き、墓地で囲まれている。
遠景西望 近景西望 案内
後円部北望 墳頂から北望 東望(新木山古墳) 南望
南群
2017年10月30日(火)訪問。
広陵町大塚。4世紀前半の前方後方墳。25代武烈天皇の「大塚陵墓参考地」に治定されている。全長約126m、後方部幅67m・高約10m、前方部幅約66m。 前方部を南に向ける。群中でも初期で、1885年(M18)に土地所有者が後方部の竪穴式石室(内部に組合式の長持形石棺)を発見。14面3種の直弧文鏡を含む銅鏡34面出土。直弧文は3~4世紀頃に出現し、直線と弧線を組合わせた文様を持つ。また変形方格規矩神獣鏡は仿製(倭製)鏡で、紐の周りの方形区画の中に、十二支の漢字が文様化され、鈕を挟んで向きあって配された4神4獣。4神4獣鏡は,三角縁神獣鏡の中でも古い段階に製作されたと考えられている。龍文透彫り帯金具も出土。帯金具は中国では、古くは2世紀代に出現し、盤龍文系、龍・鳳凰文系、双龍文系、龍文系等がある。発見された銀製帯具は、中国の江蘇省西晋周處墓等の六朝期の古墳出土のものと類似性が強い。4世紀初頭前後の製作と考えられるとのこと。他に車輪石・石釧・椅子形石製品等が出土。なお、円筒埴輪はメスリ山古墳類似でもある。武烈天皇の在位年と古墳築造時期に大きな隔たりがあり、12代景行朝の葛城国造の宮戸彦宿禰とする説もあるらしい。
遠景北望 前方部南東角 前方部南面西望 前方部南西角
モエサシ古墳群
広陵町みささぎ台17=みささぎ公園。1号墳=径35m・高3.5mの南側の円墳、須恵器片が出土し古墳時代後期築造とされる。2号墳=径16m・高2.5mの北側の円墳。3号墳=全長74mの前方後円墳、後円部径38m・高5.5m、前方部幅23m・高1.5m、墳丘形態から古墳時代前期とされる。公園内東側に黒石13号墳の横穴式石室が移築されている。
公園案内 2号墳 3号墳前方部西望 後円部西望 黒石13号墳
3号墳後円部から前方部方面 1号墳登り口 墳頂 東望見返り
広陵町みささぎ台27=黒石公園。広陵町のHP(2016更新)では、1号墳=径18m・高4mの円墳。2号墳=辺15m・高4mの方墳、古墳時代後期と推定。3号墳=径26m・高4mの円墳。奈良県遺跡地図では1号墳=径20mの円墳。2号墳=径15mの円墳、3号墳=全長55m、前方部幅25m・高2.5m、後方部長25m・高3.5mの前方後方墳で、1980~1989年の文献に基づくとある。公園案内では2基の円墳と1基の前方後円墳となっている。更に、古墳サイトによっては、1号墳~6号墳とするものもあり、バラバラ。言えることは、墳丘状のものは3基以上あるが、いずれもかなり崩壊しており、重要な古墳としては保存されていないということだけ。
公園案内 南東の円墳=1号墳? 西側の墳丘西望 別位置から南西望
安部山あべやま古墳群
6世紀代の古墳群。現在は、道で南北に分断されている。北側は、広陵町馬見南2丁目13=西谷(近隣)公園。1971年ニュータウン造成時に調査された。1号墳=全長42m、後円部経25m・高3m、前方部幅20m・高1.5mで葺石の有る前方後円墳で、この古墳群の盟主墳。前方部を西に向ける。埋葬施設は木棺直葬(後円部)で棺周囲に人頭大の石で排水施設が作られ、木棺西小口で集水後、石組暗渠で南側くびれ部に排水する構造になっており、排水溝に石と埴輪片が使われていたとのこと。棺内から勾玉・金環・石製模造品・鉄槍・ヤリガンナ・須恵器等が、棺外から土師器・須恵器が出土。2号墳(消滅)=径20mの円墳で、刀・刀子・馬具・須恵器が出土。3号墳(消滅)=径12mの円墳。鏃・馬具・土師器・須恵器が出土。小竪穴式石棺も検出。
南側は、広陵町馬見南3丁目23=9号児童公園。4号墳=南側にある径20mの円墳、巨大土壙内に組合式石棺を置き、半壊しているが底板と側板2枚は完存。単鳳環頭・太刀・土師器・須恵器が出土。5号墳=真ん中の径15mの円墳、組合式石棺直葬。金環・銀環・鏃・土師器・須恵器が出土。6号墳=北側にある径10mの円墳、石棺直葬。金環・鏃・須恵器が出土。7号墳(消滅)=径25m、玉類・刀・土師器が出土。*説明板は9号児童公園内に設置されている。
公園案内 1号墳北東望 北望 遠景南東望
案内 5号墳辺り 4号墳
別所城山1・2号墳
香芝市真美ヶ丘4丁目5=城山児童公園。4世紀末頃(~5世紀前半)。香芝市内で最古級の古墳とのこと。
1号墳=北側。全長42mの帆立貝形前方後円墳。後円部径約40m、前方部幅18m。各2段築成で前方部を北西に向ける。盗掘後の墳丘補修の際、硬玉製管玉1個や埋葬施設に使われたと思われる朱や粘土片が少量出土したらしい。総じて目立った出土品はない。
2号墳=南側の、東西径19m・南北21m・現高4.5mの円墳で、墳頂部は盗掘されている。主軸を南北とする埋葬施設を検出。割竹形木棺(長約4.6m・幅0.65m)を埋めた粘土槨(長約6m・幅約2.7m)から札甲さねよろい・鉄剣・鉄刀・鉄鏃・鉄槍・筒型銅器などの武器・武具類が出土。札甲はこの時期では出土例は少ない。
案内 1号墳頂から北望見下ろし 2号墳方面南望 2号墳南望
別所石塚古墳
香芝市別所。別所交差点角で、自動車学校の西に隣接。元は全長90~100m、後円部高約8m前方後円墳。昭和45年発掘調査で葺石と埴輪が出土したらしい。埋葬施設は後円部に粘土槨下部の一部が残存していた。主軸に沿い、長さ5.5m・幅3mの土擴内に砕石を使った排水施設を作り、その上の粘土槨から鉄刀片・鉄斧等が出土したとのこと。
二上山西望 遠景南望 近景南望 北望
別所石塚古墳から、近鉄大阪線を南に越えると築山古墳群の大谷古墳等がある。
大谷1・2号墳
大和高田市大字大谷=大谷山自然公園。5世紀代の築山古墳群。1号墳=径33m・高6mの円墳。公園東入口の森の中。2号墳=公園中ほどで植込みが巡る径13mの円墳。土師器・埴輪出土。2号墳のすぐ北隣にも小円墳が有った模様。
1号墳北東望 案内 2号墳南西望 南東望 案内
かん山古墳
大和高田市築山=築山児童公園。5世紀前半の円墳。径50m・高5mで2段築成。葺石・周濠はない。主軸を北東方面に向ける並列の墓壙が2基。第1主体は10.5×3.8m でコウヤマキの棺材一部が検出されたとのこと。第2主体は6.3×2.7mと一回り小さい。殆ど盗掘されていたが、鉄刀片・鉄鏃片・管玉・朱の他、円筒・朝顔形、盾形・家形の形象埴輪片が出土。
遠景南西望 墳頂から西望 北望見上げ 北西望見上げ
築山古墳
大和高田市築山。4世紀後半の前方後円墳。23代顕宗天皇の「磐園いわぞの陵墓参考地」に治定されている。墳長210m、後円部径120m、前方部幅105m。後円部3段・前方部2段築成とか両3段とか後円部4段・前方部3段等の諸説ある。古地図には、共に「片岡石杯岡かたおかのいわつきのおかの北陵・南陵」として記されているらしい。くびれ部南側だけに造出しが外観できる。築山古墳の周堤帯と東隣のコンピラ山古墳の間に数mの段差があり、それが築山古墳を囲む形で南に延び、一部は栂池という池になっている。これは築山古墳の2重濠の痕跡と推定されているとのこと。
かん山からの後円部遠景 前方部遠景 前方部北東角北西望 南東角北東望
南側くびれ部北東望 後円部南面西望 西面北望 西面北東望
墳丘北側南西望 左写真赤○渡堤 制札 コンピラ山北東望
コンピラ山古墳
大和高田市築山。5世紀前半の円墳。径95m・高12.7mで全国3位の規模。墳丘上に祀ってあった金毘羅神社が名の由来らしい。住宅地で墳裾が削られ、更に土砂採取で改変されており、以前は55m程度の築山古墳陪塚とされていた。近年の調査で、周濠痕跡が発見され、95mと判明。もし、陪塚であるなら主墳の築山古墳被葬者の権力の絶大さを示すが・・・?。墳頂部で出土した埴輪列の2本の円筒埴輪内に、各1個づつ土師器製のミニチュア壷が納められていたが、埴輪据付後あまり日を置かずに人為的に納められていたようで、県下では乙女山古墳・瓦塚1号墳・渋谷向山古墳に同例があるとのこと。
狐井塚古墳
大和高田市池田。5世紀後半~6世紀初頭の前方後円墳。23代顕宗天皇の皇后難波小野女王の「陵西おかにし陵墓参考地」に治定されている。全長109m、後円部径60m・高10m、前方部幅73m。後円部と前方部の高さが同じくらい。葺石と円筒埴輪が確認されており、盾形周濠痕跡がある。前方部北東外堤付近で長持形石棺の蓋石が出土、付近の川からも長持形石棺の蓋石や竪穴式石室の天井石が検出されたらしい。陵西陵墓参考地南西側のJR和歌山線北沿い等に、陪塚が点在する(狐井古墳側からい・ろ・は・に号、ほ号はJR南側)。
前方部遠景南望 北側西望 前方部南望 後円部南望
赤●が陪塚 陪塚い号 ろ号 は号 に号
*上の左図の黄色〇のところに、陪塚ほ号がある。
大和高田市築山。径50m・高さ6m・2段築成の円墳。磐園陵墓参考地の陪塚に治定されている。葺石・埴輪・周濠(6m)痕跡あり。埋葬施設・築造年代不明。
水色の〇 東望 南東望
*池田古墳群・領家山古墳(JR和歌山線南側) 行っていませんが情報のみ掲載します。
池田古墳群(上の左図ピンク〇周辺)。大和高田市池田。完全に削平され、公共施設が建つ。1990年代の調査で、領家山1号墳を除き完全に削平されていたが、調査区域で円墳1基・方墳9基・前方後円墳1基の計11基が見つかった。出土品としては円筒・朝顔・きぬがさ・盾・人物(盾持人・盛装男子・巫女)・鶏形・馬形埴輪、木製の笠形埴輪、須恵器が見つかった。埴輪は5世紀~6世紀のものとのこと。
領家山古墳 大和高田市池田の天照皇太神社境内。1955年領家山丘北側で小学生が鶏頭埴輪を見つけ、埋没古墳の可能性が指摘されたらしい。現在、天照皇太神社の鳥居脇に領家山古墳群の案内がある。1号墳は社殿奥で東西24m・南北20.5m・高さ2.5mの長方墳とのこと。2号墳は竹林の中、径9.5m・高さ1.5mの円墳で、北端にもう1基存在したと思われ、そこが鶏頭埴輪出土地らしいとのこと。
インキ(インキョ)山古墳
大和高田市築山。近鉄大阪線築山駅の南隣。6世紀中頃の前方後円墳で、全長50m、後円部径22~26m・2段築成らしいが、殆ど破壊され一部が残るだけらしい。周濠はあるが、葺石や埴輪列は施されていなかった模様。木棺直葬の可能性が高く、平成8年調査で後円部南東墳裾から円筒埴輪棺が1基発見されている。くびれ部テラスからは須恵器の坏を使った祭祀跡も見つかったとのこと。25~30年前までは登れたようだが、今は登り口が分からず案内のみ。たぶん東に隣接する保育園屋上に登れば見えるのでしょう。
案内 インキ山方面見返り 築山駅
狐井城山古墳
奈良県香芝市狐井・良福寺。近鉄大阪線の築山駅から北西方面2.4km程(五位堂駅の東870m)にあり、南群からかなり離れているが、一応南群を構成するとされている。5世紀末~6世紀初頭の前方後円墳。前方部を北方向に向け、墳長は約140m、香芝市では最大規模。後円部径約90m、前方部幅約110m。墳丘周濠は北側で約18m、周濠外側の外堤は幅約18m・高さ4.5m。墳丘表面では葺石・埴輪片(円筒・朝顔形埴輪)を検出。
西側北望 案内 前方部南東望 西側周濠南望