OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

観音塚古墳

2019年3月8日(金)訪問。大阪府羽曳野市はびきのし飛鳥。大谷古墳群や奉献塔山ほうけんとうやま古墳辺りからなら、南河内グリーンロードを1.5km程(左下図緑矢印)近鉄南大阪線上ノ太子駅からなら北東に600m程。大きな溜池の手前を左折し(道標がある)、池沿いに60~70m行くと、左手に急な階段があり、そこを登った所。

          道標            見上げ          見下ろし

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

飛鳥千塚古墳群B支群の一つ。7世紀の終末期古墳。葡萄畑として利用され、盛土の一部が失われていたため、墳丘の規模や形状は不明瞭だが、径12mの方墳か円墳とみられている。埋葬施設は、周辺で産出する石英安山岩の切石を組み合わせた横口式石槨で、石槨部前方に前室・羨道が付き、F支群の鉢伏山西峰古墳と類似する。石槨は明治以前から開口しており、副葬品は不明。

飛鳥千塚古墳群は以下を参照下さい。

飛鳥千塚古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

案内           石槨北東望        羨道西側壁        東側壁

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前室入口下部には、敷居状の石が置かれた後、柱状の石材を両側に立て、その上に梁石を架け渡しており、扉がはめ込まれていたようだ。前室側壁は、西側8石、東側7石の切石が、隙間なく組合わされている。

開口部          前室入口         西側壁          東側壁

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前室奥には、石槨部床面に高さを合わせた切石が、石槨部入口に密着して据えられている。石槨部は、長さ約1.9m・幅約0.9m・高さ約0.8mで、南小口に幅0.8m・高さ0.6mの横口を設け、扉をはめ込む段が造り出されている。石槨部は身と蓋の2石で構成され、天井石内側を、家形石棺の内側の形に整えている。こうした高度な石積み技術は、朝鮮半島百済系という見解があり、石槨部構築には高麗尺が用いられたという説もある。

前室奥下部        上部           石槨南小口        石槨内

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オウコ古墳群

残念ながら、訪問当日は、葡萄畑のビニールハウスの設置作業中(下図黄〇)で、登ることができなかったので、情報だけ記載します。(古墳群は左下図白◇枠辺り)

位置関係                       観音塚からオウコ古墳群方面

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羽曳野市飛鳥。寺山から南西に伸びる尾根の頂上辺りに、13基の小規模な古墳が群集しており、精巧に加工された石材による横口式石槨を持つオウコ8号墳がこの中にある。約20mの方墳か円墳と考えられるらしい。石槨部の前には羨道・前室が付き、石材の隙間には漆喰が残る。羨道入口の両側壁の前面は、約60度で斜めに加工されており、築造当初には墳丘斜面に沿って露出していたのではないかと考えられている。石槨内から若干の土器が見つかり、その特徴から7世紀中頃の築造と推定される。石槨部分は奥・底共各一石、側壁・天井各二石、計八石の切石を組合わせ、長さ1.9m・幅0.76m・高さ0.6m。石槨入口の天井石に彫られた横方向の浅い溝は扉をはめ込むためのものと思える。

詳しくは、羽曳野市HPの以下を参照下さい。

オウコ8号墳/羽曳野市

飛鳥千塚古墳群

2019年3月8日(金)訪問。飛鳥千塚古墳群は大阪府羽曳野市はびきのし駒ケ谷こまがたに~飛鳥=鉢伏山はちぶせやまの西麓から南麓。北側の玉手山古墳群から、駒ヶ谷古墳群(大半消滅)と続き、その東側辺りに位置する。6世紀~7世紀にかけて造営された渡来系氏族の墓域と考えられている。葡萄畑の開墾等でかなり削平され、今では130 基ほどしか残っていない。7つの支群グループに分けられ、大半は径約10m・高さ5m程の円墳で、横穴式石室内には木棺や家形石棺が納められていた。周辺は葡萄畑が一面に広がる。

                       右下図の白く見えるのが、葡萄畑のビニールハウス。

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                       黄色は奉献塔山古墳(下記参照)

大阪府地図情報提供システムは以下を参照下さい。(文化財地図→埋蔵文化財)

https://www11.cals.pref.osaka.jp/ajaxspatial/ajax/

 

大谷古墳群

飛鳥千塚古墳群F支群に属する。羽曳野市駒ケ谷850辺りのスポーツ公園の西に隣接する。公園造成工事前の調査で6基の古墳が発見されたが、墳丘封土は大半流出し、石室も半壊していた。埋葬施設はすべて南に開口する横穴式石室。遺存状態の良かった2・3・6号墳を保存している(3・6号墳は移築保存され、当初の配置とは異なる)。

公園進入口                     現在配置案内       当初の配置模型

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

2号墳

案内には径24mの円墳とある。副葬品としてミニチュア炊飯器セット・石棺の破片・木棺に使用された鉄釘も見つかっている。初葬は木棺で埋葬され、最終的に石棺で埋葬されたのではないかと言われる。

全景                        奥壁           案内

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3号墳

径13mの円墳とされ、現在は2号墳の北側に移築復元されているが、当初は東側にあったようだ。

6号墳

10m程の方墳か円墳。2号墳と3号墳の間にあったもの。現在は2号墳北側に移築復元されている。

3号墳                       6号墳

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*三つ塚古墳群

大谷古墳群とグラウンドを挟んで東側。グランドの南東角の東側辺りに、3基の古墳が南北に並んでいたらしい。石室の羨道側天井部が崩落しており、そこから石室内部が見れたそうだが、確認できていません。

切戸1号墳

羽曳野市駒ヶ谷の鉢伏山の西中腹、霊園の中にある。大谷古墳群への進入口から、直線距離で330m、経路距離でも380mだが、かなりキツい坂なのでご注意下さい。霊園入口から左上に登った所。

大谷古墳群から遠望    霊園入口         大谷古墳群見下ろし    位置

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飛鳥千塚F11号墳。古墳時代後期、径12mの円墳。右片袖型横穴式石室で、木棺2体分と陶棺出土。遺物は鉄釘・須恵器・土師器・耳環・金箔・馬具等鉄製品。2号墳(飛鳥千塚F12号墳=消滅)とともに切戸古墳群と呼ばれる。墳丘は半壊し、石室天井石は1枚残るだけ。石室の全長は7m程で、玄室の長さは3.5m前後、幅は1.8m前後。大阪府地図情報提供システム位置と霊園の状況からして、少し北側に移築されているのかも・・・?

遠景北東望                                  奥壁

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西側壁          東側壁          俯瞰南西望 

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鉢伏山西峰古墳

飛鳥千塚F4号墳。切戸1号墳のある霊園の南側の霊園西脇にある。7世紀中頃の方墳。鉢伏山の西側丘陵で、標高135m程にある。1994年(H6)発掘調査実施。調査前から横口式石槨が開口していたとのこと。墳丘は石英安山岩の岩盤を整形後に盛土し、墳丘東側辺約12m、西側辺20mの台形状である。墳丘背後には墳丘と地山の尾根を区画する溝が掘られていた。墳丘前面には地山の整形や盛土でテラス状の平坦面が設けられていた。墳丘外表の貼石や外護列石は当初は無かったらしい。 

             標識西望         全景北西望        案内

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西面東望         北東望          南東望          東面から南西望 

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主体部は横口式石槨で、西方向に開口し、石槨部前方に前室・羨道が付く。羨道はかなり破壊されており、南側壁面の石材が3個だけ残っているが、原位置を留めるのは1石のみ。羨道部幅は1.2mと推定される。羨道床面には石英安山岩の割石を両側に並べ、小礫を充填し、扁平な石で蓋をした排水溝があったとのこと。前室入口には、石英安山岩の切石材が設置され、床面より一段高い。前室は両側壁上部と天井石は欠損していたが、長さ2.4m・幅1.2m。南側壁の石材はL字状に加工されているものもある。前室床面には二上山産の凝灰岩切石が敷きつめられていた。切石はブロック状だが、大きさは一定しておらず、一辺が30cm~50cm前後で、厚さ約15cm程。棺が安置された石槨部は、内法長約2.7m・幅約0.8m・高さ0.7m、石英安山岩の基盤層の岩盤を刳り抜いて整形し、石槨部の奥壁・両側壁や床面を造り出しており、石槨部と基盤層は繋がっている。天井部分のみ別の切石材を用いている。石槨部には漆喰の痕跡も残る。

石槨東望      前室北側壁     南側壁        石槨

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奉献塔山ほうけんとうやま古墳

大谷古墳群から南東(直線距離で350m程)、葡萄畑のビニールハウスに囲まれた古墳。近接した2基の間に宝篋印塔が建っている。2基とも横穴式石室の径約10m~20mの円墳。石室の大半は破壊されていたが、1950年(S25)に発掘調査が実施され、凝灰岩製の石棺破片・須恵器や土師器の他、青銅製の椀や馬具・刀装具・飾履等の破片・炊飯具のミニチュアの土器が出土。6世紀末頃の築造と推定されるらしい。

 

奉献塔山古墳から、南河内グリーンロードを1.5km程南東に行くと観音塚古墳がある。

観音塚古墳 - OSAKA-TOM’s diary

玉手山古墳群

2019年3月8日(金)訪問。近鉄大阪線河内国分駅の西側約400m、大阪府柏原かしわら市片山町にある1号墳を北端として、南の10号墳まで、ほぼ直線的に並ぶ。築造順の通説は「9→3→6→2→1→5→4→8→7→10号墳」とのこと。ただし、4・5・6・10号墳は消滅。1・2・3・7・8・9号墳が残るが、8・9号墳辺りは立ち入れないので、見れるのは1・2・3・7号墳と言う事になる。
なお、7号墳の北西150m程麓に、安福寺横穴群があり、併せて見学できる。

詳細は柏原市の以下のサイトを参照下さい。

1.玉手山古墳群 | 大阪府柏原市

 

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玉手山1号墳(小松山古墳)

柏原市片山町。上図①。全長110mの前方後円墳。後円部径58m・高さ10m、前方部平坦面は北向きバチ形で最大幅20m・高さ2m。後円部4段もしくは3段築成。後円部墳頂に板石を積み上げた方形壇があり、その中心に竪穴式石室の存在が推定される(私有地で調査未了)。後円部墳丘基底部に接して、楕円筒埴輪を2本縦につないだ埴輪棺が1基発掘された。前方部でも粘土郭1基が確認された。くびれ部では葺石とテラスに立つ埴輪列が確認され、テラス面に白色の円礫が敷かれていたらしい。墳形がメスリ山古墳(桜井市、4世紀初頭)に似ており、築造時期も4世紀代と思われる。墳頂に大坂夏の陣で亡くなった奥田三郎右衛門忠次の墓がある。

河内国分駅西口東望        古墳群方面東望           道標

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

1号墳方面                               駅方面見返り

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後円部北東望       案内                        登り口

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前方部北望        2段目テラス        後円部墳頂        墓碑

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2号墳

柏原市片山町。上図②。全長80m前後の前方後円墳。全面が墓地として利用され調査されていない。板石が散布し竪穴式石室の可能性がある。地元住民の話で刳抜式の石棺が存在したと判明したとのこと。

1号墳からの遠景南西望  南望           2号墳西脇古戦場跡碑    1号墳遠景北東望

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3号墳(勝負山かちまけやま古墳)

柏原市旭ケ丘1丁目。上図③。市立老人福祉センターの南側に隣接する。前方部を西南西に向けるが、南側はかなり削平されている。元は墳丘長100~110m程の前方後円墳。後円部墳頂平坦面に竪穴式石室を確認。管玉4点・紡垂車形石製品2点・銅鏃13点・鉄剣または鉄槍1点以上・鉄刀1点以上・鉄鏃14点以上・小札80点以上・ヤリガンナ3点以上・鑿2点以上が出土し、3世紀末頃に位置づけられるとのこと。安福寺境内所蔵の割竹形石棺(蓋部分)は3号墳出土と伝えられる。

センター玄関裏登り口   案内           後円部墳頂        前方部西端東望

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*古墳案内の内容はやや古い場合があり、設置後新たな発掘調査で、内容が更新されている場合があります。

7号墳(後山古墳)

柏原市玉手町。上図⑦。後円部が玉手山公園内、前方部が安福寺境内。玉手山公園の東入口から上がる。前方部を西北西に向けた110mの前方後円墳(かっては150mとされていた)。3段築成。後円部と前方部各段のテラスが、くびれ部でスロープ状につながっていることが確認された。墳丘大部分は地山を整形し、後円部墳頂にのみ1m程度の盛土があった。墳形は行燈山古墳(天理市崇神陵、4世紀前半)に似ている。墳丘表面では葺石・埴輪(円筒・朝顔形・家形埴輪)が認められた。埋葬施設は後円部墳頂で2基(第1主体・第2主体)。後円部中央の第1主体は、南北7m・東西6~6.5mの大型の墓壙があり、一説に石棺直葬と推定される。第2主体は第1主体の南西への追葬で、大型粘土槨が完存するが、未調査のため不詳とのこと。埴輪のほか、滑石製盒子・滑石製小型丸底壺・土師器直口壺が出土。4世紀中頃の築造とされる。

公園東口      公園案内       後円部墳頂     案内         前方部方面

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以下、情報のみ。

8号墳(東山古墳)

柏原市旭ケ丘2丁目。上図⑧。7号から200m程南の玉手山丘陵最高所。貯水タンクの西に隣接。前方部北向き。墳丘長80m、後円部径40m・高さ4m、前方部最大幅30m。墳丘東西斜面が地滑で損傷。竪穴式石室が盗掘を受けたもという。

9号墳(クサダ谷古墳)

柏原市旭ケ丘2丁目。上図⑨。前方部を南に向けた全長65m程の前方後円墳。後円部径約33m・高さ5.7m、前方部最大幅は約17m、高さ2.6mで、いわゆる柄鏡形。後円部3段、前方部2段築成。各段の間には幅の狭いテラスが巡っていたらしい。葺石はくびれ部で良好に残り、墳丘全面を石川の河原石で覆っていた。墳丘は大半が地山整形で、後円部墳頂は1mだけ盛土。くびれ部テラス面に円筒埴輪が並び、その間には木の柱(木製蓋きぬがさや盾)を立てた跡があり、くびれ部の一画は祭祀の場と思われるとのこと。後円部に竪穴式石室があり、1982年に調査。竪穴式石室は安山岩の板石を積み上げ、割竹形木棺が置かれていた模様。鉄剣・勾玉2点・琴柱形ことじがた石製品2点等が出土。

以下、消滅したもの。

4号墳(消滅)

50m程の前方後円墳と推定されるが開発により消滅。消滅前1960年に調査され、粘土槨を検出。墓坑平面は隅丸方形で長さ6m・幅約3m。墓坑底には礫を敷き、その一部に板石を敷き粘土槨が設置されていた。木棺は長さ約5m・幅は北端0.75~0.9m。北側(頭部)棺床に朱が塗られていた。棺内から硬玉製勾玉・碧玉製管玉・紡錘車。粘土槨から鉄鏃・銅鏃・鉄刀・鉄剣・斧等の鉄製品が出土。また粘土槨北東部上面から直弧文を配した漆塗りの盾や鉄鏃・銅鏃等が出土したらしい。

5号墳(鏡割古墳 消滅)

75m程の前方後円墳。開発に伴う緊急調査で、後円部中央で竪穴式石室(先行)、1m西側に粘土槨(後行)、前方部の北側と南側で粘土槨が確認された。後円部石室は長さ約5m・幅約1m程で、墓坑底は石室構築部分のみを基台状に堀り残し、その周囲に礫を詰め、基台上にも薄く礫を敷き、更に板石を二重に敷いている。その上に粘土棺床を設置し、粘土床側面にも板石を張付けた上で、粘土棺床上面にまた礫を敷き、その上に石室の壁体を積上げるという入念な構造。盗掘にあっているが、碧玉製管玉・鍬形石・巴型銅器・鉄鏃・鉄斧・銅鏃等が出土。西側粘土槨は大半破壊されていたが、粘土槨に湾曲の朱層があり、割竹形木棺と推測され、斧・ヤリガンナ・鎌等の鉄製工具類が出土。前方部の北側粘土槨(先行、長さ5m)からは、碧玉製と緑色凝灰岩製の紡錘車各1点・鉄刀・鉄剣・鉄製工具類等出土。南側粘土槨からは石釧・ヤリガンナが出土。

6号墳(すべり台古墳 消滅)

69mの前方後円墳。1960年に調査され、後円部の中央と東側で竪穴式石室を検出。中央石室の棺内から画文帯神獣鏡2面・石釧・硬玉製管玉・碧玉製管玉・ガラス小玉、棺外(粘土棺床と石室壁体との間)から鉄刀・鉄剣・刀子・鉄鏃・銅鏃・鉄斧・革綴冑小札等が出土。東側石室からは内行花文鏡・硬玉製勾玉・碧玉製勾玉・鉄刀・刀子・大形板状鉄斧・鉄斧・錐・ヤリガンナ・鉄鏃・タガネ等出土。東側の石室は7号後円部南側に復元されている。(なお、その横に6世紀の横穴式石室に納められていた組合せ式家形石棺が移築復元されているが、どこのものか案内には書かれていない。)

6号移築復元石室                   案内           家形石棺

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10号墳(北玉山古墳 消滅)

全長48.5mの前方後円墳。後円部径33m、前方部幅19.5mで、前方部が短い。後円部3段、前方部2段築成。1952年石室を調査。1966年に前方部粘土郭が調査された。捩文ねじりもん鏡1面・鉄剣1本・鉄製品3点等出土。後円部石室内法は長さ5.5m・高さ1.1m。硬玉製勾玉・滑石製勾玉・碧玉製管玉・土師器小型丸底壷・皮革製品・鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄鏃・銅鏃・刀子・鎌・鍬・斧等が出土。西名阪道建設で破壊。

*11号墳(消滅)

柏原市HPでは、西名阪道建設で破壊された10号墳までを玉手山古墳群としているが、その10号墳から南東250m程、現柏原市南端(円明町1000-29~30)にあった。大阪府(埋蔵物)地図情報システムには玉手山11号墳とされており、住所が柏原市なので、一応ここで紹介しておく。

 

安福寺横穴群は以下を参照下さい。

高井田横穴群 - OSAKA-TOM’s diary

 

藤ノ木古墳周辺

藤ノ木古墳・斑鳩大塚古墳、2017年9月25日(月)訪問。戸垣山古墳・甲塚古墳・春日古墳・仏塚古墳・瓦塚古墳群・駒塚古墳・調子丸古墳、2022年3月11日(金)訪問。

2017年9月当時の散策ルート

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斑鳩大塚古墳

2017年9月25日(月)訪問、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺南1丁目14周辺。5世紀前半頃の築造で斑鳩町では最古級。忠霊塔の建設関連で、1953年(S28)発掘調査し、銅鏡・石釧(いしくしろ=石製腕輪)・筒形銅器(通説では、杖や槍・⽭等の柄尻に取付けられた)・甲冑片・武器等多数の副葬品が出土した。当初、径35m程度の円墳と考えられてきたが、2015年前方後円墳または帆立貝型古墳だった可能性を示す前方部が見つかり、従来の想定より規模も大きかったらしい。

遠景北望              忠霊塔西望

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*写真は2017年。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意ください。

藤ノ木古墳

2017年9月25日(月)訪問。斑鳩町法隆寺西2丁目1。法隆寺西院伽藍の西350mに位置。6世紀後半築造の円墳。

遠景北西望     案内         南側南西望     石室開口部     2022年

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

径約50m・高さ9m。従前、大和での埴輪設置は6世紀前半が最後とされていたが、墳裾に円筒埴輪が並べられており従来説を訂正する契機となった。稀に見る未盗掘の両袖型横穴式石室で、全長14m弱、羨道長約8.3m・幅約1.8〜2.1m。玄室長は西壁側約6m・東壁側約5.7m、幅約2.4〜2.7m・高さ約4.2〜4.4m、玄室床に礫が敷かれ、その下を排水溝が玄室中央から羨道を通って墳裾へ敷かれていた。玄室奥に二上山白色凝灰岩製の刳抜式家形石棺が安置され、成人男性2体が合葬されていた(北側は17~25才、やや横向き)。石棺内外は、水銀朱(赤色顔料)が塗られていた。約2.35×1.3×0.97m、蓋は約2.3×1.3m×厚さ0.52~0.55mで縄掛突起が付く。棺は幅・高さ共に西側より東側の方がやや大きく台形状。副葬品は金銅製馬具や装身具類・刀剣類等で、被葬者は当時の支配階級と考えられるが、円墳であるため、大王級ではない皇族と推測されている。『紀』にある587年6月蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子(あなほべ=31代用明天皇皇子)と宅部皇子(やかべ=28代宣化天皇皇子)説や、「元々穴穂部皇子の陵墓であった所に同母弟崇峻天皇が合葬された」との説等がある。また、南側被葬者は女性説(磐隈皇女)や茨城うまらぎ皇子説もある。
(石棺外出土)金銅鞍金具1、鉄地金銅張鞍金具残欠、金属製品(馬具類・挂甲小札・刀身・鉄鏃・鉄製模造品等)・土師器3・須恵器46。
(石棺内出土)獣帯鏡1・画文帯神獣鏡2・神獣鏡1・金属製品(金銅冠・金銅飾履2足分)、金銅製・銀製装飾品類・刀剣類・ガラス製品。

古墳の南側200m程に斑鳩町文化財活用センター(斑鳩町法隆寺西1-11-14)がある。副葬品レプリカ展示や、発掘当時のスライドが見学できる。

レプリカ石棺屋外展示       案内

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展示例                                    スライド一例

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2022年3月11日(金)戸垣山古墳・甲塚古墳・春日古墳・仏塚古墳・瓦塚古墳群・駒塚古墳・調子丸古墳。

戸垣山古墳

下図①。生駒郡斑鳩町龍田南2丁目。奈良県遺跡地図の07D-0044。数基あったらしいが他は消滅。住宅に隣接し、道路側の墳裾はブロック擁護壁があり、うっかりすると通り過ぎそう。墳丘には登れるが、当日は墳頂の埋葬施設発掘調査のため立入禁止。東西約20m・南北約21m・東側高さ3.6m・西側3.1mの方墳とのこと。2011年調査で埴輪片が出土。周辺田畑でも土師器片・須恵器片等も検出され、他地域の方墳との比較で、5世紀代とされている。

           西望        南望        南東望       東望

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甲塚古墳

下図②。斑鳩町龍田北1丁目11。奈良県遺跡地図の07D-0141、藤ノ木古墳の西南西175m。2016年調査で、最大径約30mの円墳の可能性があるとのこと。竪穴式の施設(南北3m以上・東西0.7m以上)で、5世紀代の銅鏡(径6cm)が出土し、水銀朱の付着や、鏡周辺で赤色顔料が確認されたとのこと。5世紀~6世紀中頃築造とも推測され、斑鳩周辺の藤ノ木古墳築造前段階の状況を示すとも・・・。

           遠景西望      近景西望      南東望      藤ノ木古墳遠景東望

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春日古墳

下図③。斑鳩町法隆寺西1丁目6。奈良県遺跡地図の07D-0029、藤ノ木古墳の北東150m。墳丘の南裾に春日明神の小さな祠があり、古墳名由来と思われる。現状径約22m・高さ約6mだが、元々30m程の円墳とも。葺石・埴輪は認められず、埋葬施設は不明だが横穴式石室で、古墳時代後期~終末期築造の可能性があるとのこと。古墳としては殆ど知られていないだろう。

          進入路の案内     遠景東望      祠         藤ノ木古墳南西望

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仏塚古墳

下図④。斑鳩町大字法隆寺。奈良県遺跡地図の07D-0089。田圃の中にポツンとある。現状は南北16m・東西18m・高さ4mだが、元は辺23mの方墳らしい。やや南西方向に両袖型横穴式石室が開口する。現状石室長9.4m、羨道長5.5m・幅1.4~1.8m、玄室長3.9m・幅1.9~2.2m・高さ2.7mとのこと。大半は小型石材を積んでいる。亀甲型の陶棺片が2~3棺分検出され、馬具・金環・刀子・土師器・須恵器(坏蓋・高坏・壷・器台)等が出土。中世には仏堂として再利用されていたようで、6世紀末頃築造と推定される。

          遠景北望      北東望        近景北西望      開口部

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*↑経路写真はGoogleマップーストリートビューの画像を編集加工しています。

玄室        玄門部と側壁               西面南望       墳頂から南望

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瓦塚古墳群

下図⑤。斑鳩町大字三井。3基の古墳群。瓦塚2号墳後円部の西側斜面に「三井瓦窯跡」があり瓦塚と呼ばれていた。

1号墳 奈良県遺跡地図の07D-0053。1975年調査の結果、復元全長97m、後円部径60m・高さ8m、前方部幅47m・高さ2mと判明したらしい。墳丘西側は道路で削られている。2段築成で上下2段に円筒・壷形・朝顔形埴輪列が巡っていたそうで、遺物の魚形土製品片等から、5世紀前半築造と推定され、埋葬施設は竪穴式石室か粘土槨と考えられるとのこと。一応墳丘に登っては見たが、墳形は殆ど確認できない。

2号墳 奈良県遺跡地図の07D-0054。1976年の測量調査で、復元全長95m、後円部径60m、前方部幅45mで1号墳と同じ規格らしい。出土した円筒埴輪は1号墳と酷似し、同時期築造と思われる。三井瓦窯跡が後円部の西側斜面に遺存する。後円部を除き墳形は殆ど確認できない。
3号墳 奈良県遺跡地図の07D-0094。径40mの円墳。現在墳形は殆ど確認できず、場所も特定できない。

          遠景東望       窯跡案内      窯跡 

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2号墳後円部西側   見下ろし       3号墳辺り?              1号墳西側北望

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駒塚古墳

下図⑥。斑鳩町東福寺1丁目4。奈良県遺跡地図の07D-0074。現状全長49m以上、後円部径34m・高さ5.5m、 前方部幅18m以上・高さ約2m、前方部を南に向ける。各2段築成。葺石と埴輪はあったが周濠は確認されていない。埴輪の出土量が少ないため、墳頂の一部のみ等と考えられるらしい。聖徳太子の愛馬「黒駒」を葬ったとする伝承が名称由来かも。ただ、出土土器等から4世紀後半頃と推定される。

          遠景東望      前方部北望      後円部方面北望   前方部南端西望

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調子丸古墳

下図⑦。斑鳩町東福寺1丁目5。奈良県遺跡地図の07D-0075。駒塚古墳の南約100m、田圃の畦道を通って行ける。太子の馬丁であった調子丸の墓との伝承が名称由来。聖徳太子のいた6世紀初頭と、築造年代にはかなり差がある。

          遠景南東望      東望         北東望       駒塚遠景北望

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達磨寺古墳群

2022年3月11日(金)訪問。達磨寺古墳群。

奈良県北葛城郡王寺町本町2丁目1。『日本書紀推古天皇即位21年条の聖徳太子「飢人伝説」と結びついた片岡山と号する臨済宗南禅寺派の「達磨寺」と古墳。本堂下にある3号墳、本堂の北東の小規模な1・2号墳との3基。

推古即位21年12月、皇太子(=聖徳太子)は片岡(かたおか=現北葛城郡香芝町今泉)に行った時、飢えた人が道に伏せていた。皇太子は飲食物を与え、衣裳(みけし=衣服)を彼に与えた。翌日、彼を見に行かせると、「既に亡くなっていた」とのことで、そこに葬らせた。数日後、皇太子は「この前倒れていた人は、真人(=聖者)だろう」と言い、改めて見に行かせると、「墓の屍骨は既に空で、衣服を畳んで上に置いてあった」という。皇太子は、その衣服を持ち帰らせ以前の様に着た。

後世の太子伝説の中で、その真人(=聖者)が達摩大師とされ、3号墳はその墓ということで鎌倉時代初めに堂が建てられたという。1・2号墳は本堂の北東脇にある。1号墳は本来径15m・高さ4m以上の円墳で、東に開口する全長約6mの両袖型横穴式石室があり、入室可能。 

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達磨寺本堂遠景            案内            本堂近景        埋納石塔

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右=1号墳 左=2号墳                2号墳北東望       南東望  

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1号墳石室

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奥壁下部の石棺石材    左袖部          右袖部          楣石

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古墳以外に、本堂裏から西側→南側にかけて10カ所のスポットが博物館の展示のように置かれている。(巻頭図参照)

スポット例 ④九重達摩塔              ⑦松永久秀

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平野塚穴山古墳

2022年3月11日(金)奈良県香芝市平野。西名阪道路の香芝ICの北側。

「平野塚穴山古墳史跡公園」として整備されてから改めて訪問。

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平野古墳群の西端で、下段は一辺25m程・高さ約2.7m、上段は一辺約18m・高さ約3m。墳丘は粘質土・砂質土を交互に突き固める版築で造られ、墳丘表面には二上山凝灰岩の貼石を設置していた。

北西望                       北東望          西側墳裾南望

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

案内

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主体部の埋葬施設は全長4.47mの横口式石槨で、南方向に開口する。玄室の長さ3.5m・幅1.5m・高さ1.75mで玄室の前に羨道を付ける横穴式石室の名残をとどめた石槨で、石槨内には夾紵棺・漆塗籠棺かごかんが納められていた。石槨内は盗掘にあっていたが、副葬品として金環・中空玉・銅椀片等が見つかった。古墳時代終末期=7世紀後半~末頃の築造と推定される。横口式石槨としては初現期の凝灰岩製の組合式で、終末期古墳への転機・先駆として重要視される。
夾紵棺=夾紵(きょうちょ=麻布)を漆で貼り重ねる技法で作られた最高級の棺。牽牛子塚古墳(けんごしづか高市郡明日香村、真の37代斉明天皇陵説あり)、越塚御門古墳(こしづかごもん=明日香村、真の大田皇女陵説あり・38代天智天皇皇女で、斉明天皇の孫、40代天武天皇の妃)、野口王墓(明日香村、40代天武天皇・41代持統天皇合葬陵)や彩色壁画で著名な高松塚古墳等で見つかっている。

開口部               石槨全景 

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床面           天井部          側壁

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被葬者は明らかでないが、古墳の様相が王族級であるため、茅渟王(ちぬのおおきみ=35代皇極・36代孝徳天皇の父)とする説がある。

馬見古墳群

馬見うまみ古墳群は、奈良県北葛城郡の河合町・広陵町香芝市大和高田市に広がる馬見丘陵周辺に造営された250基以上の古墳群。佐紀盾列古墳群と大和・柳本古墳群と併せ「大和3大古墳群」とも呼ばれる。4世紀末~6世紀に造営されたと見られ、葛城氏系の墓域との説もある。北群・中央群・南群の3群に分けられる。

奈良盆地南部・西南部の水を集めた曽我川(支流に葛城川・高田川)は、河合町北部で大和川に合流する。合流地点の西側南北7km、東西3kmの低い丘陵が馬見丘陵。その丘陵東縁に沿って築かれたのが馬見古墳群。奈良盆地西南部の勢力が築いたとみられている。墳長約200mの大型前方後円墳4基を含め前方後円墳22基・帆立貝形前方後円墳6基・前方後方墳2基・大型円墳3基等がある。大まかには、南群―中央群―北群の順序で築かれ、古墳時代前期後半から中期末まで約150年間も続く。この間に世界遺産の百舌鳥・古市古墳群が登場する。馬見古墳群を築いた勢力もこの動向と無関係ではないはず。馬見古墳群中央群に乙女山古墳等帆立貝形前方後円墳があるが、堺市百舌鳥古墳群の大山古墳(仁徳陵)周囲にある十数基の陪塚のうち半分位が帆立貝形。同じ頃、百舌鳥古墳群の周辺部にあたる泉南地域にも帆立貝形が造られている。主墳となる前方後円墳の被葬者に従属する人物の墳墓としての意味合いがあると考えられている。馬見古墳群の主な古墳築造順は、古墳時代前期(4世紀中頃に)新山→佐味宝塚→(4世紀後半に)築山→島の山→巣山→(5隻異前半に)新木山→大塚山→(5世紀末)狐井塚古墳が築かれたとされる。

北群

2017年11月2日(木)訪問。北群・中央群・南群の3群では、一番遅く造営された。

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①(川合)大塚山古墳

奈良県北葛城郡河合町川合。5世紀中頃~後半築造の前方後円墳で、墳丘長197m(または215m)、後円部径108m(118m)・高さ約16m、前方部幅110m(123m)・高さ16~17m、各3段築成である。周濠跡は現在水田になっているが、盾形の周濠跡がはっきり分かる。周濠幅は後円部北側で35m・南側で39m、くびれ部で49m。周濠外提幅20m。前方後円墳・方墳・円墳等8基からなる大塚山古墳群の主墳とされる。葺石・円筒埴輪列が確認され、円筒・朝顔形埴輪、家形埴輪の円柱部分に小型の盾を付けたものや盾形・蓋形埴輪とともに、須恵器質の土師器等が確認されている。埋葬施設は竪穴式石室で、長持形石棺と推測されている。

後円部南望        西望           東側周濠跡南望      くびれ部東側案内

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

前方部西望        正面北望         西側周濠跡北望      後円部西側案内

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②九僧塚くそうつか古墳

大塚山古墳くびれ部の西方=県道5号線を挟んだ西脇。一辺33m・高さ3mの2段築成の方墳。大塚山古墳の陪塚で大塚山古墳副葬品の埋納施設とされる。大塚山古墳とほぼ同時期の築造とのこと。

大塚山東側周濠跡南望       大塚山くびれ部側から       県道から

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*写真は2017年11月。季節や経過年数により周辺の様子や目印が変わることが多いので注意ください。

③高山塚1号墳=中良塚なからづか、高山塚2・3・4号墳

河合町西穴闇にしなぐら

高山塚1号墳は5世紀後半~6世紀初頭の前方後円墳。全長88m、後円部径45m・高さ6.5m、前方部幅50m・高さ6.5m、各2段築成。

位置関係      全景北望       案内        後円部西望     北西望

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高山塚2号墳は、1号墳の少し西側。元は35m程の円墳。高山塚3号墳は、2号墳から道を挟んだ南側の保育所に隣接。元は25m程の円墳。高山塚4号墳は、3号墳の西側80~100mで、元は20m程の円墳(民家の塀で囲われ見えない)。いずれも5世紀後半築造とのこと。

2号墳東望        案内           3号墳南西望        北東望 

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④丸山古墳

河合町川合。5世紀後半、径48mの2段築成の大型円墳(または帆立貝形古墳)。周濠もあった様で、総長は60m程。 

遠景北望             近景西望              南望

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⑤城山古墳

河合町川合。5世紀末~6世紀初頭の前方後円墳。全長109m、後円部径60m・高さ10m、前方部幅73m・高さ10m、各3段築成。周濠の幅は後円部側で18m、前方部側で20mで外提があり、円筒埴輪・土師器・瓦器が出土。中世には河合城として利用され、名称の由来となっている。

前方部北望        西望           後円部南西望       後円部北端西望 

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⑥島の山古墳

川西町大字唐院。別名島根山古墳。4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳。墳丘長195m、盾型周濠を含めた総長265m・幅175m。周辺の古墳とともに三宅古墳群を構成する。 東西くびれ部には造出しがあり、墳丘からは葺石と埴輪列(朝顔形円筒・家形・盾型・靫形埴輪等)が検出された。2005年(H17)の調査で、西側くびれ部から、祭祀用と考えられる植物製籠も出土。位置的には、河川が合流する交通要所にあり、大塚山古墳群と共通しており、両者の墳形規格が同じ点から、大塚山古墳との関連性が指摘される。出土した鍬形石は、江戸時代の学者=木内石亭著の「雲根志」に、『神代石』という名で記されているらしい。

後円部中心には竪穴式石室があったようで、兵庫県の竜山石製の石室天井石が確認されている。1996年調査で前方部墳頂から粘土槨も検出。粘土槨は東西10.5m・南北3.4mの墓坑内にあり、全長8.5m・幅1.7~2m。副葬品の多くは盗掘を受けているが、粘土槨表面に貼り付けるように滑石製勾玉・臼玉・管玉・琴柱型石製品等2500点が検出されている。棺上の粘土層内からは車輪石80・鍬形石21・石釧32・鉄小刀5も見つかり、更にその上を厚さ10cmの粘土層で封じ込めていたらしい。棺内には碧玉製合子3・獣形銅鏡3・大型管玉5・首飾り1・竪櫛11等があった。副葬品から被葬者は女性の可能性があるとのこと。また、墳頂のくびれ部から前方部にかけて大型の粘土槨があることも確認された。

後円部北東望       西側周濠北望       案内           後円部東望

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前方部南東望       東望           北東望          正面北望

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中央群

2017年11月2日(木)訪問。

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河合町佐味田馬見丘陵公園内に乙女山古墳・ナガレ山古墳等数基が整備保存されている。一般の方には花壇公園として親しまれている。

公園案内         花壇

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⑦乙女山古墳

河合町佐味田馬見丘陵公園内。5世紀前半の帆立貝形前方後円墳。全長約130m、後円部径約104m・高さ約14.7m、前方部長約30m・幅約52m・高さ約3.5m。前方部を南東に向ける。後円部は3段築成で、1・2段目は低く緩やかで、3段目は急斜面で椀を伏せた様な形。後円部西側に長さ11m・幅約23mの造出しが付く。周濠は前方部側が幅広く、後円部側が狭い。 葺石は各段斜面に敷かれており、後円部の埋葬施設は粘土槨と考えられるらしい。 刀子(とうす=ナイフ)・勾玉・臼玉うすだま等の滑石製模造品が出土。 造出し部では2段目の斜面に葺石が認められ、外側に礫を敷いた円筒埴輪列、その内側から家形埴輪2・楕円形円筒埴輪2が検出された。残念ながら竹藪に覆われ、墳丘は良く分からない。

後円部遠景東望      道標           案内           前方部

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一本松古墳・倉塚古墳

女山古墳から池を挟んだ南側に一本松古墳(全長130mの前方後円墳)・倉塚古墳(全長180mの前方後円墳)がある。

道標           一本松西望        東望           案内 

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一本松墳頂        墳頂~北東望       倉塚           案内

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⑧ナガレ山古墳

5世紀前半の前方後円墳。全長105m、後円部径64m・高8.5m、前方部幅70m・高6.2m。前方部を南に向ける。破壊された部分に土を入れ、墳丘全体に盛土を施し復元しているとのこと。墳裾と中段に埴輪列も復元。墳頂部と西側埴輪列は植栽で埴輪列を表現している。

公園案内         前方部西望        くびれ部北西望      後円部北望

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東側送葬通路       案内           復元埴輪         西側見下ろし

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東側景色案内            北東方面実写           東方面実写

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南側景色案内       南東方面実写       南方面実写       佐味田石塚古墳案内

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*ナガレ山古墳の北側100m程に(ナガレ山古墳と公園館の中間)に佐味田石塚古墳の石室が移築保存されている。2017年訪問時、石室は笹で覆われていた。

2022年再訪時は綺麗になっていた。

案内正面         1号墳移築復元石室    2号墳

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⑨巣山古墳

巣山古墳(広陵町大字三吉元斉音寺)へは、公園南側の道路に架かる陸橋を越える。東側陸橋下の休憩所には北今市きたいまいち1・2号墳の石棺(復元?)と案内が置かれている。

公園案内         東側陸橋から西望     案内           巣山遠景南望

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巣山古墳の外提北側に古墳状の高まりがあり、円筒埴輪列と円筒棺が見つかっている。

位置                案内

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巣山古墳は、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳。全長204m、後円部径110m・高25m、前方部幅94m・高21m。各3段築成で前方部を北東に向ける。全国規模23位で、古墳系では全国に9例しかない「国の特別史跡」である。

墳丘は上に行くほど急斜面で、斜面に安山岩系礫石や割石が葺かれるらしい。くびれ部両方に方形の造出しが付く。楯形周濠の幅は後円部側で33m、前方部側で37m、くびれ部造出し周辺で57m。周濠外堤は最大幅が27m、南の一部・東側・北側の一部に築堤を行い、特に東面と北東周辺が高く、幅広い築堤となっている。後円部の頂上部が明治年間に盗掘を受けたが、多くの遺物が出土。後円部主軸に並行して2基の竪穴式石室が確認されたが詳細は不明。前方部先端にも方形の壇状施設があって、内部に小型の割石積みの竪穴式石室のような埋葬施設があると見られている。造出しからは滑石製刀子・籠形土器が出土しており、祭祀関係施設と考えられている。被葬者は(柿本人麿の長歌から)40代天武天皇第一皇子の高市たけち皇子説もある。

南東望          前方部西望        くびれ部西望       後円部南東望

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巣山古墳から公園に戻る真ん中の陸橋は、佐味田狐塚古墳(全長78mの前期帆立貝形前方後円墳)の上に架けられている。

案内           陸橋北望         陸橋から東望       狐塚北端 

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その他5~6基ありますが、単なる芝生公園様の所や樹木の中に有ったりします。

カタビ古墳群

赤丸部分        案内            2・3号墳西望見上げ    1号墳

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別所下古墳

黄丸部分(赤丸の右下)   南東望                       北東望

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三吉2号墳・ダダオシ古墳

ピンク丸部分(右端)    案内           三吉2号墳南西望     ダダオシ古墳東望

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池上古墳

オレンジ丸部分(左端)   遠景東望         近景北東望        案内

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なお、ナガレ山古墳の東脇に古墳模型が有り、結構分かり易い。

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詳しくは、奈良県HPを参照下さい。

公園の古墳/奈良県公式ホームページ

 

⑩佐味田宝塚古墳

河合町佐味田。4世紀末~5世紀初頭頃の前方後円墳。全長111m、後円部径60m、前方部幅50m。各2段築成で前方部を北東に向ける。埋葬施設は粘土槨、その周囲に礫を埋めた排水溝を巡らせていたと推測されている。濠は確認されていない。

馬見丘陵公園西側陸橋から、ほぼ西に1km。当時はかなりさびれて、小さな案内があるだけで、知らないと古墳とは気づかないだろう(今は少し立派な案内が設置されている)

1881年に発見され、1882年(M14)粘土槨から約36面の銅鏡が出土した。その中に家屋文鏡かおくもんきょうと呼ばれる直径23㎝の大型鏡があった(宮内庁書陵部蔵)。他に、銅鏡18面・銅製品8点・石製品(石釧(いしくしろ=石製腕輪)・鍬形石・石製合子(ごうす=ふた付き小容器))刀子・剣・斧・鑿等の滑石製模造品47点・玉25箇、総数140点も出土し、東京・奈良国立博物館宮内庁書陵部に保管されている。

1985年(S60)調査で墳裾から出土した円筒埴輪列から、4世紀末~5世紀初頭頃築造で、馬見地域で最初に築造された前方後円墳と判明。葺石が敷かれ、鰭付ひれつき円筒埴輪列が並び、くびれ部には形象埴輪が存在したと思われる。形象埴輪は盾・蓋きぬがさ・短甲・草摺くさずり、靭(ゆぎ=背負矢立)・家・壺形等。その他車輪石や三角縁神獣鏡片が発見されている。

墳丘西望                     案内            家屋文鏡

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家屋文鏡  4世紀頃の地域首長の日常生活に使用された住居と考えられる。鏡背面に、中央の紐(ちゅう)を中心に形の違う4棟の家が描かれている。竪穴棟・平屋棟・高床棟・高床倉庫らしき棟。竪穴棟は竪穴式住居で、入口の扉は支え柱で持ちあげられ、露台と蓋もあり、他の3棟より床面積が大きい。平屋棟は、入母屋屋根で、基壇の上に建てられ大陸風の建築様式と見られる。高床棟は、入母屋屋根で、一方の妻側に手すりをつけ、他方の妻側には露台が見られ、高貴な人家を示す蓋がさしかけられている。また、屋根の左右には稲妻形模様(雷文の一種)が描かれ、その模様の中に人物像が描かれる。祭祀儀礼や政治の中心的な建物と考えられる。高床倉庫らしき棟は、切り妻屋根で、一方に梯子が付く。高床の下は蓆(むしろ)状の仕切りをつくり、収納空間をとなっている。このうち平屋棟と、高床倉庫には、左右に神木様のものが立つ。なお、竪穴棟を除く3棟の上には、各々二羽の鳥が描かれている。

⑪牧野ばくや古墳

葛城郡広陵町馬見北8丁目4。6世紀末の円墳。径約50m・高13mで3段築成。6世紀末から、大王墓や首長墓としての前方後円墳が築造されなくなり、方墳や円墳に代っていく。埋葬施設は、墳丘の中ほどに南面に開口した両袖式の横穴式石室。全長17.1m、羨道長10.4m・幅1.8m、玄室長6.7m・幅3.3m・高4.5m。 巨石を積み、石舞台古墳に次ぐ規模とのこと(玄室側壁は後期~終末期特有のきついめの持送りがみられ、桜井の赤坂天王山と類似)。玄室内には凝灰岩製家形石棺2基が納められていた。奥壁側の石棺は長さ2.1mの刳抜式、手前の石棺は、長さ2.6m程の組合式と推定される。玄室内を中心に玉類・金銅製山梔くちなし玉・金環等の装飾品・銀装大刀・矛・鉄鏃400本等の武器・金銅装の馬具2組・木芯金銅椀・須恵器等が検出された。この時期では最大級で、被葬者は大王に近い人物と考えられ、30代敏達天皇皇子=押坂彦人大兄皇子の説もある。

公園案内        石室案内          開口部          羨道

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2022年5月の石室公開日に再訪。以下を参照下さい。

牧野古墳 - OSAKA-TOM’s diary

 

⑫新木山にきやま古墳

広陵町赤部字新木山。5世紀前半の前方後円墳押坂彦人大兄皇子の「三吉陵墓参考地」に治定されている。墳長200m、後円部径117m・高19m、前方部幅118m。各3段築成で前方部を東に向ける。両くびれ部に造出しが付き、形態は巣山古墳に似ている。周濠幅は後円部側で18m、前方部側で22m程。外堤は水田や畑の畦畔として残り、幅約20m程・高さ3m以上と推定される。。埴輪列の存在も確認されている。宮内庁に勾玉・管玉・棗玉等が所蔵されているらしい。円筒埴輪の方形透かしと黒斑から、5世紀前半築造と考えられ、馬見古墳群中央群では最後の大型前方後円墳。後円部西側に、外提に接して主軸を同じくする三吉石塚古墳がある

後円部北西望    前方部西望      制札        北側周濠西望    後円部東望

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*三吉石塚古墳

5世紀後半の2段築成の帆立貝形前方後円墳が復元されている。全長45m、径40・高6.5mの円丘部に幅22m・長7mの方丘部が付く。葺石・埴輪(円筒・朝顔形・短甲・家等)を検出。周囲には馬蹄形の濠が巡っていた。埋葬施設は未調査のため不明。新木山古墳のある東側を除き、墓地で囲まれている。

遠景西望         近景西望         案内

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後円部北望        墳頂から北望       東望(新木山古墳)     南望

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南群

2017年10月30日(火)訪問。

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新山しんや古墳

広陵町大塚。4世紀前半の前方後方墳。25代武烈天皇の「大塚陵墓参考地」に治定されている。全長約126m、後方部幅67m・高約10m、前方部幅約66m。 前方部を南に向ける。群中でも初期で、1885年(M18)に土地所有者が後方部の竪穴式石室(内部に組合式の長持形石棺)を発見。14面3種の直弧文鏡を含む銅鏡34面出土。直弧文は3~4世紀頃に出現し、直線と弧線を組合わせた文様を持つ。また変形方格規矩神獣鏡は仿製(倭製)鏡で、紐の周りの方形区画の中に、十二支の漢字が文様化され、鈕を挟んで向きあって配された4神4獣。4神4獣鏡は,三角縁神獣鏡の中でも古い段階に製作されたと考えられている。龍文透彫り帯金具も出土。帯金具は中国では、古くは2世紀代に出現し、盤龍文系、龍・鳳凰文系、双龍文系、龍文系等がある。発見された銀製帯具は、中国の江蘇省西晋周處墓等の六朝期の古墳出土のものと類似性が強い。4世紀初頭前後の製作と考えられるとのこと。他に車輪石・石釧・椅子形石製品等が出土。なお、円筒埴輪はメスリ山古墳類似でもある。武烈天皇の在位年と古墳築造時期に大きな隔たりがあり、12代景行朝の葛城国造の宮戸彦宿禰とする説もあるらしい。

遠景北望         前方部南東角      前方部南面西望       前方部南西角

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モエサシ古墳群

広陵町みささぎ台17=みささぎ公園。1号墳=径35m・高3.5mの南側の円墳、須恵器片が出土し古墳時代後期築造とされる。2号墳=径16m・高2.5mの北側の円墳。3号墳=全長74mの前方後円墳、後円部径38m・高5.5m、前方部幅23m・高1.5m、墳丘形態から古墳時代前期とされる。公園内東側に黒石13号墳の横穴式石室が移築されている。

公園案内    2号墳      3号墳前方部西望  後円部西望   黒石13号墳

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3号墳後円部から前方部方面 1号墳登り口       墳頂           東望見返り

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エガミ田古墳群

広陵町みささぎ台27=黒石公園。広陵町のHP(2016更新)では、1号墳=径18m・高4mの円墳。2号墳=辺15m・高4mの方墳、古墳時代後期と推定。3号墳=径26m・高4mの円墳。奈良県遺跡地図では1号墳=径20mの円墳。2号墳=径15mの円墳、3号墳=全長55m、前方部幅25m・高2.5m、後方部長25m・高3.5mの前方後方墳で、1980~1989年の文献に基づくとある。公園案内では2基の円墳と1基の前方後円墳となっている。更に、古墳サイトによっては、1号墳~6号墳とするものもあり、バラバラ。言えることは、墳丘状のものは3基以上あるが、いずれもかなり崩壊しており、重要な古墳としては保存されていないということだけ。

公園案内         南東の円墳=1号墳?   西側の墳丘西望      別位置から南西望 

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安部山あべやま古墳群

6世紀代の古墳群。現在は、道で南北に分断されている。北側は、広陵町馬見南2丁目13=西谷(近隣)公園。1971年ニュータウン造成時に調査された。1号墳=全長42m、後円部経25m・高3m、前方部幅20m・高1.5mで葺石の有る前方後円墳で、この古墳群の盟主墳。前方部を西に向ける。埋葬施設は木棺直葬(後円部)で棺周囲に人頭大の石で排水施設が作られ、木棺西小口で集水後、石組暗渠で南側くびれ部に排水する構造になっており、排水溝に石と埴輪片が使われていたとのこと。棺内から勾玉・金環・石製模造品・鉄槍・ヤリガンナ・須恵器等が、棺外から土師器・須恵器が出土。2号墳(消滅)=径20mの円墳で、刀・刀子・馬具・須恵器が出土。3号墳(消滅)=径12mの円墳。鏃・馬具・土師器・須恵器が出土。小竪穴式石棺も検出。
南側は、広陵町馬見南3丁目23=9号児童公園。4号墳=南側にある径20mの円墳、巨大土壙内に組合式石棺を置き、半壊しているが底板と側板2枚は完存。単鳳環頭・太刀・土師器・須恵器が出土。5号墳=真ん中の径15mの円墳、組合式石棺直葬。金環・銀環・鏃・土師器・須恵器が出土。6号墳=北側にある径10mの円墳、石棺直葬。金環・鏃・須恵器が出土。7号墳(消滅)=径25m、玉類・刀・土師器が出土。*説明板は9号児童公園内に設置されている。

公園案内         1号墳北東望       北望           遠景南東望

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案内               5号墳辺り             4号墳

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別所城山1・2号墳

香芝市真美ヶ丘4丁目5=城山児童公園。4世紀末頃(~5世紀前半)。香芝市内で最古級の古墳とのこと。

1号墳=北側。全長42mの帆立貝形前方後円墳。後円部径約40m、前方部幅18m。各2段築成で前方部を北西に向ける。盗掘後の墳丘補修の際、硬玉製管玉1個や埋葬施設に使われたと思われる朱や粘土片が少量出土したらしい。総じて目立った出土品はない。

2号墳=南側の、東西径19m・南北21m・現高4.5mの円墳で、墳頂部は盗掘されている。主軸を南北とする埋葬施設を検出。割竹形木棺(長約4.6m・幅0.65m)を埋めた粘土槨(長約6m・幅約2.7m)から札甲さねよろい・鉄剣・鉄刀・鉄鏃・鉄槍・筒型銅器などの武器・武具類が出土。札甲はこの時期では出土例は少ない。

案内          1号墳頂から北望見下ろし  2号墳方面南望       2号墳南望

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別所石塚古墳 

香芝市別所。別所交差点角で、自動車学校の西に隣接。元は全長90~100m、後円部高約8m前方後円墳。昭和45年発掘調査で葺石と埴輪が出土したらしい。埋葬施設は後円部に粘土槨下部の一部が残存していた。主軸に沿い、長さ5.5m・幅3mの土擴内に砕石を使った排水施設を作り、その上の粘土槨から鉄刀片・鉄斧等が出土したとのこと。

二上山西望        遠景南望         近景南望        北望

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別所石塚古墳から、近鉄大阪線を南に越えると築山古墳群の大谷古墳等がある。

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大谷1・2号墳

大和高田市大字大谷=大谷山自然公園。5世紀代の築山古墳群。1号墳=径33m・高6mの円墳。公園東入口の森の中。2号墳=公園中ほどで植込みが巡る径13mの円墳。土師器・埴輪出土。2号墳のすぐ北隣にも小円墳が有った模様。 

1号墳北東望     案内        2号墳南西望     南東望       案内

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かん山古墳

大和高田市築山=築山児童公園。5世紀前半の円墳。径50m・高5mで2段築成。葺石・周濠はない。主軸を北東方面に向ける並列の墓壙が2基。第1主体は10.5×3.8m でコウヤマキの棺材一部が検出されたとのこと。第2主体は6.3×2.7mと一回り小さい。殆ど盗掘されていたが、鉄刀片・鉄鏃片・管玉・朱の他、円筒・朝顔形、盾形・家形の形象埴輪片が出土。

遠景南西望        墳頂から西望       北望見上げ        北西望見上げ

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築山古墳

大和高田市築山。4世紀後半の前方後円墳。23代顕宗天皇の「磐園いわぞの陵墓参考地」に治定されている。墳長210m、後円部径120m、前方部幅105m。後円部3段・前方部2段築成とか両3段とか後円部4段・前方部3段等の諸説ある。古地図には、共に「片岡石杯岡かたおかのいわつきのおかの北陵・南陵」として記されているらしい。くびれ部南側だけに造出しが外観できる。築山古墳の周堤帯と東隣のコンピラ山古墳の間に数mの段差があり、それが築山古墳を囲む形で南に延び、一部は栂池という池になっている。これは築山古墳の2重濠の痕跡と推定されているとのこと。

かん山からの後円部遠景  前方部遠景        前方部北東角北西望    南東角北東望

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南側くびれ部北東望    後円部南面西望      西面北望         西面北東望

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墳丘北側南西望      左写真赤○渡堤      制札           コンピラ山北東望

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コンピラ山古墳

大和高田市築山。5世紀前半の円墳。径95m・高12.7mで全国3位の規模。墳丘上に祀ってあった金毘羅神社が名の由来らしい。住宅地で墳裾が削られ、更に土砂採取で改変されており、以前は55m程度の築山古墳陪塚とされていた。近年の調査で、周濠痕跡が発見され、95mと判明。もし、陪塚であるなら主墳の築山古墳被葬者の権力の絶大さを示すが・・・?。墳頂部で出土した埴輪列の2本の円筒埴輪内に、各1個づつ土師器製のミニチュア壷が納められていたが、埴輪据付後あまり日を置かずに人為的に納められていたようで、県下では乙女山古墳・瓦塚1号墳・渋谷向山古墳に同例があるとのこと。

  

狐井塚古墳

大和高田市池田。5世紀後半~6世紀初頭の前方後円墳。23代顕宗天皇の皇后難波小野女王の「陵西おかにし陵墓参考地」に治定されている。全長109m、後円部径60m・高10m、前方部幅73m。後円部と前方部の高さが同じくらい。葺石と円筒埴輪が確認されており、盾形周濠痕跡がある。前方部北東外堤付近で長持形石棺の蓋石が出土、付近の川からも長持形石棺の蓋石や竪穴式石室の天井石が検出されたらしい。陵西陵墓参考地南西側のJR和歌山線北沿い等に、陪塚が点在する(狐井古墳側からい・ろ・は・に号、ほ号はJR南側)。

前方部遠景南望      北側西望         前方部南望        後円部南望

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が陪塚     陪塚い号       ろ号        は号        に号

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*上の左図の黄色〇のところに、陪塚ほ号がある。

茶臼山古墳

大和高田市築山。径50m・高さ6m・2段築成の円墳。磐園陵墓参考地の陪塚に治定されている。葺石・埴輪・周濠(6m)痕跡あり。埋葬施設・築造年代不明。

水色の〇         東望                        南東望

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*池田古墳群・領家山古墳(JR和歌山線南側) 行っていませんが情報のみ掲載します。

池田古墳群(上の左図ピンク〇周辺)。大和高田市池田。完全に削平され、公共施設が建つ。1990年代の調査で、領家山1号墳を除き完全に削平されていたが、調査区域で円墳1基・方墳9基・前方後円墳1基の計11基が見つかった。出土品としては円筒・朝顔・きぬがさ・盾・人物(盾持人・盛装男子・巫女)・鶏形・馬形埴輪、木製の笠形埴輪、須恵器が見つかった。埴輪は5世紀~6世紀のものとのこと。

領家山古墳 大和高田市池田の天照皇太神社境内。1955年領家山丘北側で小学生が鶏頭埴輪を見つけ、埋没古墳の可能性が指摘されたらしい。現在、天照皇太神社の鳥居脇に領家山古墳群の案内がある。1号墳は社殿奥で東西24m・南北20.5m・高さ2.5mの長方墳とのこと。2号墳は竹林の中、径9.5m・高さ1.5mの円墳で、北端にもう1基存在したと思われ、そこが鶏頭埴輪出土地らしいとのこと。

インキ(インキョ)山古墳

大和高田市築山。近鉄大阪線築山駅の南隣。6世紀中頃の前方後円墳で、全長50m、後円部径22~26m・2段築成らしいが、殆ど破壊され一部が残るだけらしい。周濠はあるが、葺石や埴輪列は施されていなかった模様。木棺直葬の可能性が高く、平成8年調査で後円部南東墳裾から円筒埴輪棺が1基発見されている。くびれ部テラスからは須恵器の坏を使った祭祀跡も見つかったとのこと。25~30年前までは登れたようだが、今は登り口が分からず案内のみ。たぶん東に隣接する保育園屋上に登れば見えるのでしょう。

案内                        インキ山方面見返り    築山駅

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狐井城山古墳 

奈良県香芝市狐井・良福寺。近鉄大阪線の築山駅から北西方面2.4km程(五位堂駅の東870m)にあり、南群からかなり離れているが、一応南群を構成するとされている。5世紀末~6世紀初頭の前方後円墳。前方部を北方向に向け、墳長は約140m、香芝市では最大規模。後円部径約90m、前方部幅約110m。墳丘周濠は北側で約18m、周濠外側の外堤は幅約18m・高さ4.5m。墳丘表面では葺石・埴輪片(円筒・朝顔形埴輪)を検出。

西側北望         案内           前方部南東望       西側周濠南望

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