OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

打上古墳周辺

都塚古墳・打上古墳

2021.6.8(火)。下図⑪都塚古墳→⑫打上古墳

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都塚古墳

⑪都塚みやこづか古墳。高市郡明日香村阪田。6世紀後半の方墳。別称は金鳥塚。

復原規模は東西41m・南北42m、高さ4.5m以上。墳丘表面は階段状に石積みされ、各段0.3~0.6mで6段以上あったとされる。このような「階段ピラミッド」形状は日本で類例がなく、5世紀頃に朝鮮半島の旧高句麗・旧百済で見られる(階段状)積石塚との関連があるらしい。ただ、現在は階段状とは認識できない。周囲に、幅1m~1.5m・深さ0.4mの周濠が巡っていたとのこと。

南東望                      墳頂から石舞台方面    案内

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

両袖式の横穴式石室で、南西に開口し、石室長約12m、羨道長6.9m・幅約2m・高さ約2m、玄室長5.3m・幅2.8m・高さ3.55m。古墳時代後期~終末期特有の、きついめの持ち送りが見られる。玄室には二上山凝灰岩製の刳抜式家形石棺(長2.23m・幅1.46m・高さ1.72m)が据えられており、木棺(非現存)の追葬も推定される。鉄鏃・刀子・須恵器以外の副葬品の大半は盗掘に遭っているとのこと。

羨道部                           楣石高さ120cm程

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玄室       石棺      床       天井部     石棺俯瞰    前方の縄掛け突起

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(奥から見て)右側壁 基底石    右袖      左側壁      基底石     左袖

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一説には約3万人が関わったと言われる。一帯は飛鳥時代蘇我氏が勢力を誇った地域で、馬子の墓と推定される石舞台古墳や、馬子の邸宅と推定される島庄遺跡などがある。本古墳は、石舞台古墳よりやや遡るので、馬子の父の稲目(欽明32年=570年?没)とする説がある。また、当時は前方後円墳の終焉から定型化大型方墳等への過渡期であり、前方後円墳に代わる次の形式を模索する過程で、中国・朝鮮半島の積石塚を参考にして築造されたとする説もある。

打上古墳

高市郡明日香村細川。6世紀後半~7世紀前半の円墳。奈良県遺跡地図17B-0017。東の上かむらから西の上居じょうごまで広がる約200基から成る群集墳=細川谷古墳群の一つ。遺跡地図では径20mの円墳。

155号(多武峯見瀬線)と都塚古墳へ行く15号線の分岐から約500m、バス停細川の手前から北へ300m程登る。標高差80mの急勾配。

バス停手前標識                 3分位で最初の分岐

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次の分岐を右に行くと、古墳標識があり、その左が進入路。向こう側には獣除けのフェンスがある。

                    8分位で次の分岐    分岐から70m程で標識

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標識左の獣道を40~50歩登ると、すぐ右手上に開口部がある。開口部が、坂のすぐ上だし、逆三角形で狭く入室しにくい。

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花崗岩製の両袖式の岩屋山式石室が南に開口。基段の巨石上辺が一直線に並ぶ、奥壁二段、三枚の天井石。玄室には小さな蝙蝠が2匹いた。被葬者は蘇我氏関連の人物と言われる。

玄門                  玄室                  天井と蝙蝠

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(奥から見て)右側壁    左側壁         開口部

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【余録】

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石室から帰る途中、出くわした動物。鼻が少し長く、狸ではなさそうだ。鼻筋が白くないのでハクビシンでもなさそう?一番似ていたのはニホンアナグマだったが・・・。 今まで、雉・野兎・野生の鹿・(檻罠にかかった)猪に遭遇し、打上古墳石室内の蝙蝠と合わせ、これで6種類目。

徳利塚古墳

徳利塚古墳

2021.6.8(火)。下図(⑥こうぜ1号墳)→⑦八坂神社→⑧徳利塚古墳→⑨池ノ内古墳群

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                              ●は駐車位置。青点線は徒歩

こうぜ1号墳 桜井市浅古。(6世紀後半~末)は東・西石室が入室可能なのだが、笹がひどく今回は断念。冬場に再度訪れたい。

2018年4月に桜井駅→艸墓古墳→文殊院西・東古墳→谷首古墳→コロコロ山古墳→メスリ山古墳→兜塚古墳→秋殿南古墳→(こうぜ1号墳)→舞谷2号墳→赤坂天王山古墳→塚越古墳→舒明陵→茶臼山古墳→桜井駅(約13km)と徒歩で巡ったが、当時こうぜ1号墳の石室場所がよく分からずパスしている。今回、場所をキッチリ下調べしリベンジに臨んだが・・・・・。

⑦八坂神社境内 桜井市浅古。奈良県遺跡地図の14D-0090の円墳。東半分は破壊され灯篭や碑が立つ。南に開口する自然石の横穴式石室(羨道長5m以上、玄室長4.3m・高2m)だったらしいが、西側壁一部石材を残すのみ。

こうぜ1号墳       東石室方面        八坂神社境内

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

⑧徳利塚古墳

桜井市高田。高田植松古墳群の徳利塚古墳(上図⑧、奈良県遺跡地図14D-0193)。

6世紀後半~7世紀初頭の円墳。著名なメスリ山古墳後円部南側墳裾から真南へ200m程の小さな池辺りが、登り口。車なら37号線から桜井下簡易郵便局の前を西へ400m。赤い火の見櫓が目印。ここから南に登って行く。

登り口西望    南望      そのまま道なりに上がっていく。

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最初の分岐は、左に行くとすぐに高田山口神社。ここを右というか真っすぐ行く。分岐から50m程で、切り通しの坂道に入る。

最初の分岐               切り通しの坂道へ

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切り通しを上がりきると、開けた感じで、すぐ左下にグラウンドがある。グラウンドを過ぎる辺りから、また林の中に入っていく。

                              グラウンド       また林の中へ

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しばらく道なりに行くと、目印テープの巻かれた木がある。登り口から14~15分の所。ここから、右下(南西)に下って行く。目印テープが経年劣化で、はがれてしまっている場合は、右手の変わった形の木が目印。

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笹の茂みを抜けると、右手(西側)が開けた所に出る。道は全くなく、切り倒された笹の上を右手(西側)に下る。
ここはすごく気を付けてください。坂道に倒れた笹の茎は、すごく滑りやすく、切り倒された笹の茎残りは尖っていて、転ぶと体に刺さる危険も・・。立って進むのでなく、四つん這いで下ってもいい位です。

分岐から笹の茂みを下る                   進入路       (逆から見た様子)

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小丘陵の右手に回り込む         少し右下に大きな石室石材が見える

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ここまでの写真は6月です。真夏・秋・真冬では様子がかなり違いますのでご注意を。

 

「植松西支群1号墳」が正式名称。標高195~240m付近、西側尾根上の西支群と東側の東支群があるらしい。巨石を使った両袖式の横穴式石室で、開口部を塞ぐ巨石(場所的に羨道天井石?)は高さ150cm以上・幅115cm程あり、その右横の隙間(25~30㎝)から入室できる。玄室内に近江産の黒雲母花崗岩製の刳抜式石棺が遺存する。全長2.1~2.5m・幅1.1~1.3m・高さ1.2m程。蓋は失われている。(奥から見て)左側壁の羨道寄りの石材も高さ130cm程あり、玄室は大中小の石材を組み合わせている。

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《参考》最初の分岐を、左に行くと高田山口神社がある。

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⑨池ノ内古墳群

桜井市池ノ内。(「なら食と農の魅力創造国際大学=旧奈良県立農業大学」構内、上図⑨)。  

4世紀末~5世紀初頭の古墳群。前期古墳的な性格を持つ古墳群。1970年県立農業大学建設に先立ち橿原考古学研究所で調査された。小規模な古墳群であるが鏡・勾玉・管玉・石釧・琴形石製品・鏃形石製品・鉄製武器類など豊富な出土品があったとのこと。これらの出土品からして、当時前方後円墳を作るまでには至らなかったものの、中央政権に君臨した豪族層の墳墓群の可能性が考えられるらしい。この古墳群は全て粘土槨に木棺直葬したタイプ。

大学構内なので、許可を得ないと入れないと思っていたが、門には警備室もなく、フリーパス?状態。大学といっても、校舎でなくビニールハウスがズラーっと並んでいる。遺跡地図では、敷地内の北西端に南北に1~7号墳が並ぶ。北端の6号墳と、南端の7号墳はよく分からない。また5・4・3号墳は一つながりになっている。

一桁の赤字が号数 6号墳辺り   5号墳?     4号墳?     3号墳?     5~3号墳

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2号墳        案内        1号墳       7号墳辺り      8号墳方面

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6号墳(丸山古墳)・・・古墳群中最北端にある円墳状の古墳で 主体部は組合式木棺と推定されるが中央部は盗掘が激しく両端だけが遺存していた。出土品は鉄剣・鉄鏃・鉄斧・鎌・鋸形鉄製品・手鎌形鉄製品・刀子など。

5号墳・・・円墳(径15~16m)で4基の木棺直葬墓を持つ。この古墳群の中では一番遺物が沢山出土しておりこの古墳群中最盛期の古墳とされる。
第1棺:変形獣形鏡(完形13cm)勾玉等玉類・櫛・刀子・鉄斧・刀・鉄鏃・短甲・石釧等出土。

第2棺:三角縁竜虎鏡(銘文なし、完形22cm)勾玉・管玉・臼玉・櫛・剣・刀・鉄鏃等出土。

第3棺:琴柱形石製品鏡・紡錘車・勾玉・管玉・垂飾品・筒形銅器片・櫛・直刀・鉄剣等出土。 

第4棺:珠文鏡(銘文なし、欠損5.6cm)剣・刀等出土。

4号墳・・・円墳(径10m?)と思われるが埋葬主体部は確認されていない。遺物は壷形土器片が出土。この土器の特殊性から古墳ではなく祭祀の場所であった可能性が高い。

3号墳・・・円墳(径10m)。主体部は粘土槨で組合式の箱型木棺と推定されている。槨の中央部は盗掘されていたが直刀・鉄剣・鉄鏃・鉄斧・鉄器・車輪石片が確認された。

2号墳・・・円墳(径東西30m、南北22m)だが明確な墳丘は見られない。主体部は粘土槨(長さ約7m)で礫を用いた排水設備があるのが特徴。出土品は土師器・埴輪片等。

1号墳・・・円墳(径東西13m、南北10m)。自然丘陵の頂部に二つの墓壙を平行に堀り、割竹形木棺を直葬。棺は長さ約3.6m、幅0.4~0.5m。出土遺物は 東棺で内行花文鏡(銘文なし、完形11.7cm)、管玉・ガラス製小玉・鉄斧・石釧。西棺では変形重圏鋸歯文帯鏡(四区渦文鏡、銘文なし、完形12.6cm)、勾玉・管玉・琥珀製棗玉・ガラス製小玉・鉄鍬・刀子・ヤリガンナ・石釧・石杵・土師器等出土。

7号墳(ヒョウタン山古墳)・・・丘陵南端の円墳(径東西11m、南北13.5m、高さ2m)で2基の埋葬主体。東棺は全長2.8m、幅0.75mの組合せ式木棺、西棺は南半分が滅失していたが東棺と同様のものと推定。出土遺物は直刀・鉄剣・鉄鏃・鏃形石製品。

 8号墳・・・円墳と思われるが不明。埋葬主体部は礫状施設状のものがあった以外は不明。

とのことです。 

桜井市 倉橋ため池周辺古墳群

カタハラ古墳群・梶山古墳群・エンドウ山古墳群

2021.6.8(火)。桜井市倉橋、倉橋ため池周辺。著名な赤坂天王山古墳群の近隣。

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   ●は駐車位置。青点線は徒歩               ↑「奈良県遺跡地図」引用

カタハラ古墳群

桜井市倉橋出屋敷(上図③)。赤坂天王山古墳群進入路北側の三差路を南東に登った丘陵上。カタハラ1号墳(奈良県遺跡地図15C-0049)はH11年に調査され、H13年市史跡に指定。径13~18mの円墳、右片袖式の穹窿状横穴式石室が南西方向に開口。玄室奥壁8段、側壁7段程で高さ約3mらしい。小さ目の石材を積上げており6世紀中頃の築造。奥壁と側壁の下半接続は直角だが、上半は隅角を消すよう=隅三角持ち送りが見られるとのこと。ただし、防護柵で入室不可どころか、開口部もよく確認できません。

分岐を南東に上がっていく      1号墳          開口部辺り

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

【古墳豆知識その13】穹窿状横穴式石室

穹窿きゅうりゅうは、「中央が高く弓形をしている」という意味で、建物ではアーチ形・ドーム形・丸天井といった形。方形で造るより高度な技術が要るはずだ。熊本県嘉島町の井寺古墳(5世紀末~6世紀初)、同県御船町の小坂おざか大塚古墳(5世紀後半)、同県西区池上町の二軒小屋古墳等がある。奈良では高市郡明日香村大字真弓の真弓鑵子かんす塚古墳(6世紀後半頃、径23mの円墳。玄室長6.3m・幅4.2m・高さ4.8m、石材は7段積上げ、3段目以降を急激に持ち送る穹窿式。渡来系の東ヤマトの漢アヤ氏墓説)や、平群町椿井の椿井宮山塚古墳(5世紀後半~末、径26mの円墳。玄室長4.1m・幅3m・高さ3.2m、下半は垂直で上半部を内側に持ち送る穹窿式)。穹窿状の横穴式石室は、韓国の旧百済(660年滅亡)の公州(現忠清南道)宋山里(송산리ソンサルリ)古墳群1~5号墳の横穴式石室に形状が共通しており、小さな石材をドーム状に積んで、石室空間を構築する技術は独特で、渡来人の石工集団の足跡をこれらの石室に見ることができる。

真弓鑵子塚古墳(2020年3月)     宮山塚古墳(2019年10月)

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*赤坂天王山古墳群からため池公園へ向かう道沿いに、奈良県遺跡地図42(15C-0042)古墳があり、墳丘は残るが、墳頂部には5~6基の墓石があるのみ。

42古墳登り口                   墳頂部

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梶山古墳群

桜井市倉橋ため池ふれあい公園の「まほろば広場」(上図④)。梶山1・2・3・4号墳は水没。2基の入室可能石室が残る。

15C-0032古墳

まほろば広場」は桜井市森林組合の北向かい。広場案内板から真北へ70m(照明塔から池畔へ)行くと、「ため池周辺の古墳」案内がある。この案内板から少し北に行った右手に15C-0032古墳の登り口がある。登ってすぐ開口部がある。

まほろば広場  古墳群方面    開口石室    案内       32古墳登り口

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6世紀末頃、径9.5mの円墳。開口部は幅115cm・高さ83cmで比較的入室し易い。両袖式の横穴式石室で、全長6~7m、羨道長約3m・幅約1.2m、玄室長約4m・幅約2.2m・高さ約2.5m。

開口部              羨道      両袖               玄室 

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奥壁          右側壁(奥から見て)     左側壁         天井部

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両袖部          楣石          左側壁          右側壁

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15C-0030古墳

15C-0032から、さらに池の方へ進み、柵の突き当り奥に15C-0030石室。柵は右横から抜けられる。

池畔へ                      開口部

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6世紀後半~7世紀初頭頃。径16mの円墳。両袖式の横穴式石室。開口部は幅85cm・高さ60cmと少し狭い。全長8.5m、羨道長約5m・幅1.35m、玄室長3.6m・幅1.6m。出土遺物は知られていないらしい。

羨道           玄室          奥壁           奥壁上部と天井

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玄門        楣石        左袖        右袖        楣石上部

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*左端写真の開口部ビニールは入室時に敷いたもので、もちろん退室時撤去しています。

エンドウ山古墳群

「トンボ池広場」北西の尾根上(上図⑤)。ため池の南西端にある「柴垣の宮広場」から北は、車は入れない。「柴垣の宮広場」南西端の駐車場から遊歩道を1kmちょっと。「トンボ池広場」をグルッと回る道の北西角辺りに進入路がある。笹の茂みの間に人の通ったような跡があり、下が少しぬかるんでいる。ただ、茂みを抜けると割と開けており、先達のテープ目印が誘導してくれる。進入路から約7~8分で到達。今回は6月で、結構笹も茂っており、やはり山中の古墳群は冬場が鉄則です。

*目印テープは経年劣化で、はがれてしまっている場合も多い。できるだけ最新の情報で確認してください。

トンボ池広場北西望  進入路から見た広場       進入路とテープ       最初の目印

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以下、ルート上の目印テープをできるだけ掲載します。

             最初の小丘陵の急斜面を少し迂回する形で尾根を登る↓   同左別角度

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笹で覆われた道を行く

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小丘陵を上がった所の2号墳石材      1号墳開口部  

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両袖式の横穴式石室。開口部は幅75cm・高さ80cm。切石加工の石材で、側壁・奥壁は2段。石材の目地隙間には漆喰の跡。天井石は2枚。玄室の高さは1.65mでかなり小ぶり。

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羨門        左袖        裏込め土か?↓    右袖

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帰宅して写真を整理している時に、妙な事に気付いた。それは先に2号墳の石材を見つけ、その後少し(南に)下った所に1号墳石室を見つけたという順番だ。2号墳は1号墳の北側のはず。私は南東の進入口から北西に向かって登ったはず。なら1号墳が先に見つからないといけない。それと1号墳石室からの帰路は、2号墳を越えて下って行ったが、来た道と違ったようで、トンボ池広場から直線距離で北へ100m程行った池畔に出た。つまり私がトンボ池広場から登ったルートは、まっすぐ北西のエンドウ山古墳群を目指したのではなく、古墳群に至る直前で、北から登るルートに合流していたことになる。
まー、結果的に7~8分で到達したことだし、山中の尾根に至るルートは四方八方にある訳で、あながち間違いとも言えないが・・・。

 

 

花山塚古墳

花山塚古墳

2021.6.8(火)。桜井市粟原。花山東塚古墳と花山西塚古墳があり、7世紀後半頃の磚槨式の横穴式石室で著名。

国道166号線、女寄みより信号から県道198号に入り約200m。左手の林道への進入口がある。車を止めるスペースはあるが、森林管理者が通ることがあるかもしれないので、お勧めできません。ここから約1分半で右手に黄色の防護柵、少し先の林道沿い左手に登り口がある。登り口からは、先達が残した目印のテープが導いてくれる。

地図       林道進入路            防護柵   防護柵から見た登り口 登り口 

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*PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチアウトして下さい)。
登り口すぐの分岐を右上へ行く。左の方が道っぽいが、違います。

なお、目印のテープは経年劣化で、はがれてしまっている場合も多い。できるだけ最新の情報で確認してください。

 登り口             すぐの分岐を右上へ

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              ↓分岐から約5分で道なりに左(西)方向    花山東塚古墳 

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 花山東塚古墳

北斜面を馬蹄形に掘込んだ円墳。径約17m・高さ3.5m。磚槨式の横穴式石室で南方に開口、羨道は欠失。後述の西塚と異なり奥室はない。玄室現存長3.15m・幅1.72m・高さ1.9m。磚槨式石室は、レンガ状の榛原石を漆喰で塗り固めて造るが、宇陀、粟原谷、鳥見山南麓に集中し(例外的に帯解黄金塚古墳)、渡来系豪族の関係が注目される。西塚とは計画的に配置された双墓説もある。*磚=基本的には正方形や長方形の厚い平板のレンガ
開口部は幅165cm・高さ55cm程。下っているので、入室時はビニール袋を敷き仰向けで滑り込み、退室時は四つん這いで。
西塚へは、東塚から更に西方面に進む。

開口部                      玄室全景     奥壁       天井部

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右側壁(奥から見て) 左側壁     開口部     左側壁      右側壁      西塚方面

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花山西塚古墳

東塚から文字通り西へ進むが、正確には西上方=北西に登っていく感じ。何となく道っぽいルートを進むと、2~3分で石標が見える。頑丈なフェンスで囲まれているが、上部に開扉部分があり施錠されていない。入室は割と簡単だが、出る時がチョット難儀。高さ2m程あるので、体を引き上げるだけの腕力が無いと入室しない方が良い。周りには、踏み台になるようなものもないですし・・・。

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西塚古墳正面   防護柵     石標裏     柵外から石室        上部開扉部分

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北斜面を馬蹄形に掘り込んだ円形と推定される。東塚同様、磚槨式の横口式石槨だが、規模・精巧さ・複雑な室内構成等、明らかに東塚と比べ、手間の掛け方が違う。双墓にしても、東塚よりかなり上位者なのだろう。玄室(前室)の前後に羨道・奥室を付ける大阪府の石棺系横口式石槨に類似する。石室全長6.2m以上、羨道3m以上・幅約1.1m・両袖式形で、天井石全失のため高さ不明。
羨道       羨道西側壁   東側壁      玄門部    高さ比較(私は170cm) 両袖部 

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玄室(前室)長約2.2m・幅1.4m・高さ約1.7m、玄室側壁約1.2mまで垂直で、その上は曲線状に持ち送る。天井石は花崗岩で2枚が遺存。
玄室(前室)俯瞰    西側壁       東側壁       玄室南望      玄室天井部 

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奥室長約2m・幅0.7m・高さ約1m。奥室では底に板石が敷かれ、開口部には片開きの石扉が付されていたとのこと(奥に向かって左側上下に軸穴が残る)。「現在、奥室前の床面に扉石があるが、付近の小学校で靴脱石として使われていたのが戻された」という情報もあったが確認できなかった。玄室・奥室の壁面には全面に漆喰が塗られた跡が残る。副葬品は不詳。
 奥室扉軸穴     奥室                  西側壁       東側壁

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 道さえ間違えなければ、1時間弱で巡れます。     

弁天社古墳

弁天社古墳

2021年6月8日(火)。下図は、大和八木方面から車でアクセス。

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桜井市茅原。著名な茅原大墓古墳の古墳解説板から南へ300m、茅原集落、富士神社(上図①)境内の祠裏。古墳時代後期、両袖式の横穴式石室が露出。羨道部は埋没、玄室も半壊状態だが、奥壁隙間から玄室内に入れる。玄室に1棺と羨道に刳抜式凝灰岩製家形石棺1棺が埋葬されていたらしい。玄室のは破壊された凝灰岩製石棺の一部が残るのみで、羨道のは土砂で棺身は殆ど埋没。

富士神社進入口                   神社正面西望                    石室全景南東望                 案内

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*画像をクリックすると拡大されます。

奥壁側開口部                     羨道方面                              残存石棺                          石棺内部

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右側壁(奥壁から見て)         左側壁                                                               奥壁開口部

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東側南望                             西側北望                         南面=羨道側                      南東面

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茅原大墓古墳や巨大石室の茅原狐塚古墳がすぐ近くにあります。

2020年3月訪問時は、弁天社古墳の存在を知らず、スルーしていました。

osaka-tom.hatenablog.com

桃山古墳周辺

2021年5月11日(火)春日宮山古墳→桃山古墳→鹿高神社境内古墳→(番取山古墳)室生向坊1号墳

春日宮山古墳

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名張市赤目町一ノ井。全長34mの双円墳とされてきたが、北側尾根先端部を前方部とする前方後円墳らしい。横穴式石室は南西側に二基開口し、6世紀前半の築造。
台ケ芝1号墳から西の橋を越え、橋から567号線を北へ660mで、田んぼの中の農道から、南西の春日神社駐車場へ。ここから溜池の西側に出て、農道の獣除けフェンスの切れ目から、南の林道に入る。林道(獣道)入口に宮山古墳への道標がある。そのまま道なりに登れば、宮山古墳の標識がある。小さな色あせた黄色矢印の道標に沿って行くと辿り着く(何か頼りない道標なので、いつまで残っているか?なお、往路は白いパウチ板、復路は透明のパウチ板のようだ)。

台ケ芝1号墳から     溜池西側の農道                  宮山古墳への標識と道標 

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*画像をクリックすると拡大されます。

宮山古墳への道標                              往路と復路の分岐 

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先に見つかるのが通称東石室。両袖式で、全長6m、羨道長1.1m・幅1.4m、玄室長4.9m・幅2.6m・高さ2.5m。羨道長・全長はもっと長かったのだろう。西石室よりも、石材も大きく、こちらが主たる埋葬施設のようだ。

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天井部奥側        楣(まぐさ)石       楣石上部        開口部
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西石室の開口部は幅70cm・高さ40cm程。両袖式で、全長8.3m、羨道長3.9m・幅1.2m、玄室長4.4m・幅1.9m・高さ2.4m。

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前方後円墳では周辺で最古の琴平山古墳、次に鹿高神社古墳、そしてこの宮山古墳と続く。前2基は埴輪を伴うが、当古墳にはない。遺物は確認されていないが、名張周辺の首長の系譜を引く古墳と思われる。

桃山古墳

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赤目町丈六。6世紀末の丘陵頂部に立地する単独墳。位置的には宮山古墳とは、ため池をはさみ西隣尾根上になる。しかし、進入路は全く違い、北側の集落から南下する。

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登り口は整備されて間もないのか、笹は綺麗に刈られている。林道途中にも道標がある。5分程で、人工的に平坦に整地された所に着き、右手に石室上部が見える。

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墳丘は全くなく、石室も天井部を失っているがデカい。両袖式の横穴式石室。全長11.5m、羨道長6.3m・幅1.6m・高さ1.5m、玄室長4.8m・幅2.7m・高さ2.6m。名張では赤井塚に次ぐ大型の石室で、宮山古墳に匹敵する首長墓と思われる。出土遺物は伝わっていない。丘陵部は、もともと里山として利用され、桃山の名も桃を植樹していたことから付いた名前とのこと。

羨道           羨道上部                     楣石

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先に見た宮山古墳石室に比べ、石材は圧倒的に大きい印象。奥壁石材下端は2.4m、赤枠の側壁は横165cm・縦120cm程。

玄室           奥壁下部         側壁

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右の袖石は幅65cm・高さ120cm・奥行90cm程。羨門上部の楣石は横幅160cm・縦120cm程ある。  

玄門           左袖          右袖           楣石

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羨道前に、大きく深い穴があるが、自然崩落したものでなく、人工的に作った井戸の様な感じがするが、目的は分からない。

玄室俯瞰         羨道前の穴

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思うに元は前方後円墳で、何らかの施設を作ろうと削平した時、石室天井部の石材も抜いてしまったのだろう。しかし、結果石室下部は保存された。その規模からして当然、首長墓なのだろう。

登り口から5分程だし、初級者にはお勧めである。

鹿高神社境内古墳

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名張市安部田大殿。鹿高神社本殿すぐ裏にある。鹿高神社1号墳とも。

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前方部が東を向く全長約42mの前方後円墳で、段築や葺石などは見られなかったらしい。前方部幅約27m・高さ5m、後円部径23m、後円部がやや高い。後円部と前方部に各1ケ所ずつ横穴式石室がある。
後円部石室の開口部は高さ40cm程。全長9.8m、玄室長4.7m・幅2m・高さ1.3mの両袖式、一辺2m前後の大きな石材も使われている。棺は組合式石棺だった模様とのこと。

スマホのバッテリー残量が10%程度のため、フラッシュが使えなかった。直前に郷土資料館と市民センターで充電を依頼したが、あっさり断られた。

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前方部石室の開口部は高さ20~25cm。全長7.65m、玄室長4.5m・幅1.6mの両袖式で、一辺50cm前後の小さ目の石材が使われている。後円部石室が主たる埋葬施設なのだろう。箱形石棺だった模様とのこと。

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後円部石室からは須恵器の台付長頸壺、広口壺が出土、墳丘では埴輪円筒の破片が確認され、名張盆地を治めた首長層を葬ったと考えられるらしい。円筒埴輪片から築造時期は6世紀中頃とのこと。

(番取山古墳)

名張市安部田。鹿高神社から165号線を南へ700m、北側の細い道を上がってすぐ、民家西側に登り道があり、民家裏の崖の上。径11.6mの円墳で、横穴式石室の玄室部分に祠がある。復元すると全長6.5m、玄室長2.3m・幅2.1m程とのことらしい。165号線下側から眺めただけで、パスした。

*室生向坊1号墳

帰り道の165号線途中なので、寄ってみた。「室生口大野」駅北側。7世紀以降の径10m程度の円墳。1号墳の石室は露出してはいるが、開口部に笹が密集しており、中は見れなかった。碧玉製丸玉・鉄刀子・須恵器・土師器等が出土したらしい。すぐ近くに2号墳(6世紀末頃、径8m)の石材の一部がある。なお駅の北側の道は徒歩でしか通れない。

番取山古墳方面?            向坊1号墳方面             1号墳東望 

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名張市周辺の古墳散策は、一旦これにて終了。

滝谷古墳周辺

2021年5月11日(火)三重県名張市赤目町。(高善山古墳)→滝谷古墳→台ケ芝1号墳

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(高善山古墳)

名張市赤目町柏原。琴平山古墳・横山1号墳から道なりに180m程、台地の南側にある(上図⑩)。

琴平山古墳周辺 - OSAKA-TOM’s diary

急斜面の台地の上は平坦で、その平坦地の南側山林を上がった辺りに墳丘があるそうだ。径20m程の円墳で南向きに全長7mの横穴式石室が開口するが、内部は埋まっており入室困難とのこと。

台地への登り道らしきものはあるが、その先の笹薮がひどく断念。東隣に空地があるが私有地らしく、南奥には防護フェンスがあり、古墳側には廻り込めない。

台地の急斜面       台地の上         東隣の空地

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*画像をクリックすると拡大されます。

滝谷古墳

名張市赤目町梶川。巻頭図⑪。高善山古墳から南方向に約450m道なりに下ると、南東に上がる梶川林道への分岐がある(進入口左脇に林道石碑がある)。林道を少し上がった所に、廃墟になったテニスコート施設があり、施設に入る手前の空地や施設前の駐車場に駐車できる。

梶原林道への分岐  碑(左写真の黄〇)   手前の空地     廃墟施設の駐車場   テニスコート     

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林道をテニスコート沿いに南東へ。テニスコート南端辺り、左手側に東に登る林道がある。進入口が草深いので、少し先から脇道に上がり、100m程東に行った右手にある。

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開口部の高さは120cm程あり、羨道はもっと高く、楽に入室できる。

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径12.5m、高さ4.8mの円墳で、右片袖式の横穴式石室が南に開口。全長8.9m、玄室長3.7m・幅2.2m・高さ2.5mの大型石室。

羨道        玄室         奥壁上部     北側壁       南側壁

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             右袖部         玄門上部楣石

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台ケ芝1号墳

名張市赤目町柏原。巻頭図⑫。梶川林道への分岐から少し南の柏原橋を渡り、西へ70mで墓地への登り道がある。この道が右に大きく曲がる箇所のすぐ左上にある。

墓地への分岐    台ケ芝1号墳方面              墳丘北望   

横穴式石室の開口部は幅90cm・高さ60cm程。全長5.8m、玄室長3.6m・幅2m・高さ1.8mの右片袖式。周囲にもいくつか墳丘がある。

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ここから、春日宮山・桃山古墳へ向かう。

osaka-tom.hatenablog.com