OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

鳳凰寺古墳群

鳳凰寺古墳群

2021年4月20日(火)。名阪国道=中瀬IC→前塚・桐ノ木古墳群→鳴塚古墳→鳳凰寺古墳群→辻堂古墳→(安部山・墓の谷・神林・下中島・向山・前山古墳群)→中切古墳→(阿弥陀寺山古墳)→猪田神社古墳→(吉田谷古墳群)→(石山古墳)→王塚古墳→天童山古墳群

 

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鳴塚古墳

上図⑩。鳳凰寺の集落を抜け、農道を東方面に進むと、鳴塚古墳が田んぼの中にポツンと佇む。すごく狭いが、古墳下まで舗装道路が続き、古墳西側に小さな原っぱがある。Uターンできそうでもあるが、念のためバックで進入。

伊賀市鳳凰ぼおじ鳳凰寺古墳群のA支群でもある。6世紀前半、37mの前方後円墳。後円部径21m・高さ4.8m、前方部長さ16m・高さ2.85mとのこと。天皇のご譲位がある度に塚が鳴る」という伝説が由来で、小さいが割と著名。乳文鏡・玉類・須恵器等多くの副葬品が出土。他に類のないものもあり、文化の高さを示すという。墳丘前の石碑には、38代天智天皇の伊賀の采女うねめ「宅子やかこ」の墓とも、その子(=大友皇子)の墓とも伝わるという内容が書かれている。

天智天皇と宅子の子=大友皇子は、明治3年に39代弘文天皇追号されているが、壬申の乱(672年)で敗れ自決したとされる。大津に陵がある。

全景               石碑               南面前方部方面

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*画像をクリックすると拡大します。

後円部南側に開口部がある。片袖型の横穴式石室で全長約9.2m、羨道長4.4m・最大幅1m・最大高1.4m、玄室長4.5m・最大幅1.6m・最大高1.9mらしい。開口部さえクリアすれば、這ってそこそこの所まで行けるかもしれないが・・・・・。

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前方部から後円部     後円部墳頂から西望   南側見下ろし       後円部から前方部

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鳳凰寺古墳群

当古墳群については、殆ど資料が無く、大半「大和國古墳墓取調室」さんの記事を参考にさせていただいています。

大和國古墳墓取調室

鳳凰寺集落の東に分布する。76基あり、A~Kの11支群に分かれ、A支群は、唯一の前方後円墳である鳴塚古墳とのこと。

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B支群はパスし、C支群→E支群→F支群と巡ったので、巡った順に記載します。

*B支群 北側尾根に10基。4号墳のみ方墳(消滅)で他は円墳。西端から3~5号墳が並び、尾根中央に6~9号墳が並ぶらしい。

C支群

鳴塚古墳から東の森に500m進むと、割と広い市道との三差路に出る。そこから更に400m程行き、道が北西にカーブしてすぐ左=西側に車1台置けるほどスペースがある。ここがC支群の進入路。そこから西に小道が続き、道沿いに分布するので、かなり分かり易く、30~40分で回れた。
進入路すぐ西の大きな墳丘がC18号墳。径20m程で、墳頂は大きく陥没。西側の17号墳は低い墳丘のみ。

進入路       18号墳裾東望    全景        墳頂の陥没     17号墳

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西隣の16号墳は径18mで周溝が残る。小道の反対側に、右片袖式の横穴式石室が開口。元は羨道長5m・幅1.5m・高さ2m、玄室長4.6m・幅2.1m・高さ2.5mらしいが羨道は殆ど破壊されている。側壁はかなり持ち送っている。なお玄室床は水没していている。

16号墳(青矢印が周溝) 墳頂南東望     開口部                 大きさ比較

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羨道        玄門部        玄室                  入室装備

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         *上の写真右端は、私の装備=軍手・自撮り棒・ランタン・懐中電灯(指さし式)

更に、少し西にある15号墳は、墳頂がやや陥没。14号墳は南側に横穴式石室が開口し、大きな羨道天井石が目立つ。羨道部はかなり残っているが、玄門辺りから土砂で埋まっている。墳頂北側が陥没し、そこに15~20cmの穴が3ケ所開いており、ここから盛土が流入したのだろう。

15号墳西望     墳頂        14号墳西望     開口部       石室内

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13号墳は墳頂が大きく陥没。13号墳から西はかなり下っており、墳丘らしきものが見える。

13号墳西望      墳頂        西側見下ろし    北西側        13号墳以西

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E支群

C支群とは谷間を挟んで南側。市道北側の杉林内に2基並ぶ。6号墳は径10mで、墳頂は陥没し、石材が散乱。

6・5号墳      6号墳北西望     墳頂         A4ファイルと比較   散乱石材 

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西側の5号墳は横穴式石室の天井石が露出しているが内部は埋没。少し下ると1号墳で径10m。石材が散乱。

5号墳北西望        5号墳から1号墳方面西望  1号墳         墳頂

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市道南側の『斜面を100m程登ると、林の中に3号墳、墳丘はなく石材が散乱。その50m上方の4号墳は径10mの円墳、石材が一部露出。少し南の道沿いに2号墳、径20mで墳頂に石材が散乱』とのことだが、墳丘らしいものが多すぎて、中級者にはよく分からなかった。

市道南側の林道   林道見返り      林道東側  

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F支群

林道に入ってすぐ東脇に、低い墳丘らしきものがあり、石材が転がっているのが5号墳??。その南東すぐに明らかな墳丘=7号墳があり、天井石の隙間が少し開いているが、内部は土砂で埋まっている。8号墳は見過ごしてしまった。

F支群方面      林道東脇の石材   7号墳遠景      近景        天井石露出部分

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林道を更に進み、北へ急カーブする内側辺りに9~12号墳があるとのこと。林道東側、やや奥の9号墳は分り易いが、10~12号墳らしき墳丘は??? 下の右端写真(=林道が北にカーブしきった所で振り返った写真)に写っているのが12号墳かも

7号天井石の隙間   隙間内部              9号墳遠景        12号墳?  

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7号墳と林道を挟んだすぐ西側にF18号墳。F支群で唯一横穴式石室が開口し、玄室奥側が残存。元は全長6.4m、羨道長1.8m・幅1m、玄室長4.5m・幅1.5m・高さ1.5mとのこと。北西に市道側へ少し下った所に17号墳。石室石材が露出するが内部は埋没。

18号墳北西望    南側開口部      石室内            17号墳露出石材 

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17号墳の北西、市道を西に越えたすぐに13号墳。西に隣接して12号墳の石材が露出。更に西に11号墳。墳丘がよく残り、石室入口の天井石が露出するが内部は埋没。

13号墳       12号墳       11号墳        開口部        内部

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三差路の北脇に20号墳、墳頂が陥没し石材が散乱。

三差路北西望       20号墳         墳頂の陥没        鳴塚に戻る

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時間の都合で、その他パスし辻堂古墳から最後の行程へ向かう。

辻堂古墳周辺 - OSAKA-TOM’s diary

前塚・桐ノ木古墳群

前塚・桐ノ木古墳群

2021年4月20日(火)。名阪国道=中瀬IC→前塚・桐ノ木古墳群→鳴塚古墳→鳳凰寺古墳群→辻堂古墳→(安部山・墓の谷・神林・下中島・向山・前山古墳群)→中切古墳→(阿弥陀寺山古墳)→(猪田神社古墳)→(吉田谷古墳群)→(石山古墳)→王塚古墳→天童山古墳群

*()内は、墳丘の明確な確認に至らなかった所です。

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伊賀市寺田。上図⑨。南宮山(349m別名伊賀小富士=頂上が浅間社)の南に位置する岡山の南斜面。広範囲に分布する古墳群。A~H支群と3基の単独墳。上野市史には計39基とあるらしいが、なんかもっと多そう・・・・・。

―念のための注意事項です―

・記事・写真は2021年4月です。月・季節が違うと見え方や様子がかなり異なる場合が多いです。また年数がたつと更に・・です。

長袖・軍手必須(笹や小枝から防御。スマホ操作のため、軍手は人差し指先を切っておく)石室見学時は懐中電灯・大きなナイロン袋必携(狭い開口部の腹這い入室時使用)春~秋は虫除けスプレーも。

スマホ・自撮り棒(入室できない石室撮影用)。晴れた日は影で大体の方角が分かりますが、コンパスもあった方が良いでしょう。

・一般的に山中の古墳は、笹・草・蚊・蛇等の大敵が多い夏場は、避けるべきです。

【豆知識その11】

蚊:活動温度は20度位以上。夕方~夜間に活動する家蚊と違い、藪蚊は昼間が主な活動相時間帯。
蛇:冬眠は10度以下。逆に10度を超えると活動し出す。マムシは子を産む時期=8月~10月は攻撃的。

笹:成長し皮が剥がれていくのが竹、成長しても皮が残るのが笹。まー、大きいのが竹、小さいのが笹ぐらいの感覚で良いらしい。ともに地下茎により横方向に伸び、そこから何本も芽を出す。4月位に芽を出し、5~6月急成長する。クマザサとよぶ種類は、高さが1-2mになる大型の笹で、葉の長さが20cmを越え、幅は4-5cm。葉に隈取りがあるのが名前の由来。隈取りは若葉にはなく、葉が越冬するときに縁が枯れて隈取りになる。なお稲・竹などの中空になっている茎の事を稈(かん)と呼ぶらしい。

 

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*支群の位置や各墳丘の位置(数字)はあくまでイメージです。特にA・F支群の位置は自信がありません。
案内図→行者堂→北向地蔵→A支群→27号墳→B支群→C支群→D支群→E支群→H支群→参道→39号墳(発見できず)→4号墳→(B支群を再び南下)→F支群→G支群と、巡った順に記載します。
私の場合2021年4月11日に2/3程回り、その続きを4月20日に回りましたが、大体の位置がわかっていても全行程10時間程掛かりました。この記事はそれらをまとめて掲載しています。
なお上図の太い点線は山道なんでしょうが、あまり笹が茂っていない4月でも殆ど見分けがつかないので、アテになりません。

A支群

毘沙門寺南側分岐(岡山遊園地の案内図)から東へ、大光寺へ向け参道(=山道)を登る。行者堂を過ぎ、北向地蔵から1~2分程、「右だいし道」の石道標から左(=北)の獣道へ向かう。

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 *画像をクリックすると拡大します。

暫くは割と判り易い山道を道なり。上に登る道から道なき道を水場近くまで行く。
ここで斜面を駆け上がる3匹の鹿を見ました。また「ケーン」という雉の鳴き声と、母衣打(ほろうち)と呼ばれる両翼を胴体に打ちつけて鳴らすブルブルという羽音を聞きました。

石道標分岐から1分程 更に2~3分後  更に1分程で北に登る道 4~5分で水場手前  水場

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水場のやや手前から、真上=北東へ真っ直ぐ登って行く。尾根上の杉林に3・2号墳。3号墳は径16m、すぐ上の2号墳は径12m、いずれも墳丘が良く残るらしいが、中級者には微妙。急斜面を更に1~2分程登ると1号墳。径13mで、南向き石室の欠損穴が先ず見える。

2~3分で左に石材  1号墳見上げ     欠損穴                墳頂

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左へ回ると、奧壁側=北側が開口。羨道幅約1m、玄室長さ4m弱・幅2m・高さ1mの左片袖式。

欠損穴内部               奥壁側の開口部           埋まっている羨道方面

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27号墳

元の分岐に戻り、参道を東に行ってすぐの、もう一つの石道標から南西側に少し登ると27号墳。径16mらしいが詳細は不明。

分岐を東方面    進入路       石道標       南望        南東望

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B支群

A支群への分岐から東へ100m程、参道左脇に5号墳(石材を抜いた跡だけ)がある。B支群はそこから南側真下にあるが木々が茂るので、5号墳少し手前の比較的降り易い所から、南東に斜面を下りきると、唯一の目印の溜池がある。この溜池が見つかればB支群以降のメドが立つ

5号墳石室跡     少し手前の境界標  降り口       9号墳東望     青〇が溜池

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池のすぐ上=北に径14mの9号墳、池側に石室が開口、狭いが奥は見れる。その東横に11号墳があり、石材が露出。9号墳すぐ上に7号墳、石室内部は埋没している。その西側すぐに8号墳=径13mで入室可能な横穴式石室(全長6m、玄室は長さ約3m・幅1.9m・高さ1.4mとのこと)。更にその少し北東に6号墳があるが、石室は埋没。その北に10号墳、開口部は狭いが奥壁は見れる。

9号墳近景東望    ピンク〇は7号墳   開口部       石室内

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11号墳北東望=ピンク〇9号墳 墳頂南西望  7号墳       開口部       石室内

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8号墳        開口部       石室内

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6号墳開口部     石室内       10号墳開口部    石室内

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C支群

B支群11号墳から、池の北側を東へ横切り、細い水路を越え尾根の上に登る。

11号墳から     青線が水路     13号墳方面     13号墳頂西望    南望

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13号墳はC支群の最北(上)部にあり径13mで、崩壊した石室が露出。14号墳は径12m。15号墳は径9mで石材が少し露出。

13号墳頂の石材   矢印から内部    14号墳方面     14号墳       15号墳

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15号墳から南東に少し下った所に12号墳、径13mで、横穴式石室の玄室奧側が残存露出。現存長1.6m、幅1.8m、高さ1.8m程。

12号墳方面     12号墳東望     残存石室                高さ比較

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12号墳から西、池の南端辺りの16号墳は径18m、墳丘がよく分かる。墳頂窪みが少し開口しているが、薄っすら側壁が見える程度。12号墳との間位に、径12m程の17号墳があり石材が散乱。18号墳は、更にその南に下った所に、少し離島の様な感じ。

16号墳       墳頂の窪み     開口部       17号墳(ピンク〇16号墳) 18号墳

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D支群

C支群12号墳辺りから南東、谷へ降りる。19号墳は一番南端で径16m、163号線が窺える。20号墳は径10m、崩れかかった石室壁の一部が露出し、少し中が見える程度(現存長1.3m・幅1m・高さ1m程)。21号墳は径14mだが、崖っぷちに石材が露出。中が見える。現存長8mとのこと。

19号墳方面見上げ  20号墳開口部    内部        21号墳西望     石室内部

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E支群

D支群21号墳から緩やかな斜面を北へ登る。22号墳は径14mで、横穴式石室の両側壁奥側と奥壁が完全に露出。幅1.5m・高さ1.2m程。墳裾に大きな石材が残る。23号墳も径14m程で墳頂がやや陥没。24号墳は径9mで、H支群側に、幅1m程の小型石室が開口し、奧側が見える。

22号墳北望     石室残存部     23号墳窪み西望   24号墳北東望    開口部

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H支群

E支群23号墳辺りから東隣りの尾根に登ると37号墳。径16.5mで両袖式の横穴式石室が完存。全長8.3m、羨道幅1.8m・高さ1.2m、玄室長4.5m・幅2m・高さ2.3mとのこと。

37号墳北東望    開口部       石室内

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南東隣の38号墳は径20mと大きいが埋葬施設は不詳。その南東下の36号墳も径20m。南側に開口するが、天井石が落ちかかっている。

38号墳北東望    36号墳南望     36号開口部     石室内

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35号墳は径13mで、横穴式石室は全長6.7m、羨道幅1.25m・高さ1.15m、玄室長4.2m・幅1.9m・高さ2.3mの右片袖式とのことで、西に開口する。

35号墳開口部              石室内

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34号墳は径7.5mで、石材が散乱。33号墳は径13.5mで。全長4.9m、玄室長3.6m・幅1.3m・高さ1.4m、無袖式の横穴式石室が西に開口。尾根南端の32号墳は径9.5mで石材が散乱。

34号墳北東望    33号墳開口部    A4ファイルとの比較  石室内       32号墳

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なお、37号の北東に割と大きな墳丘があった。ここから、勘で尾根をひたすら北上したら、大光寺への参道に出た。

?号墳北東望     墳丘の穴                      H支群真北の参道脇石仏

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39号墳・4号墳

参道脇の石仏から東に進み、参道が北西に急カーブする分岐からやや南東に下って行き、竹林手前まで行ったが、39号は断念。参道をB支群まで戻る途中、参道南脇に4号墳があった。

参道分岐      39号方面?               4号墳見上げ     東望

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F支群・G支群

B支群を再び下り、9号墳辺りから笹・倒木・沢を越え、更に南西へ下る。本来なら、行者堂からG支群→F支群と行く方が判り易いはずなので、このルートはお勧めできない。案の定F支群では25号墳26号墳か確信が持てない。
更に西に行くとG支群。上方崖っぷちに開口した石室が見えた。どなたかが発見したG支群の号数の付されていない墳丘だ(地図上にはNで表示)。羨道も2m程残り、玄室はキレイに持ち送り、高さも2mを越えそうな感じ。

25号墳?北望    26号墳?      N号墳開口部              玄室

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28号墳は径13mで墳頂は長方形に陥没している。29号墳はその南西下で、径12mで墳丘は判り易い。30号墳はその南東下で径10m、横穴式石室がわずかに開口。南西下の竹がはえている辺りの31号墳は径10mで石室跡が陥没。ここから行者堂方面に戻る際、獣除けの紐製の網が何カ所か進路を阻んでいるが、何とかクリアして戻れた。

28号墳頂      29号墳       30号墳見下ろし   北東見上げ     31号墳方面

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前塚・桐ノ木古墳群は、まさに古墳散策上級者の領域です。私が思う上級者とは、笹や地形に惑わされず墳丘を探し当て、開口部の狭い石室でも躊躇なく入室できる方です。

という意味では、私はまだまだ中級者。

ここから、有名な鳴塚古墳(鳳凰寺古墳群)へ向かいました。

鳳凰寺古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

中ノ瀬古墳群周辺

中ノ瀬古墳群周辺

2021年4月11日(日)。名阪国道=壬生野IC→(東山古墳跡)→御旅所古墳→宮山古墳群→波敷野古墳群→御墓山古墳→勘定塚寺音寺古墳中ノ瀬古墳群

寺音寺古墳

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上図⑦、伊賀市かしき村。元は全長約100mの5世紀中頃の前方後円墳とのこと。現在前方部の大半は削られ、長さ60m・径40mの後円部が田んぼの真ん中にポツンと佇む。周囲には20mの周濠が巡っていたらしい。

隣接する農道は狭く、車を置く場所は付近にもありません。車が来ないことを確かめて、碑の前に車を止め、パパッと写真を撮るのが精一杯です。

*前回の②御旅所古墳~⑥勘定塚はコチラ宮山古墳群 - OSAKA-TOM’s diary

遠景西望      〇印の碑      近景南望      現存墳頂南望    南東望

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画像をクリックすると拡大されます。

中ノ瀬古墳群

上図⑧。伊賀市真泥みどろ

国道163号線から服部川を挟んだ南対岸に10軒程の集落がある。集落の南西側急斜面に獣除けの頑丈な防護フェンスがあり、その向こう側に5基の円墳がある。私は集落西奥の防護フェンスの可動扉部分から、フェンス沿いに南東側に回り込み、そこから1→2→5→4→3号墳と巡りましたが、後から考えると、集落入口近くの可動扉部分から3→4→5→1→2号墳と回る方が余程判り易かったようです。
なので、その順に紹介します。   *下図の〇数字は「号数」

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*古墳の位置は計測に基づくものではなく、あくまでイメージです。

集落一番手前のお宅を左へ。  防護フェンス沿いに開閉可能フェンスへ  開扉防止フックは外せる。

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中ノ瀬3号墳

径15m程、高さ4m程の円墳とのことで、見た目に墳丘傾斜が急。横穴式石室が南東に開口。

開閉扉から右へ登る    開口部         墳丘北東望       開口部反対側

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開口部は幅80cm、高さ65cm程で入室可能。玄室は全長6.1m、玄室長4.9m・幅1.8m・高さ2.1mの両袖式とのこと。

開口部       玄室        開口部見返り    貧弱な左袖部    右袖部

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中ノ瀬4号墳・5号墳

3号墳の15m程上、竹林の中の4号墳は径12mの円墳とのこと。墳丘傾斜はなだらかで、半分削られ石材が露出している。
4号墳の更に上にある5号墳は径13mの円墳で、墳丘に石材が見える。

4号墳見上げ               横から      5号墳       4号墳から1号墳方面

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中ノ瀬1号墳

4号墳辺りから西~北西方面に1号墳が窺える(上の右端の写真。小さな赤〇が開口部)。径20mの円墳で、横穴式石室が完存。全長7.5m、玄室長4.5m・幅2.3m・高さ2.3mの両袖式とのことだが、開口部が狭く、入室は無理。

開口部       羨道から玄室方面  右袖部       左袖部       墳丘

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中ノ瀬2号墳

1号墳の20m程上、径15mの円墳、墳頂が陥没している。

なお、1号墳から集落側はかなり急で、西側の可動フェンスに降りる急斜面には数多くの石材が散乱している。

2号墳右赤〇(黄〇1号墳) 墳頂の陥没    1号墳見上げ    集落側       散乱石材

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①御旅所古墳から⑧中ノ瀬古墳群を見終わるのに約4時間。続いて伊賀市寺田、岡山の南斜面に点在する前塚・桐ノ木古墳群へ回りましたが、詳しくは次回のブログで紹介します。

前塚・桐ノ木古墳群 - OSAKA-TOM’s diary (hatenablog.com)

宮山古墳群周辺

宮山古墳群周辺

2021年4月11日(日)。名阪国道=壬生野IC→(東山古墳跡)→御旅所古墳宮山古墳群→波敷野古墳群→御墓山古墳勘定塚 →寺音寺古墳・中ノ瀬古墳群(別ページに掲載)

伊賀市北部をグルっと巡るので、今回は車で。巡った順に記載していきます。

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東山古墳跡

上図①。伊賀市円徳院。壬生IC~約1.2km、県道49号沿いに登り口がある。山の中で跡だけなのでパスしました。

円徳院東山の丘陵先端で、比高差約25m。中世に城館一部として利用され墳形は不詳。長径21m・短径17mの楕円形だったとのこと。墳丘に葺石や埴輪は無く、1986年の発掘調査で、長さ6,9m・幅2.3mの墓壙に割竹形木棺が納められていた。棺底に朱が敷かれ、四獣鏡1・銅鏃3・鉄鏃1・鉄剣1・小型高杯・小型器台1・砥石1が棺内から出土。副葬品の土器の形状や調整の仕方から、3世紀末~4世紀初めと推定され、県下最古級だったらしい。

御旅所古墳

上図②。伊賀市馬場。6世紀後半。陽夫多やぶた神社参道南側。石舞台のようにむき出しの両袖式の横穴式石室。羨道長4.8m、玄室長5m・幅2.6m・高さ2.2m。

遠景南望      近景南望      案内        南西望   〇印穴から石室内羨道方面

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画像をクリックすると拡大されます。

宮山古墳群

上図③。伊賀市馬場。陽夫多神社の裏山。 

陽夫多神社参道   境内北望      〇印の処の案内         神社拝殿へ=古墳群登り口

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拝殿見上げ=進入路    古墳群へ

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宮山古墳群2号墳

少し登ると、2号墳と3号墳の分岐に道標があり、左へ行くと2号墳。反対側に回り込むと、2号墳の石室開口部がある。

分岐道標         2号墳東面        開口部         案内

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開口部は幅50cm・高さ30㎝程、床まで180cm位斜めに下る。無理して入らず、自撮り棒で外撮り。

石室全景        奥に向かって左側壁    右側壁         天井石 

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宮山古墳群1号墳

分岐に戻って1号墳へ。墳丘は明確。3号城郭跡の空堀跡は写真では分かりにくいが、U字型に抉れている。

北西望       案内        北東望       3号城跡案内    空堀

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宮山古墳群3号墳

3号墳方面      道標        開口部       案内        開口部

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羨道含め完存。開口部は高さ65cm程あり、入室し易い。玄室も高さ180cm以上ある。

羨道部                      玄門部

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石室全景   側壁     奥壁上部   開口部方面   両袖部          楣(まぐさ)石

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波敷野古墳群

伊賀市波敷野はじきの 陽夫多神社~5.5km程。7C前半の群集墳らしいが、目的地直前で断念。

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確かに車ですぐ近くまで行けます。分岐から880m登った処に大きな溜池があり、ここを過ぎる辺りから、車幅ギリギリ。4月でも道の両側から笹が張り出し、車の両サイドをガサガサこする音が激しく、サイドミラーを畳んで進みました。「道を間違っていて、この先行き止まりでは?」という不安を抱えながら更に700m程進んだ処で、道が直角に右折しており、その先が割と広くなっています。車から降り確認しましたが半信半疑のせいもあり、先の道がハッキリ確認できず、ここで諦めてUターン。後で思えば、ここに車を止めてもっと探せばよかったのかも・・・。ただし、この道が正解ならですが・・・。なお、スリップしやすい雨の日や、新車ならお勧めできません。また、分岐地点に車を置き、歩くと約2km、標高差110mの登りです。

直前でリタイアしたのは残念ですが、大きな溜池に戻る途中、目の前で母?子3羽の雉キジが道を歩いて横切りました。これは日本書紀にある瑞祥?(または祥瑞=吉兆のことで飛鳥・奈良時代などに年号を改めるキッカケになったりした)。確かにこの後は順調でした・・・。

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常々参考にさせていただいているブログ「大和國古墳墓取調室」の当古墳群が掲載されている「伊賀市(旧阿山町)」を参考でリンクします。

大和國古墳墓取調室

御墓山古墳

下図⑤。伊賀市佐那具町。5世紀前半、三重県最大の前方後円墳

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墳長約180~190m、2段築成の前方後円墳。後円部径約100m、前方部幅70~80m(進入路の案内と墳裾の石碑で計測値が微妙に違う)。木々に覆われ墳形は不明瞭だが墳丘を歩くと前方後円墳と分かる。

進入路          進入路左側の案内    登り口の碑       案内石碑

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丘陵先端を切断して築造しているとのこと。前方部が北東を向く。墳丘は2段築成だが、前方部裾に葺石を伴う地山があり、前方部墳頂から見ると3段のように見える。後円部北西側に造出が設けらている。墳丘表面は葺石で覆われ、円筒・形象・家形埴輪などを検出したらしい。後円部南側に周濠があった模様(前方部周囲はない)。後円部南東側、周濠外側に接し陪塚らしき10mの墳丘2基がある模様(石碑案内では円墳とある)。後円部墳頂の径30m程の平坦面に窪みがあり、主体部の盗掘壙と見られるが詳細不詳。

東側くびれ部方面  東側くびれ部から後円部 残存葺石    後円部北東望 

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後円部平坦部  中央窪み(大きさ比較タバコ) 後円部から前方部  前方部から後円部  前方部

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柘植つげ川流域で東山古墳・山神寄建やまがみよつたて神社古墳に次ぐ首長墓だが、規模が格段に大きい。被葬者は、伊賀地域を代表する首長と思われ、地元では第8代孝元天皇皇子の大彦命おおびこのみこと=日本書紀にある第10代崇神天皇期の四道将軍の一人)の墓と伝わる(注)。なお、御墓山古墳以降の首長墓は柘植川対岸に場所を移し、規模はかなり縮小する。1921年(T10)に国の史跡に指定、1970年(S45)には丘陵切断部・堀の一部・造出・陪塚の範囲が追加指定されたとのこと。

(注)因みに、古事記では孝元天皇の宮も陵も奈良県橿原市。また日本書紀崇神10年9月「四道将軍大彦命が和珥坂(現奈良県天理市和爾町)で不思議な歌を詠う少女に出会い、その歌を天皇に報告する。倭迹迹日百襲媛(やまとととひももそひめ=あの著名な箸墓古墳の被葬者説も)は、これを武埴安彦とその妻吾田媛による謀反前兆であると告げた。果たして謀反が起こったが、すぐ鎮圧された。」ともあり、伊賀との関係は無いように思うが・・・・・。

勘定塚古墳

下図⑥。伊賀市外山。7世紀前半。古墳と言うより残存石室。

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外山集落の丘陵裾の民家横。墳丘は大半流失し、横穴式石室の巨大な天井石とそれを支える側壁が残存。残存長約4.5m・幅約3.5m・高さ約2m。1964年(S39)に市の史跡指定。

勘定塚方面   左へ(右に上がると塚の裏)     階段を上り斜め右へ(夏場は草深いかも?)

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正面北望      奥壁と祠      西側壁       東側壁       天井石

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東側壁外側     西側壁外側    北東に残る墳丘の一部 裏側       裏側から南東見下ろし

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続いて、寺音寺古墳~中ノ瀬古墳群へ向かいました。

中ノ瀬古墳群周辺 - OSAKA-TOM’s diary

鳥谷口古墳周辺

鳥谷口古墳周辺

2021年3月26日(金) 奈良県葛城市 當麻寺周辺の古墳散策

近鉄南大阪線当麻寺駅首子古墳群新宮原古墳→當麻山口神社・傘堂→鳥谷口古墳→ 當麻寺竹内古墳群→(旧)竹内街道磐城駅

首子古墳群

葛城市染野そめの、当麻寺駅より徒歩約15分。古墳時代後期(6世紀初頭~7世紀中頃)の古墳群。古くから首子七塚として知られていた。帆立貝式前方後円墳1基、円墳6基、方墳3基で構成されていたが、1・4・5・8号墳のみ現存。1981(S56)年に県史跡に指定された。中心的古墳は「5号墳(=首子塚)」で、説明板も5号墳のところにある。いずれも墳丘には登れるが、知らない方には崩れかけた小山にしか見えないだろう。いずれもこの地の当麻氏関連の墳墓と思われる。

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印辺りは奈良県景観資産の一ヶ所になっている。

奈良県景観資産―二上山を眺望できる首子古墳群周辺―/奈良県公式ホームページ

*当麻氏=日本の古代氏族。日本書紀11代垂仁天皇条に、大和国の当麻邑(たいまむら)に住んでいた当麻蹴速(けはや)の記事がある。野見宿禰との捔力(すまひ=相撲)で敗死したという。葛城市當麻には蹴速塚がある。その他、31代用明天皇の第三皇子で当麻皇子も著名。麻呂子皇子ともいう。征新羅大将軍であった異母弟の来目皇子薨去後、翌推古天皇11年(603年)4月に征新羅将軍となり、難波から船出したが、播磨国(明石)で妻が薨去したため、引き返したという。

首子8号墳

径12mの円墳で埋葬施設は横穴式石室(全長7.4m、玄室長3.7m・幅1.4m、羨道幅1m)。殆ど破壊され石室の1段目の一部及び凝灰岩製組合式家型石棺の底石のみが残っていて、須恵器・土師器・金環・鉄鏃・飾鋲等が出土とのこと。今は墳丘も半壊している。

上図★から(左8号墳 右5号墳) 遠景南西望      墳丘南西望       現在の墳頂

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画像をクリックすると拡大されます。

首子5号墳

8号墳から道を挟んで北東側。帆立貝式前方後円墳で「首子塚」と呼ばれる。全長25m・後円部径20m前後。円筒埴輪列検出。古墳群中では一番大きく、盟主的存在。埋葬施設は未確認だが木棺直葬と思われ、6世紀前半と考えられるらしい。

遠景北望         登り口南東望       案内         墳頂碑南西望(○が8号墳) 

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首子4号墳

5号墳の北西に隣接。墳丘が一部残る程度。1辺27m・高さ4~5mの方墳らしい。埋葬施設は破壊されていたが、片袖式横穴式石室と判明。玄室長4.4m・幅2.5m、羨道部長2m以上で家型組合式石棺の底石の一部が出土し、副葬品は須恵器のみ。6世紀後半と思われるとのこと。

北望           南東望-黄○は案内                 東望

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首子1号墳(別名 櫟山くぬぎやま古墳)

現状径10m・高さ3m程の円墳。(復元径18m・高さ約5m)。調査当時埋葬施設はよく残っており、先行する第1主体は家型石棺直葬で、1953年土取り工事中にこの石棺から人骨3体が発見されたとのこと。第2主体は、1978年再調査時発見され、破壊された両袖式横穴式石室(玄室長3m・幅1.5m、羨道長3m・幅1m程)と判明。副葬品として金環・棗玉・素玉・須恵器が出土。凝灰岩の破片が玄室内から出土しており、凝灰岩製組合式石棺の可能性が強いとのこと。第1主体が6世紀中頃、第2主体が6世紀後半らしい。

遠景北西望        近景南望        南西望          墳頂

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・首子2号墳(削平され水田) 一辺15mの方墳で、埋葬施設は破壊されていたが、木棺直葬の可能性が高い。円筒埴輪片・家型埴輪片・須恵器が出土し、須恵器から6世紀中頃と思われるらしい。

・首子3号墳(削平) 墳形不明。鉄釘が出土し、組合式木棺直葬らしい。鉄製武器(鉄刀等)が検出された。6世紀中頃とのこと。
・首子6号墳(削平され畑) 東西23m・南北11m・高さ2mの古墳の可能性があるが古墳痕跡未検出。。
・首子7号墳=只塚廃寺跡 当初、辺17mの方墳とされていたが、金堂と考えられる白鳳時代の建物基壇検出。多種類の道具瓦も出土し、後年調査で寺院跡と判明。
・首子9号墳 古墳時代の須恵器片が検出されたが、古墳かどうかは不明らしい。
・首子10号墳(削平され水田) 調査で径13mの円墳と判明。須恵器砕片が出土し6世紀中頃とのこと。

 

首子古墳群から西進。下図右の点線○が新宮原古墳。左の青●が鳥谷口古墳

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新宮原古墳

当麻寺奥院駐車場の道を挟んだ北側。また當麻山口神社の石鳥居の北側でもある。山車倉庫で墳丘が削られている。墳形・規模は不明で、6世紀後半と見られるらしい。須恵器と石棺の一部を検出。近所の民家に凝灰岩製組合式石棺の一部が保存されているらしいとのこと。

古墳周辺         石鳥居         北西望          南東望

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當麻山口神社・傘堂

参道        拝殿        縁起        傘堂        案内  

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鳥谷口古墳

葛城市染野そめの。7世紀後半頃の方墳。奈良県指定史跡。大津皇子(40代天武天皇皇子)墓に比定する説あり。

二上山から東に延びる尾根の先端部付近。1983年(S58)溜池=大池の改修工事の際に発見された。方墳で、一辺約7.6m。墳丘表面で2段の貼石が認められたほか、墳丘南面以外の三方に掘割が巡っていたらしい。埋葬施設は横口式石槨で、石槨の主軸は東西方向で、南方向に開口。底石の上に板石を立て、その上に天井石をのせる。石槨は長さ160cm・幅60cm・高さ70cm、開口部は幅40cm・高さ50cm。二上山産の凝灰岩製で、底石および北側石には家形石棺蓋石の未成品が使用されているとのこと。石槨開口部側には、羨道状施設の存在も推定される。盗掘で石槨内の副葬品は認めらず、石槨前面付近で須恵器・土師器を検出。

          遠景北望           近景           案内(染野=しの)

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大津皇子は40代天武天皇の第三皇子。母は、(天武皇后)41代持統天皇の実姉大田皇女。朱鳥元年(686)9月天武崩御後、10月に謀反の疑い有りとの密告で自害した。一説には、持統実子の草壁皇子擁護のため、持統・藤原不比等の陰謀とも。大津皇子の墓について『万葉集』には姉の大来皇女(初代伊勢神宮斎王)大津皇子のために詠んだ歌として、
大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る(改葬)時に、大来皇女の哀傷して作らす歌ー
「うつそみの人なる我あれや明日よりは 二上山を弟いろせと我が見む」とある。
初葬地の所伝はないが、改葬地に関し『大和志』では「在二上山二上神社東」とあり、宮内庁では二上山雄岳山頂に治定。しかし当時、古墳が山頂に築造されることはなく、付近で当該時期の古墳はここだけなので、二上山山麓の本古墳を真墓とする説がある。さらに、「染野」は貴人の土地を意味する「標野」に由来すると考えられ、本古墳石槨が内法長150cmと小さいのは改葬墓故というのが根拠。

          保存石槨           開口部          発掘当時の石槨

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石槨内北側石       石槨内西側隅       開口部右側       見下ろし

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當麻寺・本堂下古墳

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當麻寺本堂の下に埋まっている。本堂はS32年(1957)から35年間もかけて解体修理が行われ、その際発見されたらしい。基壇中央部にほぼ南北方向に検出され、木棺の周辺や上部を塊石群で覆った礫槨。礫槨外寸法は、長さ2.4m・幅90cm、木棺は、長さ1.9m・幅58cm。鉄剣二振り、鉄斧2丁などが出土。5世紀中期頃か?。

本堂南望                      北面

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竹内古墳群

34基からなる古墳群。多くは径10m程度の円墳で、5世紀末から6世紀後半にかけて造り続けられた。県指定史跡。殆ど私有地で見学不可だが、うち4基が史跡の丘に保存されている。

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竹内22号墳

葛城市竹内。『ほんみち竹之内廟所』敷地内。見学を申し出たが許可されなかった。

全長42mの前方後円墳。後円部径24m・高さ5.5m、前方部幅31m・高さ4.5m。周囲に幅5.5mの周濠があったとのこと。前方部に横穴式石室が開口。後円部にも横穴式石室があったが、石材が抜取られた跡だけ。竹内古墳群で唯一石室が開口。22号墳のすぐ北側に34号墳=「茶山古墳」。S21年に調査され、疑灰岩を板石状に加工して組み合わせた家形石棺が直葬されていたとのこと。石棺内には、3体分の人骨と鉄刀・鉄鏃等があり、棺外から須恵器も出土。また『ほんみち廟所』の西側に墳丘全体が墓地になっている竹内15号墳がある。さらに西へ行くと「史跡の丘」に1~4号墳が保存されている。 

ほんみち竹之内廟東側   22号墳?        廟所南側         15号墳?

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竹内1~4号墳

史跡の丘遠景       登り口         標識       案内(南ゲートの案内は判読不能      

                           なので4号墳脇の案内を掲載)

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1号墳方面        1号墳頂から南望     南西側見下ろし      1号墳から2号墳北西望

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2号墳から1号墳南東望   2号墳西側見下ろし    2号墳頂から北東望     2号墳北西面

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3・4号墳方面       3号墳南西面       4号墳

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無号古墳北西望      東望見上げ       無号古墳墳裾から南望  登り口付近から166号東望

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竹内街道

大阪府堺市大小路から16代仁徳・15代応神・31代用明・33代推古・36代孝徳天皇陵等の付近を東へ抜け、竹内峠を越え奈良県葛城市の長尾神社付近迄の約26 km で日本最古の街道。聖徳太子が、小野妹子ら遣隋使が帰国時(608年)に同行した隋使が通るため整備したとの説もある。大部分は推古天皇時代の官道と重なっており、奈良盆地南部を東西に横切る横大路に繋がっている。難波から上陸した大陸の先進文化や仏教が、竹内街道を通って大和へ伝えられたと思われる。中世には伊勢街道の一部として、現在は国道166号として利用されている。

竹内街道方面標識    竹内街道東進       竹内街道一里塚      長尾神社横の街道案内

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西陵古墳周辺

西陵古墳周辺

2021年3月15日(月)。

(JR阪和線)和泉橋本駅→500m地蔵堂丸山古墳→1.2km(南海本線)二色浜駅====

==淡輪駅→宇度墓うどはか古墳西小山古墳跡西陵さいりょう古墳→淡輪駅

地蔵堂丸山古墳

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貝塚市地蔵堂。4世紀後半の前方後円墳で国の史跡。周囲は住宅で囲まれている。2000-2002年度に墳丘周囲部で発掘調査が実施されたらしい。前方部を西に向け、3段築成と推定されるとのことだが、現状では段築は殆ど分からない。葺石・円筒埴輪列(朝顔形埴輪含む)、形象埴輪(家形・靱形・盾形・冠帽形)を検出。冠帽形埴輪の出土は全国的に珍しいとのこと。周濠はなく、埋葬施設・副葬品は不詳。和泉地方では摩湯山古墳(岸和田市)に次ぐ時期に位置づけられる。100m北側の南小学校で、古墳時代中期5世紀後半の埋没古墳6基(円墳4基・方墳2基=地蔵堂1-6号墳)が発見され、地蔵堂古墳群を形成する。当地で4世紀後半~5世紀代の首長層の存在が考えられる。

進入口          案内          後円部墳頂南西望     前方部西望

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 *画像をクリックすると拡大されます。
後円部墳頂から南望    東望          北望           前方部から後円部東望

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地蔵堂丸山古墳から南海本線の二色浜にしきのはま駅→淡輪たんのわ駅へ移動。

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地蔵堂丸山古墳は基本的に西側には抜けられませんが、私は前方部南西角からフェンスを廻り込んで抜けました(お薦めはできません)。

宇度墓古墳

泉南郡岬町。南海本線淡輪駅の南側に隣接。淡輪ニサンザイ古墳とも呼ばれ、宮内庁により11代垂仁天皇の皇子(=12代景行天皇の同母兄)の五十瓊敷入彦命いにしきいりひこのみこと墓に治定されている。古墳時代中期5世紀中頃~後半=西暦440~460年頃の前方後円墳。1kmほど西にある西陵古墳、西小山古墳などとともに、淡輪古墳群を構成する。現在は宮内庁の管理下にあるが、2014年度(H26)に発掘調査が実施された。前方部を西南西方に向ける。

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淡輪駅から南望   道標        西角南東望     淡輪駅と周回道北側 北側造出

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墳丘長約170m(築造時約180mとも)。後円部3段築成・径約110m・高さ約13m。前方部3段築成・幅約120m・高さ約12m。南造出2段築成・東西約24m×南北約21m。北造出は上面は削平されているが、東西約20m×南北約11m。墳丘周囲には濠が巡らされており、この濠の波で墳丘裾部が徐々に削られているらしい。墳丘は、1段目・2段目に比べて3段目が著しく高いという特徴がある。1段目途中までは地山の削出で、その上は盛土で築造されている。地山の削出は造出でも認められるので、造出も墳丘本体と同時期のものとされる。この南・北造出では埋葬施設または副葬品埋納施設の存在が推定されており、特に南造出では壇状施設(通常は前方部墳頂で見られる)として機能した可能性が指摘されているとのこと。墳丘表面には葺石が葺かれ、須恵質の円筒埴輪列、家・盾・蓋・鳥などの形象埴輪が見つかっている。埴輪の一部には淡輪独特の技法が見られ、「淡輪系埴輪」と称される。埋葬施設は明らかでない。墳丘周囲の濠は2重に巡っていたが、現在は1重目のみ残存する。

*淡輪系埴輪=埴輪を作る際に、蔓などを輪っか状に敷いて作ったため、底部下端にその痕跡の段がある。 横から見ると湯飲みの糸切りみたいな感じ。

案内         拝所       制札        前方部南角     南面北東望

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出土埴輪から5世紀中期~後半頃(440-460年)築造と推定される。5世紀中期~後半に限って築造された淡輪の大型古墳3基(西陵・西小山・宇度墓)のうちでは、西陵古墳に次ぐ西小山古墳と同時期の築造で、本古墳で当地の大型古墳築造は終る。五十瓊敷入彦命の墓について『記紀』に記載はないが、『延喜式』諸陵寮では和泉国日根郡に所在する「宇度墓」とあり、兆域は東西3町・南北3町、守戸3烟で遠墓とある。しかし中世に荒廃して所在が失われた。M7年(1874)に『泉州志』の記載に基づき、一旦玉田山に定められたが、M13年(1880)に現古墳に改められている(明確な根拠はないらしい)。なお『紀』雄略9年条に「田身輪邑(=たむわのむら淡輪村)に葬られた」とある5世紀後半の将軍=紀小弓きのおゆみに比定する説がある。『和泉志』でも紀小弓の墓とする説があるが、『泉州志』では西陵古墳・宇度墓古墳どちらか一方が紀小弓の墓、もう一方が紀船守ふなもりの墓とする説を挙げる。ただし、紀船守は8世紀の人物(731-792)なので、整合性が無い。

  南側造出北東望・北西望       南面南西望        後円部東面・北東面

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後円部外周の東側には陪塚7基があり、5基が現存し宮内庁の管理下にある。今回は4基しか確認しなかった。

南東側陪塚 (住宅の裏側にあり、住宅と住宅の間の小道を入る)  東側陪塚

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線路沿い陪塚2基    線路南沿い陪塚北望 西望       線路北沿い陪塚北望  東望

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実際には宇度墓古墳の北・西側を半周し、南角から西小山古墳跡・西陵古墳へ向かった。復路で宇度墓古墳の南・東側と陪塚を回った。

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西陵古墳と西小山古墳の真ん中あたりに道の駅、また752号線沿いで西陵古墳後円部の南側に中華料理店がありますので、念のため。

西小山古墳跡

泉南郡岬町淡輪。5世紀後半の円墳(削平滅失)。淡輪古墳群の1つ。径40m。開墾前のS5年(1930)京大末永雅雄が発掘調査を実施。墳頂部から長さ3.3m・幅0.7mの竪穴石室を検出。石室南北両側壁から、鉄刀23点、鋒2点、鉄鏃107点、石室東端から三角板鋲留短甲、金銅装小札鋲留眉庇付冑1点、石室西端から鋲留式頸甲1点、肩甲1点、挂甲小札約800枚が出土したとのこと。金銅装眉庇付冑の他の出土例は、仁徳陵前方部、大阪府天平塚古墳、奈良県五条猫塚古墳、三重県佐久米古墳、福岡県月岡古墳、千葉県祇園山古墳など。出土遺物から5世紀後半と考えられる。1981年大阪府教育委員会が発掘調査時、竪穴式石室は削平されていたが、葺石と埴輪列は良く残っていた。墳丘の本来の直径は50mと推定され、高さは7mの2段築成で、北西に造出しが確認された。周囲の水田の畦などから周濠があったと推定される。埴輪は円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋形埴輪があり、硬質の須恵質のものが15%を占める。葺石は付近で産出される和泉砂岩だったとのこと。

なお、案内や碑には「西小山陵」古墳とある。進入口にフェンスはあるが施錠はされていなかった。

進入口       案内        赤○が西陵古墳    碑        北東望

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西陵古墳

登り口への分岐   登り口方面

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西二山在にしにさんざい古墳とも。泉南郡岬町淡輪。大阪湾に面した台地上に位置。5世紀前半頃の前方後円墳で、淡輪古墳群では最大、墳丘長約210mで全国第28位の規模。この規模だが墳丘に登れる。

登り口       案内        進入路

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丘陵末端を利用して築造され、前方部を北東方に向ける。後円部3段築成・径約115m・高さ約18m。前方部3段築成・幅約100m・高さ約14m。西側くびれ部の造出は23m×13m。墳丘表面は葺石で覆われ、円筒埴輪・朝顔形埴輪や、蓋形・盾形・短甲形・家形埴輪といった器材埴輪が並べられていた。墳丘周囲に幅15~35mの周濠が巡るが、周濠の元々の形は明らかではないらしい。主体部の埋葬施設は、竪穴式石室に凝灰岩製の長持形石棺を納めていた。かつて後円部墳頂に、長辺側に縄掛突起2個を有する石棺蓋石が露出していたが、国の史跡指定に伴って埋め戻されている。出土埴輪から西暦420-440年頃築造と推定される。西小山・宇度墓古墳より先行する。岬町の大型古墳群では円筒埴輪に独特の技法(淡輪技法)が見られるが、同様の技法は木ノ本古墳群(和歌山市木ノ本)にも見られ、また当地の経済力のみで築造されたと考えにくく、紀伊勢力(紀氏)との強い関わりが考えられるとのこと。

     後円部墳頂       くびれ部    造出      葺石       前方部

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被葬者は『紀』雄略9年3月・5月条にある5世紀後半の将軍=紀小弓という説がある。『紀』によると、小弓は新羅征討の将軍に任じられたが、病気により新羅で亡くなった。そこで天皇は土師連小鳥に命じ、「田身輪邑」に墓を造らせたという。『和泉志』では紀船守の墓とする説を挙げ、また『南游紀行』では五十瓊敷入彦命とする説を挙げている。

西陵古墳の北側には第一・第二の円墳2基がある。いずれも西陵古墳の陪塚とされ、西陵古墳とともに国の史跡に指定されている。第一古墳は前方部向いの線路のすぐ北側にあり、前方部周回道から肉眼でも確認できる。第二古墳はさらにその北側にあるが、小さいうえ住宅の陰で見えない。かつては陪塚らしい古墳がもう1基存在したが、線路の敷設時に破壊された。その際に提瓶2個、高杯1個、壺2個、平瓶1個、刀身断片、鉄鏃2本が出土したとのこと。

前方部北面   前方部周回道北角から西望 陪塚(第一古墳)   墳丘西面南望   後円部北東望

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淡輪駅から約2時間もあれば、宇度墓・西小山・西陵古墳を十分見て歩けます。

牧野車塚古墳周辺

牧野車塚古墳周辺

2020年12月15日(火)

大阪府枚方市 御殿山神社→渚院跡→牧野車塚古墳百済寺跡→禁野車塚古墳

御殿山神社

枚方市渚本町12番。京阪本線御殿山ごてんやま駅から約400m、小高い丘の上。

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文政年間(1818-29)に、渚院跡(後述)の観音寺境内に隣接して建立された粟倉あわくら神社が、明治初年の神仏分離令で、1869年(明治2)御殿山に社殿を造営し、当地に遷宮後、御殿山神社と改称。遷宮当時の模様を描いた、極彩色の奉納額が拝殿内に掲げられている。縦76cm、横176.5cmで、粟倉神社から御殿山の新社殿への遷宮行列が描かれ、当時の建物構造が正確に描かれている。平成14年に有形民俗文化財に指定。

御殿山神社へ    神社案内      拝殿        絵馬        遷宮行列絵馬

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画像をクリックすると拡大されます。

渚院跡

御殿山神社から牧野車塚古墳に向かう途中にある。奈良~平安時代天皇家別荘。771年49代光仁天皇の交野ケ原行幸の頓宮(とんぐう=仮宮)が始まり。以後約500年に亘り利用された。

55代文徳天皇皇子の惟喬これたか親王が遊猟拠点とした記録が多く残るとのこと。

標識               渚院跡              案内

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牧野車塚古墳

枚方市車塚1丁目。御殿山神社から約1.8km。

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古墳時代前期中葉4世紀後半の前方後円墳。車塚公園の南に隣接し、きれいに整備され、墳丘にも登れる。1978年(昭和53)以降、発掘調査が実施されたらしい。主軸は東西方向で、前方部は東に向く。墳丘長107.5m、後円部2段築成・径58m、前方部2段築成・幅45m。墳丘周囲に幅10mの周濠(空堀。今は散策路)が巡り、周濠を含めた規模は北河内地域で最大規模。現在、西側から南側には外堤も遺存している(築造当時は全周)。

墳丘表面では葺石・埴輪が認められた。特に葺石は板石を使った特異なもので、徳島県兵庫県産の石材が使用される点で注目されるとのこと。主体部の埋葬施設は明らかでなく、副葬品も不詳。北河内地域では禁野車塚古墳(後述)とともに淀川流域の交通と関わった有力な首長墓(禁野車塚古墳の後続)に位置づけられる。古墳域は1922年(大正11)に国の史跡に指定されている。付近には「赤塚」・「権現塚」・「子供塚」・「ショーガ塚」という地名が残るほか、古墳北側の小倉東遺跡では方墳群が検出されており、一帯は7C初頭頃まで墓域であったとされるとのこと。
周濠外提や墳丘の3~4ヶ所で、ちょうど発掘作業が行われていた。

西側進入路        参道        後円部(右手前は南側の周濠外提)  外提発掘現場

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後円部登り口       後円部墳裾から前方部望 南側周濠跡(右は南側外提) 後円部墳頂

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後円部北面の発掘現場               後円部西端北東望     同左南西望  

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後円部北側北東望     後円部北面発掘現場   前方部墳頂        前方部東端見下ろし

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前方部から後円部東望   くびれ部から後円部東望 くびれ部北側発掘現場   くびれ部南側

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前方部東端西望      前方部南側全景     車塚公園側から墳丘南西望 案内

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百済寺

中宮西之町4340番にある特別史跡。牧野車塚古墳から百済寺跡まで約3km。2021年3月15日まで整備工事中だが、百済寺跡の南側から回り込み、西に隣接する百済王神社側から行ける。神社に行く途中、百済寺跡の南側から伽藍跡の全景が臨める。

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東北地方に赴任していた百済宗家の子孫集団が陸奥国で金を採掘し、東大寺大仏造立に際し、天平21年(749)、黄金900両を献上した功により、翌年宮内卿兼河内守に任ぜられた。以後一族がこの地に移住した際に建立した、氏寺の跡と考えられる。平成17年度から再整備に伴う発掘調査によって、当時の最新技術を駆使して造営され、堂塔のほか、築地塀によって区画された寺院経営にかかわる施設が整然と配置され、中央官寺と比べても遜色ない伽藍だったことが判明したらしい。昭和27年特別史跡に指定、42年には全国で初めて史跡公園として整備されたとのこと。

本来の東側進入路     案内          百済寺跡北西望      百済王神社方面

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百済寺跡全景北望  百済王神社     拝殿        縁起        拝殿扁額

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西塔跡東望        同左西望        東塔跡東望        同左西望

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金堂跡北望       講堂跡北望        西回廊跡北望   左写真の黄色矢印辺りの遺存礎石

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禁野車塚古墳

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枚方市宮之阪5丁目。百済寺跡から800m。

大阪府北部の淀川東岸、天野川右岸の低位段丘上に築造された大型前方後円墳。1970年(昭和45)から発掘調査。主軸を東西方向として前方部は西方向に向く。墳丘長120m。後円部2段築成・径63m、前方部2段築成・幅55m。前方部が「バチ形」に開き、後円部からくびれ部にかけて下降スロープが存在する点で、箸墓古墳との類似が指摘される。墳丘表面では葺石・埴輪が認められたらしい。主体部の埋葬施設は明らかでないが、後円部上で板石が散乱していたことから、竪穴式石室の存在が推定されるとのこと。副葬品は詳らかでない。古墳時代前期前半の4世紀中頃の築造と推定され、大阪府内では最古級の古墳で、北河内地域では牧野車塚古墳とともに淀川流域の交通と関わった有力な首長墓(牧野車塚古墳に先行)に位置づけられるとのこと。1972年(昭和47)国の史跡に指定。現在では史跡公園として公開されている。*後円部は規制線があり登れなかった。

後円部西望        後円部南側北望     墳丘南側西望       案内

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前方部跡西望       前方部跡        前方部北西角       前方部南西角

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前方部は、なんかグランドみたいでしたけど・・・。

ほぼ3時間の行程、ただ歩くだけなら6km程。