OSAKA-TOM’s diary

古墳散策

天皇の杜古墳

天皇の杜古墳

京都市西京区御陵塚ノ越町  2020.11.7(土)

乙訓古墳群現存古墳の北端。4世紀後半~末の前方後円墳桂川右岸の山麓。中世から、文徳天皇(平安時代850年即位の55代天皇)陵と伝承されており、古墳名の「天皇の杜もり」や周辺地名の「御陵」はそれに由来。現在も墳丘が良好に保たれ、1988-1989年度(S63-H1)に発掘調査実施。前方部がやや細長い柄鏡式の前方後円形で、前方部は南南東方向。墳丘長83m。後円部2段築成、幅50.5m・高さ7.2m。前方部2段築成、幅33.5m・高さ4.8m。墳丘83mは京都市内では最大級。墳丘表面では葺石・埴輪列(円筒埴輪・朝顔形埴輪)が検出されている。周濠は巡らされていないが、周濠様の兆域区画が認められている。主体部の埋葬施設は未調査。被葬者は明らかでないが、桂川右岸を治めた有力者と見られている。1922年(T11)国の史跡に指定、現在は史跡公園として整備・開放されており、墳丘にも登れる。

f:id:OSAKA-TOM:20201109083510j:plain

                               Yahoo!地図を編集加工しています。

山陰道国道9号線沿いにあり、場所は判り易い。ただ、車で行くなら、9号線沿いの焼肉屋さんの西裏に、一段低く隠れているような位置なので、うっかりしていると通り過ぎてしまう。

古墳東側南望           解説板付近から墳丘西側南望    解説板 

f:id:OSAKA-TOM:20201109083824j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201109083930j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201109083900j:plain

                                画像をクリックすると拡大されます。

前方部南端北望                   同左見下ろし

f:id:OSAKA-TOM:20201109084551j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201109084621j:plain

前方部から後円部北望       くびれ部東側           くびれ部西側

f:id:OSAKA-TOM:20201109084905j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201109084935j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201109085002j:plain

後円部墳頂            後円部西側北望          後円部墳頂登り口

f:id:OSAKA-TOM:20201109085204j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201109085232j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201109085256j:plain

 

なお、乙訓古墳群での現存古墳南端は、「天王山の戦い=山崎の合戦」で著名な大山崎町、天王山登山口の小倉神社付近にある「鳥居前古墳」。現在は竹藪で覆われ、墳形は殆ど崩れており、どれが古墳かも確認しにくい状態です。

鳥居前古墳の概要リーフレットはこちらからご覧になれます。/大山崎町

 

【参考】

osaka-tom.hatenablog.com

平尾山古墳群

平尾山古墳群

2020年10月25日(日)。

大阪府柏原市の平尾山古墳群「安堂支群ー第6支群3号墳移設復元石室」~高尾山創造の森「平野・大県支群ー第11・17支群」~「平尾山支群」

平尾山古墳群 概要

平尾山古墳群の築造期間は6世紀前半~7世紀後半とされ、最盛期は6世紀後半~7世紀前半。(大まかに言って)北は八尾市との境界~南は大和川、西は東高野街道(近鉄大阪線)~東は奈良県三郷町との境界に囲まれた、東西3km、南北2kmにおよぶ大規模群集墳。1407基の古墳が確認されており、推定2000基とも言われる。地域的に安堂、高井田、平尾山、雁多尾畑、本堂、太平寺、平野・大県、青谷の8支群に区分される。大半は10m前後の円墳で、確認されている埋葬施設の多くは小型の横穴式石室。切石積みの石室や石棺式石室も僅かに確認されているものの、玄室規模や開口方向・棺配置・副葬品等、古墳群全体が同質的。先ず山麓部に比較的規模の大きい古墳が築かれ、次第に周辺にも築かれ、支群を形成していったと考えられるらしい。平野・大県支群を中心とする山麓部では6世紀代、雁多尾畑支群、平尾山支群の山間部では7世紀代の古墳が多数を占めている。八尾市の高安古墳群、南河内郡の一須賀古墳群とともに、大阪府の三大群集墳と言われる。

*考古学者で、古墳研究の第一人者の一人、白石太一郎氏によると、同じ河内の高安古墳群等と同様に、ミニチュアの模造炊飯具の副葬があることから、河内に定着した渡来系集団が築いた可能性が高いとのこと。ただ、平尾山古墳群の造営が6世紀前半に始まり、そのピークが7世紀前半におよぶのに対し、高安古墳群は、6世紀前半に始まり、7世紀初めには造営が終了するという違いがある。考えられるのは、平尾山古墳群が蘇我氏配下の渡来系集団によるもので、高安古墳群は6世紀末に蘇我氏により没落させられた物部氏配下の渡来系集団によるものではないかとしている。

渡来系氏族といっても、武器、武具などの軍事的要素は少なく、釵子(さいし・かんざし)や鉄滓も検出されており、様々な知識をもつ文人集団、技術を持つ生産集団とみられる。その中には山麓部の大県・大県南遺跡の鉄製品生産集団も含まれていたことは間違いないと考えられる。しかし、推定1400~2000基の古墳が、すべて山麓部集落の集団により造営されたと考えることは難しいと思われる。また、渡来系の副葬品を出土する古墳は、副葬品を出土した古墳の4分の1程度に限られ、すべての被葬者が渡来系ではなく、在地系集団も含まれている可能性もあるとのこと。

なお、各支群の造営時期に差があることなどから、各支群を別々の集団によって造営された独立した古墳群とみなす考えもあり、平尾山古墳群という呼び名は、古墳の集中密度が一番高い平尾山支群と雁多尾畑支群を中心とする地域に限ることもあるらしい。

 

f:id:OSAKA-TOM:20201028085024j:plain

 柏原市HP(発掘調査された古墳)から 

6-1.発掘調査された古墳 | 大阪府柏原市

安堂支群ー第6支群ー3号墳 移設復元石室

 現在の柏原市高井田大和川に北接する南斜面の地山を削って築かれた、推定径約23mの円墳。墳丘は削平され、周溝の一部が残っていただけらしい。切石による両袖式横穴式石室で、玄室床面には切石が敷かれていた。また、掘った穴を版築によって埋め戻してから、石室周囲に自然石を充填して排水施設をつくっていた。柏原市内では、切石による横穴式石室は初例で、玄室床面の敷石や石室周囲の排水溝も他に例を見なかった。現状保存は諸事情で断念せざるを得ず、東方の緑地内へ移設することになり、1986年4月移設作業が行われた。移設の際に7世紀中頃の須恵器が出土し、この須恵器が古墳の築造年代を示しているとのこと。

玄室床面中央の凝灰岩切石による敷石は、東西長1.85m、南北長3.4mで、壁体との間には河原石が充填されていた。敷石の接合面は、調整痕が分からないほど丁寧に調整されていたとのこと。須恵器の蓋、杯、長頸壺、甕、土師器の蓋、杯、高杯、丸底壷、近世の椀など殆どが石室内礫層から出土した。近世の椀を除き、7世紀後半~8世紀初頭のものとされる。

関西本線高井田駅北側に、高井田横穴公園や歴史資料館がある。その更に北側の住宅街「高井田第一公園」に移設されている。

f:id:OSAKA-TOM:20201028090343j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028090451j:plain

*Yahoo!地図を編集加工しています。右の写真は発掘当時の様子。

高井田横穴公園については、2019年11月のブログ記事を参照ください。

高井田横穴群 - OSAKA-TOM’s diary

移設先の高井田第一公園(白○が自車)  黄○が移設場所           公園から移設場所へ

f:id:OSAKA-TOM:20201028090936j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028090959j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028091043j:plain

*写真をクリックすると拡大されます。
 移設石室                    解説

f:id:OSAKA-TOM:20201028091434j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028091518j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028091542j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028091603j:plain

移設石室             敷石          一番高い側壁石は170cm(私の身長)位ある

f:id:OSAKA-TOM:20201028091728j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028091751j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028091816j:plain

平野・大県支群ー第11・17支群

平尾山古墳群の中で、最も様相が明らかになっているのが平野・大県支群で、古墳群北西部に位置し、42支群273基が判明しているとのこと。

f:id:OSAKA-TOM:20201028092106j:plain

*Yahoo!地図を編集加工しています。               柏原市HPから(アドレスは上記参照)

私は車で行ったので、上記地図の印からアクセスしましたが、JR関西本線近鉄大阪線で行くなら、 この「かしわらガイドマップ」を参照ください。

http://www.city.kashiwara.osaka.jp/_files/00037709/c5f.pdf

 なお、以下の記事は、印から私が回った順に記載しますので、徒歩で西から上がって来る場合は道順にご注意を。

散策の進入路

鐸比古ぬでひこ神社の小さな鳥居脇に、散策道への進入路がある。

鐸比古神社の小さな鳥居  高尾山頂の解説      鳥居横の道標

f:id:OSAKA-TOM:20201028093358j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028093422j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028093450j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028093511j:plain
みはらし広場から17支群へ

 先ずは「みはらし広場(上右端道標写真の、道路脇の休憩場所のような所)」から古墳観察歩道を下り、17支群へ。

 みはらし広場の道標                古墳観察歩道脇の風景 

f:id:OSAKA-TOM:20201028093925j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028093949j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028094012j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028094040j:plain

 古墳観察歩道を下りきって、「いにしえの道」との交差箇所から更にすこし下った先に石室石材らしきものが見える。石材の隙間から自撮り棒を差し込んで内部を写すが、殆ど土で埋まっている。近くにもう一つ石材があるが、こちらは隙間等は無し。

17支群の露出石材  石材の隙間     隙間内部                もう一つの石材 

f:id:OSAKA-TOM:20201028094405j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028104657j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028104725j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028104757j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028104826j:plain
 11支群へ

 鐸比古神社の小さな鳥居脇へ戻り、11支群を目指して下る。金網フェンスを過ぎて左へ(黄矢印)。*因みにここを右に登ると細い道があり、道沿いに石材が見受けられ、16支群かもしれないが、しばらく行くと行き止まり。 

f:id:OSAKA-TOM:20201028105537j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028105624j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028105700j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028105731j:plain
 11支群4号墳

 しばらく下ると、17支群への「いにしえの道」と11支群への「なかよしの道」の分岐がある。ここを右へ行く。私の歩幅で130歩程下った所に、11支群4号墳が開口している。

f:id:OSAKA-TOM:20201028110047j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028110116j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028110141j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028110207j:plain

 

f:id:OSAKA-TOM:20201028110321j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028110343j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028110408j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028110434j:plain

 11支群4号墳奥壁全景   奥壁上半分        奥壁上段と天井石    天井石 

f:id:OSAKA-TOM:20201028110555j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028110626j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028110655j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028110729j:plain
11支群1・2号墳へ

11支群4号墳から更に90歩程下ると、11支群の1・2号墳への分岐がある。道標に向かって左上に1・2号墳が見える。

下の3枚目の写真で白矢印から、2号墳へ向かう黄矢印の間に解説板があるが、「17支群1・2号墳」となっているが、「11支群」が正当なんだろう。

f:id:OSAKA-TOM:20201028111042j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028111111j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028111207j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028111235j:plain
11支群2号墳

2号墳は、手前(西側壁)上部が崩れ、玄室の様子が見れる。

2号墳南端部東望      南端部北望       全景北望        奥壁側北東望

f:id:OSAKA-TOM:20201028111623j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028111652j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028111732j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028111802j:plain

2号墳玄室は2/3~3/4程、土で埋もれている。

落部分                      奥壁     羨道方面(黄は楣石と思われる)。

f:id:OSAKA-TOM:20201028112134j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028112205j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028112238j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028112308j:plain
11支群1号墳

2号墳から少し北東へ登ると、1号墳が見える。

1号墳遠景北望      遠景東望         近景東望        開口部北望

f:id:OSAKA-TOM:20201028112604j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028112635j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028112711j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028112745j:plain

2号墳同様、2/3~3/4程、土で埋もれている。無理して「ほふく前進」で入れそうでもあるが、無理せず自撮り棒で内部を撮影。

開口部          奥壁部分         東側壁部分       楣石西上角

f:id:OSAKA-TOM:20201028113039j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028113117j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028113153j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028113223j:plain
10支群

1号墳から、さらに上へ行くと10支群があるらしいが、笹で覆われていて、よく分からなかった。

10支群への登り口  登り口の道標    10支群?     登り切った所の道標

f:id:OSAKA-TOM:20201028113510j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028113537j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028113609j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028113644j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028113708j:plain
11支群3号墳

11支群1・2号墳への分岐に戻り、「なかよしの道」を北西に60歩程下った、南脇のところに11支群3号墳がある。道から下へ回ると開口部がある。上の石は厚さが110㎝以上はある。ここも土でかなり埋まっている。

分岐道標       赤線がなかよしの道で黄○が3号墳      3号墳開口部北望

f:id:OSAKA-TOM:20201028114043j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028114107j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028114138j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028114204j:plain

奥壁           西側壁         東側壁         天井石

f:id:OSAKA-TOM:20201028114438j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028114524j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028114550j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028114622j:plain
17支群へ

17支群への「いにしえの道」と11支群への「なかよしの道」の分岐に戻り、木製の小橋を渡り、17支群へ向かう。

f:id:OSAKA-TOM:20201028125543j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028125619j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028125654j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028125725j:plain
17支群の石室

小橋からしばらく行くと、鋭角に曲がるカーブ(下の左端写真の白矢印)の、手前の北崖下(黄矢印)に、石材が見える。道標の古墳表示と逆側だが、なんとか崖を降り、石材を下から回り込むと、隙間があった。自撮り棒を差し込んで撮影した映像を見ると、確かに石室のようだ。

f:id:OSAKA-TOM:20201028130113j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028130151j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028130222j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028130301j:plain

隙間対面の側壁   羨道方面                楣石        隙間側の側壁

f:id:OSAKA-TOM:20201028130526j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028130603j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028130632j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028130703j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028130752j:plain

そこから、鋭角に曲がるカーブ先端の少し先にも石材がある。そこにも石材の隙間があり、隙間奥に空間や石組が見られ、石室と思われる。

f:id:OSAKA-TOM:20201028130947j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028131019j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028131053j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028131124j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028131234j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028131305j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028131335j:plain

平野・大県支群での、明確な古墳の位置を示す資料が見つけられず、行き当たりばったりだったので、以上で切り上げた。まだまだ、あちらこちらに石材が転がっており、小型石室のものなのだろうと思いつつ、平尾山支群へ向かった。

 

平尾山支群

2019年11月に高井田横穴公園にある歴史資料館から北東へ進み、平尾山支群ー67支群2号石室に訪れたことがあったが、今回は車でアクセス可能な柏原東高校周辺の赤枠内を訪れた。しかし、石材がいくつか確認できたのみで、石室は全く確認できなかった。

f:id:OSAKA-TOM:20201028131741j:plain

大阪府地図情報提供システム→主題図→文化財地図→埋蔵文化財地図から

https://www11.cals.pref.osaka.jp/ajaxspatial/ajax/

柏原東高校北側まで車で登坂。高校の北東側に柏原特産のブドウ畑が広がる。ブドウ畑のなかに石材が散見される。

f:id:OSAKA-TOM:20201028132017j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028132050j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028132126j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028132157j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028132258j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028132330j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028132359j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028132508j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028132539j:plain

ブドウ畑の北端から西へ。上記埋蔵文化財地図では、いくつもあるはずだが、私は殆ど確認できなかった。足腰を鍛えるためのウォーキングには良いかもしれないが、古墳散策にはお勧めできない・・・?!。

f:id:OSAKA-TOM:20201028132715j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028132750j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028132818j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20201028132854j:plain

なお、上の左端写真の「この先行き止まり」を真っすぐ行くと私有地。行ってみたら所有者の方がおられ、最初は『ここは私有地や!』と怒鳴られたが、少し話すうちに、奥の方を案内頂いた。古墳らしきものは見当たらなかった。その方曰く「どこかで調べて、ちょこちょこ人が来る。それより猪が頻繁に出没して困っている。息子もここを継ぐ気はないようだし・・・・」。まー行かないことをお勧めします。 

山畑古墳群周辺

山畑古墳群周辺

2020年8月4日。交野市→寝屋川市大東市東大阪市の各古墳巡り。

石切神社神並こうなみ古墳群山畑古墳群六万寺古墳群

石切神社

正式には石切劔箭神社いしきりつるぎやじんじゃ。

大阪府東大阪市にある神道石切教の神社。 平安時代中期の『延喜式神名帳』に記載されている河内郡の式内小社。祭神は饒速日尊(にぎはやひのみこと)、その子可美真手命(うましまでのみこと)で、「石切大明神」と総称される。

石切さん」「でんぼ(腫れ物)の神様」として著名で、本殿前と三の鳥居前の百度石を行き来する「お百度参り」も有名。社殿・宝庫が焼失したため創建年代は不詳だが、代々の社家(神社の管理家)である「木積」家には、皇紀2年(神武天皇即位2年)に生駒山中の宮山の地(元宮=奥宮)に、可美真手命が、父の饒速日尊を奉祀したことを起源とし、崇神天皇の御代に現本社に可美真手命が奉祀されたと伝わる。最後の六国史である『日本三代実録』(巻11)に「貞観7年(865)9月22日に河内国正六位石切劔箭神社従五位下を授く」とあり、『延喜式神名帳』にも「石切劔箭命神社二座」とある。室町時代末期に兵火で、神宮寺(神社の守護寺)であった天台宗法通寺とともに社殿が焼失。その後復興するが、いつの頃か宮山の地から現上之社の地(上石切町2丁目)に遷され、1905年(M38)に饒速日尊が現本社本殿に合祀された。その後も、上之社の地は、奥の院として信仰を集め、1932年(S7)に解体保存されていた本社旧本殿を上之社に移した。近鉄石切駅から1km東の生駒山腹にある「元宮(奥宮)」は荒廃している。
*なお饒速日尊は『日本書紀』神武紀に、神武東征の前から生駒辺りに降り立っていた天神(あまつかみ)とある。妃の兄である(神武東征を阻んだ)長髄彦(ながすねひこ)を殺し、神武に帰順した。物部氏の祖先とも。

絵馬殿       絵馬殿東側随神    西側随神     三の鳥居      本殿

f:id:OSAKA-TOM:20200811143845j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811143925j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811144001j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811144030j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811144101j:plain

*写真はクリックすると大きくなります。

神並古墳群

古墳時代後期(6世紀)の古墳群で、21基が確認されている(7基が現存)。石切神社の上之社と下之社の、中間地帯に位置する。

f:id:OSAKA-TOM:20200811144454j:plain

神並6号墳

東大阪市東石切町3丁目。弁天塚古墳とも。石切大仏の南東70mほど、千手寺本堂の裏手にある。後述の5号墳よりやや新しく6世紀後葉とのこと。羨道は失われ玄室だけ残る。須恵器・土師器・耳環等が出土したらしい。本堂北側から墓地を抜けて裏手へ回る。進入禁止の立て札がありますので、見学できるかお寺に聞いてみてください。

千手寺駐車場から  本堂・護摩堂    本堂裏手へ     墓地を南へ抜けると 本堂裏

f:id:OSAKA-TOM:20200811144744j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811144820j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811144853j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811144923j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811144951j:plain

開口部       玄室        西側壁       東側壁       本堂側からの全景

f:id:OSAKA-TOM:20200811145212j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811145313j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811145345j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811145412j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811145444j:plain
神並5号墳

東大阪市東石切町2丁目。夫婦塚古墳とも。円形の墳丘を二つ合わせた双円墳で、道路沿いに二つの横穴式石室が開口。東側石室(施錠)は全長9.2m、(奥から見て)右片袖式で、二人が埋葬されていたことが確認され、周囲からは須恵器・土師器や鉄製品、玉類、馬に乗った人物や犬をかたどった壺の装飾部品が出土したとのこと。西側石室(無施錠)は全長9.6m、右片袖式で、三体を埋葬した痕跡が残り、鉄釘が出土したため木棺と推定される。須恵器・玉類・耳環・鉄製品が出土した。奥壁上部が崩れていて明るい。当古墳は6世紀中葉と見られるらしい。

北西望       解説板       東側石室      羨道(黄は袖部)   羨道天井部

f:id:OSAKA-TOM:20200811145903j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811145946j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811150021j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811150045j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811150113j:plain

西側石室      羨道         玄門部(黄は袖部) 玄室     奥壁高さ比較(私は170㎝)

f:id:OSAKA-TOM:20200811150331j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811150401j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811150452j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811150530j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811150600j:plain

楣石(まぐさいし)  楣石上部と天井部  羨道東壁      羨道西壁      羨道天井部

f:id:OSAKA-TOM:20200811150814j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811150939j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811151013j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811151045j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811151115j:plain

山畑古墳群

東大阪市上四条町-瓢箪山町。6世紀後半~7世紀初頭の東大阪市内最大規模の古墳群。大半は径10~15m程の円墳だが、双円墳や上円下方墳も含まれる。かつては100基以上あったとされるが、住宅開発などで破壊されたものも含めて70基ほどが確認されており、大半は東大阪市立郷土博物館の近辺に密集している。基本的に横穴式石室で、副葬品として馬具類が多くの古墳から出土しているとのこと。この辺りは騎馬飼育の馬飼部を率いた渡来系氏族の勢力地(馬飼いの里)とされ、古墳群はその一族のものと推定されるらしい。博物館は通常9時30分~16時00分、毎週月曜日・祝日翌日は休館なので、ご注意を!

f:id:OSAKA-TOM:20200811151543j:plain

近鉄奈良線瓢箪山駅から博物館まで1.4km程。ただし標高10m程から標高100mまで登るので、歩きならかなりキツいです。見学可能な古墳は、博物館周辺にかたまっています。下図のグレイの丸表示は見学できない古墳。

f:id:OSAKA-TOM:20200811151739j:plain

最も標高の低い52・51号墳を確認し、博物館周辺では東端の12号墳から、上図の青矢印どおりに回ったので、その順に掲載します。

52・51号墳

東大阪市瓢箪山町8-1。古墳群中で一番標高が低い位置にある。6C前半頃(後半説も)の南北墳丘長が約50m・高さ4mの双円墳で、その形から通称「瓢箪山」と呼ばれる。北側は「大塚」、南側は「鬼塚」と呼ばれる。西側に隣接して瓢箪山稲荷神社(辻占の総本山)があり、古墳・石室が御神体の様になっている。北丘(大塚)の横穴式石室は、羨道

の長さ約5m・幅0.8m・高さ1.1m、玄室の長さ約2.5m・奥壁幅約2m・高さ?。石室内で狐が飼われていた(住んでいた)とも。その東側近くに51号墳があるが、住宅に囲まれており、知らなければ古墳と分からないだろう。

神社裏参道と北側の「大塚」       南側の「鬼塚」   奥に裏参道     黄〇は石室石材?

f:id:OSAKA-TOM:20200811152217j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811152244j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811152329j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811152402j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811152443j:plain

52号墳西望     51号墳南望     南西望       西望        北望

f:id:OSAKA-TOM:20200811152755j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811152832j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811152910j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811152945j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811153020j:plain
12号墳

道沿い北の判り易い20号(後述)から道を挟み南東側にある。径15mの円墳で墳丘は判り易い。両袖式で全長11.5mの石室は、墳丘を越えた南側に開口しているはず。本来は、車を置いてある処から降りると思うが、草深くて、とても降りれそうになかった。すぐ東側の造園業者さんの敷地から見ても、石室は全く見えなかった。この辺にある岩は、古墳群を巡るとよく見られる光景で、おそらく削平された古墳・石室の石材なのだろう。

赤〇20号、黄〇12号(写真上が東) 12号墳全景    東側の造園業者敷地   同左から北西望

f:id:OSAKA-TOM:20200811153649j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811153726j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811153806j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811153849j:plain
20号墳

博物館から登山道を東へ約130m(この距離でも標高差25mもある)。径10mの円墳。墳丘より石室の方が判り易い。長さ3mの片袖の横穴式石室らしい。崩壊危険があり、補強され物置代わりになっている。鉄製の鉾が出土したとのこと。

f:id:OSAKA-TOM:20200811154233j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811154312j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811154341j:plain
21号墳

博物館から登山道を東へ約100m(=20号墳の30m手前)。道の少し北奥に開口部が見える。径15mの円墳。右片袖式の横穴式石室。羨道部は一部破壊されかなり短くなっている。石室全長は8.5m程、玄室の長さ約4m・幅約2m・高さ約3m、凝灰岩製石棺片、須恵器装飾壷、土師器、直刀、耳環、子持勾玉、鉄鏃等が出土したとのこと。

                    黄が片袖部

f:id:OSAKA-TOM:20200811154835j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811154910j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811154947j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811155016j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811155054j:plain

玄室全景      西側壁       東側壁       天井部       片袖部

f:id:OSAKA-TOM:20200811155507j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811155545j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811155623j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811155702j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811155735j:plain
37号墳

21号墳のすぐ北裏側に在るが、大きく崩れていて石材の一部が露出しているのみ。すぐ北東に38号墳(右下端の写真)がある。

f:id:OSAKA-TOM:20200811160026j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811160059j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811160135j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811160211j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811160241j:plain
22号墳

博物館駐車場北側。元は東西に円丘をもつ双円墳。西丘のみ現存。西丘は径15m・高さ4.5m。その横穴石室(羨道長さ6.3m、玄室長さ3.2m・幅1.6m・高さ2m弱)が保存されている。須恵器・土師器・装身具・馬具・木棺釘等が出土し博物館で展示。 

博物館敷地の古墳案内 22号墳                 解説       羨道

f:id:OSAKA-TOM:20200811160637j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811160708j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811160742j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811160822j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811160855j:plain

玄室全景      西側壁       東側壁       右袖部       墳頂に石材露出

f:id:OSAKA-TOM:20200811161235j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811161331j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811161408j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811161452j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811161539j:plain
39号墳~41号墳

敷地内には、他に38・39・40・41号墳があるが、墳丘は無く石室石材が露出(または全損)。台風被害で38号墳は立入禁止。41号墳は様相一変。

39号墳

f:id:OSAKA-TOM:20200811161951j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811162018j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811162105j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811162141j:plain

38号墳       40号墳                           多分41号墳

f:id:OSAKA-TOM:20200811162352j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811162857j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811162428j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811162519j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811162555j:plain
6号墳

博物館から西へ下り、三差路を南へ下る。全長10.5mの無袖式の横穴式石室があるらしい。石室から須恵器・土師器、耳飾や玉類が出土。古墳周辺敷地は私有地で、現在はフェンスがあり立入できない。

f:id:OSAKA-TOM:20200811163138j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811163213j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811163246j:plain
5号墳

6号墳南の三差路を東へ、白いフェンスに沿って進む。フェンス東端から南の山道に入ると、すぐ左手にある。

f:id:OSAKA-TOM:20200811163545j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811163656j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811163738j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811163813j:plain

5号墳                                    西望

f:id:OSAKA-TOM:20200811164627j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811164746j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811164827j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811164904j:plain

3号墳方面                                    4号墳?

f:id:OSAKA-TOM:20200811165112j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811165151j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811165226j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811165307j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811165340j:plain
3号墳

封土が流失し石室が露出。しかも天井石が玄室に落ち込み、絶妙なバランスで立っている。もちろん入室はできない。土砂も流入していて石室規模は不明。玄室の奥壁部分は比較的残っている。幅約1.5m・高さ約1.5m、大きな石材が使われている。所々に隙間があり、そこから自撮り棒を突っ込んで撮影。

                    南側の隙間から             西側の隙間から

f:id:OSAKA-TOM:20200811165729j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811165808j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811165845j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811165917j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811165948j:plain

東側壁                      奥壁(黄

f:id:OSAKA-TOM:20200811170343j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811170424j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811170500j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811170543j:plain

2号墳へ 白い○は猪捕獲罠

f:id:OSAKA-TOM:20200811170813j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811170850j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811170928j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811171007j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811171040j:plain
2号墳

博物館からは南南東に直線距離で約200mの尾根上にある上円下方墳(下段一辺28m、上段径14m)。石室は全長16.6m、羨道の長さ約10m・高さ2m強、玄室の長さ約6.6m・幅約2m・高さ約4mの右片袖式の横穴式石室で、市内最大規模。明治時代にウィリアム・ゴーランドが調査した記録があるとのこと。水晶製の三輪玉と鞍金具が出土し、7C初頭と推定される。(北東に藪中を登ると1号墳があるらしい)。

f:id:OSAKA-TOM:20200811171435j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811171504j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811171541j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811171619j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811171652j:plain

玄室全景      天井部       西側壁       東側壁       楣石と上部

f:id:OSAKA-TOM:20200811171839j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811171915j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811171949j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811172024j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811172059j:plain

楣石        玄門部東側     西側袖部      羨道東壁      西壁

f:id:OSAKA-TOM:20200811172244j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811172333j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811172406j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811172439j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811172514j:plain

羨道俯瞰                     墳丘東面         北東面 

f:id:OSAKA-TOM:20200811172711j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811172746j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811172836j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811172912j:plain

六万寺古墳群

f:id:OSAKA-TOM:20200811173049j:plain

二本松古墳(六万寺2号墳)


現在小さな公園内に保存される、一辺20m・高さ4.5mの方墳。6世紀後半~7世紀初頭。全長15.8mの大型石室で、左側の段差は僅かだが両袖式。羨道長さ11.3m・幅1.9m、玄室長さ4.5m・幅2.2m・高さ3m。羨道の天井石に岩を割ったくさび跡がある。凝灰岩製石棺破片や土師器・須恵器等が出土したとのこと。当古墳南西の墓地に3基の古墳があり、現存を確認できるのが六万寺4号墳で径17mの円墳らしいが行かなかった。

登り口の解説板   開口部       羨道        羨道天井石     玄門部 

f:id:OSAKA-TOM:20200811173547j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811173617j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811173653j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811173725j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811173756j:plain

奥壁       玄室天井部   玄室西側壁   東側壁      左袖      右袖

f:id:OSAKA-TOM:20200811173958j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811174041j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811174115j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811174147j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811174225j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811174254j:plain

楣石        楣石上部       開口部      墳丘

f:id:OSAKA-TOM:20200811175657j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811175626j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811175851j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811175810j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811175925j:plain
高塚古墳(六万寺1号墳)

二本松古墳北東の老人ホーム敷地にあり、6世紀後半の円墳で径22m。高さは北側で約2.5m、形をよく残し北側道路から見られる。

東望遠景                                  西望

f:id:OSAKA-TOM:20200811180252j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811180328j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811180413j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811180441j:plain

 

 

以上で、2020年8月4日、交野市→寝屋川市大東市東大阪市の各古墳巡りは終了。

今回一挙に巡るのと、市街地近辺だったので、私は車で行きましたが、各々を個別に回る分には、電車で十分いけそうですね。

一挙に巡ったとは言っても、南北直線距離で14km程。続く八尾市には高安古墳群、柏原市には平尾山古墳群・玉手山古墳群、太子町には一須賀古墳群等が南北に並びます。俯瞰すると、古代の河内湾(湖)沿岸=生駒西麓の様子が見えてきそうですね。

f:id:OSAKA-TOM:20200811180732j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200811180753j:plain

なお、古墳巡りは、生い茂った草叢、虫=蚊、蛇、暑さ等々を考えると、夏場は避けるべきかも・・・?

堂山古墳群

堂山古墳群

2020年8月4日。交野市→寝屋川市大東市東大阪市の各古墳巡り。

堂山古墳群の概要

大阪府大東市寺川4丁目675-1。5世紀前半~7世紀中頃の古墳群。1969年府営水道寺川配水池建設予定地となっていた堂山山頂(標高98m)で埴輪や鉄刀が発見された。生駒山西麓のなかで、それまで古墳が造られていなかった地域に突如として出現した古墳群である。2012年3月末に堂山古墳群史跡広場としてオープンし管理されている。

行き方

最寄り駅はJR片町線(=学研都市線)の「野崎駅」。

徒歩=野崎駅東口→府道163号線を東方面→野崎交差点で国道170号線を南方面へ300m→「来るぶらり四条」=「歴史とスポーツふれあいセンター」のある交差点で左折→【宮谷1号墳石室】横を過ぎ東高野街道を南方面へ260m→大東消防署東分署で左折し、東方面へ280m登る→水道局第二配水場脇に登り口がある。ここまでの全行程1.4km。

国道170号線から徒歩と同じ。堂山古墳群への登り口周辺には駐車場は無く、「歴史とスポーツふれあいセンター」だと1時間無料らしい(1階窓口に声がけ必要)

 *写真をクリックすると拡大されます。f:id:OSAKA-TOM:20200809095833j:plain

 宮谷1号墳      解説       史跡広場登り口   黄色〇の案内図   登り口見返り 

f:id:OSAKA-TOM:20200809100033j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809100105j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809100134j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809100204j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809100233j:plain

史跡広場へは一本道

f:id:OSAKA-TOM:20200809100614j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809100652j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809100804j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809100850j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809100925j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809101026j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809101059j:plain

堂山1号墳へ 1号墳だけは北西に下ったところに離れて位置する。

f:id:OSAKA-TOM:20200809101307j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809101344j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809101419j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809101454j:plain

詳細

保存古墳は7基。標高が低い所にある1号墳は5世紀前半、丘陵先端の花崗岩盤を削り出した、径25mの円墳。後円部直下の墓坑に組合式箱型木棺を直葬。棺内からは装身具、副棺からは武具、墳裾から円筒埴輪が出土。2号墳~7号墳は横穴式石室を主体とし、木棺に使われたと思われる釘や陶棺、人骨等出土し、6世紀末~7世紀中頃の築造と推定。

1号墳

    解説                   1号墳東望        1号墳から西方見下ろし

f:id:OSAKA-TOM:20200809102220j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809102253j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809102323j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809102400j:plain
2号墳

一番高い所にある。    赤○辺りが2号墳                解説

f:id:OSAKA-TOM:20200809102825j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809102856j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809102941j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809103024j:plain
4号墳・7号墳

2号墳から南へ下った所にある。

4号墳 上から    下から                 4号墳北東隣の7号墳

f:id:OSAKA-TOM:20200809103937j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809104907j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809104034j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809104932j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809104133j:plain
3号墳

3号墳 上から          下から

f:id:OSAKA-TOM:20200809104538j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809104628j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809104659j:plain
6号墳

6号墳 上から      東横から         下から

f:id:OSAKA-TOM:20200809105214j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809105256j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809105334j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809105422j:plain
5号墳

5号墳 下から                        階段上から(右赤〇が5号 左が6号) ↓

 

f:id:OSAKA-TOM:20200809105847j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809105919j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809110110j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809110031j:plain

野崎観音

大阪府大東市野崎2丁目7-1。野崎観音は通称。本来は慈眼寺じげんじ曹洞宗山号は福聚山ふくじゅさん
生駒山地北部の西側中腹で、大阪平野を一望する。境内から野崎城跡→飯盛山への河内飯盛山ハイキングコースが伸び、登山者の参詣も多いらしい。5月の無縁経法要は、江戸時代から「野崎詣り」の名で親しまれている。かつて「野崎詣り」は大坂から川を遡り、当時の生駒山麓の深野池まで舟で行くという参詣風景が、人形浄瑠璃や落語等の演目となっている。
天平勝宝年間(749 - 757年)に天竺=インドから来朝した婆羅門僧が行基に、「野崎は釈迦が初めて仏法を説いた鹿野苑(サールナート)に似ている」と語り、それを聞いた行基が白樺で十一面観音を刻んで当地に安置したのが始まりとされる。本尊は長谷寺の本尊と同木から彫られたともされる。平安時代、遊女江口の君が、難病治癒の報恩に感謝し、現在の地に寺を移転し、再興に尽力したという。

             周辺案内        十一面観音を安置する本堂     境内 

f:id:OSAKA-TOM:20200809110656j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809110726j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809110756j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200809110833j:plain

 

ここから旧の国道170号線東高野街道で3.5km程先の石切神社・神並こうなみ古墳群・山畑古墳群に向かう。

osaka-tom.hatenablog.com

石宝殿

石宝殿

2020年8月4日。大阪府寝屋川市石宝殿いしのほうでん古墳

交野市→寝屋川市大東市東大阪市の各古墳巡り。

石宝殿古墳の概要

寝屋川市打上元町。標高約100mの高良こうら神社(=打上神社)裏山にある終末期古墳の石槨。高さ・幅とも1mもなく、火葬風習後のものだろう。享保元年(1801年)刊行の『河内国名所図絵』には金銅壺内に白骨が収められていたとある(壺は所在不明)

周辺では古墳時代後期6世紀代の群集墳として打上古墳群・打上神社古墳群が知られるが、本古墳はその造営後に単独墳として築造された有力豪族墓と考えられるらしい。

横口式石槨は終末期の有力支配者層の墓制とされ、大阪府の中・南河内奈良県の明日香地域に集中的に認められるが、北河内では本古墳が唯一であり、かつ花崗岩の巨石をくり抜いて構築する数少ない例。古墳域は1973年(S48)国の史跡指定。

行き方

最寄り駅はJR片町線の「寝屋川公園駅」。

徒歩寝屋川公園駅東口→「市立埋蔵文化財資料館」を東方面→打上団地前交差点を東方面→最初の十字路を左へ→団地内道路案内に従い進み、打上公園へ→公園南の階段を登る(途中4ヶ所に案内絵地図があり、案内に従って進むと階段下に着く)。行程約650mの登り道。

=打上団地前交差点の一つ北の交差点から進入。

f:id:OSAKA-TOM:20200807132853j:plain

上図にもあるように、神社へ向かう手前の道は、かなり狭いので、運転に自信のない方は歩いた方が・・・。なお高良神社前にしか、車を止める場所はありません。

高良神社一ノ鳥居     二ノ鳥居・拝殿     二ノ鳥居         鳥居はかなり小さい 

f:id:OSAKA-TOM:20200807133122j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200807133152j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200807133238j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200807133321j:plain

拝殿東の進入路    解説板       参道

f:id:OSAKA-TOM:20200807133724j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200807133756j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200807133828j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200807133906j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200807133934j:plain

石槨

現在墳丘は認められないが、元々墳丘封土を伴わないとする説と本来は八角形墳とする説がある。主体部の埋葬施設は横口式石槨で、南に開口。花崗岩の巨石2個をくり抜き組み合わせて構築したもので、前面にはさらに巨石2個を東西に据えて羨道としている。発掘時の出土品として須恵器片(TK217型式古段階=一説に混入品)・瓦質土器の椀(中世期の古墳信仰遺物)等がある。

f:id:OSAKA-TOM:20200807134500j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200807134530j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200807134604j:plain

玄室前に花崗岩の巨石2個で羨道を形成する。東側石は長さ約2.4m・高さ約1.5m・厚さ約0.4mの割石。西側石は最大幅約1.2mの三角錐台状の割石。側石の天井部分は発見されておらず、側石のみが据えられたと推測されるとのこと。石槨背後(北側)に、東西に4個の列石がある。背後正面の3個は東西一列に並ぶが、西端の1個は、南西向きに据えられている。列石の意味は不詳で、墓域区画石説、墳丘封土の土留め石=外護列石説、地山の土留め石説等あり、外護列石なら墳丘が八角形の可能性がある。また石槨と列石との間には石敷きも認められる。4個以外に列石は認められていない。

石槨東側         西側          北側から南望       列石(背後正面の3個)

f:id:OSAKA-TOM:20200807134828j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200807134851j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200807134943j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200807135018j:plain

石槨部分は平らに加工した底石上に、横口部をくり抜いた上石を載せる。入口前面には閉塞用の扉石の軸受け穿(左下写真の黄色〇)が認められる(=西側に片開き、現在不明)。底石は南北長約3m・厚さ約0.1m、上石は直径約3.2m・厚さ約1.7m。横口部は長さ約2.3m・幅約0.55m・高さ約0.7mで、入口から約0.9m奥から幅約0.9mと広くなるが、高さは約0.7mとやや低くなる。類似構造の横口式石槨としては竜田御坊山3号墳石槨斑鳩町、現在橿原考古学研究所附属博物館前に展示)、鬼の俎・鬼の雪隠がある。

石槨正面       上石天井部    石槨頂       埋葬室内

f:id:OSAKA-TOM:20200807135427j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200807135508j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200807135548j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200807135707j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200807135732j:plain

 

高良神社

祭神は武内宿禰、配祀=八大竜王八幡大神。摂社=住吉社、稲荷社、神明社

旧讃良郡に属し、江戸時代には交野郡に属していた。打上川沿いを含め、寝屋川市には秦氏一族に因む地名や伝承地(伝秦川勝の墓)などが点在する。

日本書紀の欽明23年(560年頃)7月条には「新羅は使いを遣わして調を奉った。その使いは新羅任那を滅ぼしたことを知っていたので、帝の恩に背いたことを恥じ、あえて帰国を望まず、ついに留まって本土へ帰らず、日本人同様に遇され、いま河内国更荒郡(サララノコオリ=讚良郡)鸕鷀野邑(ウノノサト)新羅人の先祖」とある。また『新撰姓氏録』に「宇努連新羅皇子金庭興の後」などとあり、一帯は渡来系氏族と縁の深い地域と言える。なお「高良」は高麗の訛であろうと推測されている。 筑後一の宮高良大社武蔵国の高麗神社などが知られているが、ほかに高来神社などがある。越中の高麗神社は五十猛命を祭神としている。

 

【雑感その4】

我々のルーツは中国大陸?朝鮮半島?固有の人種?。自分の苗字で先祖のルーツが分かるという?「名字由来ネット」というサイトもある。韓国・朝鮮での姓は300種類弱しかないが、日本の名字は30万種類とも!もっとも、上位7000位までで約96%を占めるそうですが・・・。

*名字の数え方には諸説あり、「伊藤、伊東、井藤、依藤、井東」など同じ「いとう」でも漢字構成の違いにより各1件とカウントする数え方や「伊藤」でも「いとう、いふじ」など「読み方の異なるもの」を各1件とカウントする数え方などがあります。 漢字と読みが異なるものをそれぞれカウントすると、苗字研究家であり文学博士である丹羽基二氏の著書「日本苗字大辞典」によると30万種弱と紹介されているそうです。

キリスト教にはバイブルが、イスラム教にはコーランが、仏教には経典が、日本固有の八百万の神道には?日本の古代史書古事記日本書紀。名前は学校で習ったが、内容は?我々の習った日本史は本当か?魏志倭人伝邪馬台国卑弥呼の名前は知っているが、内容は?天皇って?どこの出身?天皇陵って?それらを解くカギは古事記日本書紀などしかないが、それを検証するのが考古学なんだろう。

 

ここから、府道20号線・東高野街道国道170号線で6km程先の、大東市の堂山古墳群に向かう。

osaka-tom.hatenablog.com

 

塚穴古墳周辺

塚穴古墳周辺

2020年8月4日。塚穴古墳・大畑古墳・雷塚古墳(森1号墳)・鍋塚古墳(森6号墳)

大阪府交野市→寝屋川市大東市東大阪市の各古墳巡り。

塚穴古墳(交野市)の概要

大阪府交野市寺」にある6~7世紀初頭の方墳とのこと。横穴式石室が西向きに開口し、入室可能。電車で行くなら、最寄り駅はJR片町線の「河内磐船駅」か京阪交野線の「河内森駅」。古墳まで2km弱。

行き方

駅周辺からの経路

f:id:OSAKA-TOM:20200805175139j:plain

           ↑*Yahoo!地図を編集・加工しています。

塚穴古墳麓の「住吉神社」が一つの目安です。車で行く場合は、住吉神社の駐車場が起点になります。ただ、神社西側のアクセス道は、舗装されていますが、教習所のS字クランク並の狭さですから、ご注意を!
要は、神社北側の農道を東へ登っていきます。神社駐車場からの道順を説明します。写真をクリックすると少し拡大できます。

住吉神社      神社右手の駐車場  駐車場から農道への順路

f:id:OSAKA-TOM:20200805175401j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805175431j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805175458j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805175526j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805175551j:plain

*黄色〇の表示を右へ行くと「かいがけの道」。古代の河内と大和を結ぶ道の一つで、奈良・平安時代紀州熊野神社への熊野街道として人々が往来したそうです。

道なりに小さな池の縁を通り、小さな石橋を右へ渡ると農道に出る。作業小屋を過ぎて、更に登る。

f:id:OSAKA-TOM:20200805180057j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805180126j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805180154j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805180236j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805180308j:plain

暫く登ると、猪除けの防護柵(赤〇)がある。紐で括ってあるだけなので開けられる。小さな畑の左を抜けると、ごく狭い沢。

f:id:OSAKA-TOM:20200805180455j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805180525j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805180554j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805180622j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805180651j:plain

狭い沢に沿って少し登ると、Y字路があるので、ここを右へ行く。

f:id:OSAKA-TOM:20200805180817j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805180846j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805180917j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805180943j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805181129j:plain

狭い沢の中に、トビトビでブロックが置かれているので、それを登ると樋があるので道なりに。

f:id:OSAKA-TOM:20200805181259j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805181329j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805181400j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805181439j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805181538j:plain

少し行くと、左手に朽ちた倒木が何本か折り重なっている。これを越えると開口部がある。

f:id:OSAKA-TOM:20200805181741j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805181812j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805181854j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805181925j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805181957j:plain

倒木を越えるのが一苦労。軍手をお忘れなく!上の右端の写真は開口部の大きさ比較。四つん這いで入れますが、汚れてもいい服装で!!でなければ、コンビニレジ袋を膝に巻き付けるのも一法。羨道部中程からはかがめるし、玄室内は2m弱ある。当然懐中電灯、夏場なら虫除け必携。なお景色は冬場とかなり違うので要注意!

石室

一帯は寺古墳群で、広範囲にわたり、14基がいくつかの尾根に2~3基ずつ点在する。

6~7世紀初頭の築造とされ、東西12m、南西11mの方墳で、西に開口するとのこと。玄室は奥行き3.3mで高さ2m弱。横穴式石室なので6世紀以降だろうが、まずまずの規模の玄室である。石棺や副葬品は不明らしい。

羨道入口      羨道中程      玄門部       開口部見返り

f:id:OSAKA-TOM:20200805182604j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805182630j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805182717j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805182753j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805182827j:plain

北側側壁と奥壁      南側側壁と奥壁     奥壁           奥壁上部と天井部

f:id:OSAKA-TOM:20200805183023j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805183052j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805183124j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805183152j:plain

楣(まぐさ)石       楣石上部         玄門部南側       玄門部北側(右片袖)

f:id:OSAKA-TOM:20200805183332j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805183403j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805183441j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805183511j:plain

大畑古墳

塚穴古墳へ向かう途中の住宅街にある。知らなければ、全く古墳と分からない。

JRの高架をくぐり住宅街に入る所で、弥生後期の住居跡が見つかり、それに伴い発見された。当初後期古墳とみられていたが、その後出土した埴輪片などから、古墳時代中期(5世紀初頭頃)と判明。車塚古墳(現交野高校敷地、5~6世紀)を含む古墳群を構成し、車塚古墳群第6号古墳とされている。古墳群中では最大。墳丘上には住宅が建ち、くびれ部を道路が走る。円筒埴輪が出土し、その後の調査で葺石も発見された。墳長90~95m、東側前方部幅約50m・高さ4m、西側の後円部径約50m・高さ3m程と確認された。副葬品などは住宅の敷地下にある。寺古墳群にも属するとのこと。

前方部(道路がくびれ部)    後円部=赤○が遺跡碑      後円部北西望    後円部北望 

f:id:OSAKA-TOM:20200805184020j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805184054j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805184416j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805184313j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805184341j:plain

雷塚古墳(森1号墳)

交野市森。尾根を利用した4世紀の前方後円墳。全長106m。後円部3段・径56m・高さ9.5m。前方部2段・最大幅32m・高さ4.1m。くびれ部幅22m。後円部に比べ前方部の幅が狭く、高さも極端に低い点(高低差10m程)や、前方部が三味線のバチ形、 墳丘部に埴輪や葺き石などが見られない点などが、古墳時代前期古墳の中でも古い築造と見られる。なお、森古墳群は前方後円墳4基、円墳1基等から構成される。古墳発見のキッカケは、化石探しの小学生3 人が森地区山中で土器片を発見したこと。S57年に向井山、卵塔、 大知谷、ゴミケ谷にかけ五つの前方後円墳が確認された。その中でも最大の規模が当古墳で、周囲に陪塚と見 られる円墳も見つかっているらしい。

鍋塚古墳(森6号墳)

南山弥生遺跡のすぐ北西、交野市最古級の古墳ともされる。南山弥生遺跡は古くから知られていたが、防災施設の無線基地設置の際、事前発掘調査で、遺跡西に位置する古墳時代後期の群集墳の一つと考えられていた鍋塚古墳が、実は全長67m、後方部幅34m、前方部幅28m、くびれ部幅16mの前方後方墳であると判明した。墳丘の埴輪も見あたらず、主体部と思われる位置に露出していた板状割石から、竪穴式石室を持った古墳と推定され、森古墳群のなかで雷塚古墳よりも古いのではないかと考えられるらしい。

f:id:OSAKA-TOM:20200805185444j:plain

    *Yahoo!地図を編集・加工しています。

 

河内森駅から車道(傍示街道)で、雷塚古墳は1km程、鍋塚古墳は雷塚から0.6km程。結構キツい登りだが、車なら鍋塚古墳迄でも10分くらい。舗装道路だが、「ポツンと・・・」というテレビ番組に出てきそうな、車幅ギリギリの道。所々に離合帯はあるが、Uターンできる場所がない。私は鍋塚古墳南東の「南山弥生時代住居跡」の石碑の処で何回か切り返して、やっとUターンしました。鍋塚古墳は道沿いなので場所は分かりましたが、ハッキリした墳丘は確認できませんでした。雷塚古墳にいたっては傍示街道からの登り道が分からずパス。

麓下から尾根を歩いて登るルート交野集会所前の道の一本東奥の道から民家を抜けて山へ登る。少し行くと右手に農業用水池が二つ。この辺りを卵塔(らんとう)と言い、この道を卵塔の道と呼ぶらしい。尾根を登りきる手前辺りの左手にまず古墳がある(森2号墳)、その上の大きな前方後円墳が雷塚古墳。

 

鍋塚古墳前方部東端    鍋塚古墳前方部墳頂?  南山弥生遺跡碑     雷塚古墳への徒歩ルート

f:id:OSAKA-TOM:20200805185842j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805185913j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805185944j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200805190017j:plain

                            *Yahoo!地図を編集・加工しています。

 

ここから、府道736号→府道20号線で6km程先の、寝屋川市の石宝殿に向かう。 

osaka-tom.hatenablog.com

 

下池山古墳周辺

天理市成願寺町。栗塚古墳・下池山古墳。2019.7.17(水)訪問。

 

[http:/]

栗塚古墳

天理市成願寺町。大和おおやまと古墳群を形成する古墳時代前期?120mの前方後円墳。前方部は削平され169号線が通るので円墳に見える。発掘調査未実施で詳細不明。後円部すぐ西側はコンビニの駐車場。

*GoogleMapsを編集・加工しています。栗塚古墳近景東望        同左遠景北望 

f:id:OSAKA-TOM:20200620092505j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200620092845j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200620092916j:plain

   *PCなら画像をクリックすると拡大されます(スマホならピンチ拡大して下さい)。

下池山古墳

天理市成願寺町。大和古墳群を形成する4世紀前半の前方後方墳。

全長約120m。H7~8年(1995~96)に石室調査がおこなわれ、長さ約7mの竪穴式石室を検出している。内部からコウヤマキの刳抜式割竹形木棺残片とともに鉄製品等が出土。石室の北西側には小石室が発見され、その内部からは径約38cmの内行花文鏡が出土したらしい。H26年10月国史跡。

東望        後方部南東望     後方部南西望    後方部北端西望   後方部東面南望

f:id:OSAKA-TOM:20200620093358j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200620093438j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200620093514j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200620093544j:plain
f:id:OSAKA-TOM:20200620093612j:plain

この下池山古墳のすぐ北側に西ノ塚古墳(萱生町、古墳時代中期=4世紀後葉~5世紀代、径30mの円墳)・東側にホックリ塚古墳(萱生町、径25mの円墳、その他未調査で不明)がある。